影との戯れ〜映画作家・寺山修司〜

(初出『寺山修司』太陽編集部編、平凡社コロナ・ブックス、1997、pp.36-41)

 

 

「僕は自分では映画作家のつもりでいるんだけれども、ほとんど映画監督というふうに紹介されることがない」と寺山修司は冗談めかして語ったことがある。最後の講演となった1983年4月17日のドイツ映画祭での話である(「ドイツ・この不思議な国」「月刊イメージフォーラム」1983年7月号)。

 実際、寺山修司と映画の関わりは、人が思う以上に長く、幅広く、また国際的だった。

 

 20本を越す彼の長短編映画は、多くがカンヌ・ベルリン・ロンドンなどの国際映画祭で上映され、受賞歴も数多い。海外の映画祭審査員も幾度かつとめ、珍しい作品を発見してはいち早く紹介していた。フランスのプロデューサーとの共同製作も2本あった。だが「映画人」としての活動が(当の映画界の中ですら)十分知られていたとは言いがたい。短編の実験映画も1993年に「寺山修司実験映像ワールド」(14作品、全6巻/のちに16作品収録のコンプリートDVD-BOX、2006年、ダゲレオ出版)としてまとめてビデオ化されるまで見る機会は限られていた。

 寺山修司が最初に映画シナリオを書くのは1959年のこと(『十九歳のブルース』未映画化)。詩人白石かずこを介して知りあう篠田正浩には『乾いた湖』(60年、音楽は武満徹)をはじめ5本のシナリオを執筆。さらに60年には最初の映画『猫学 Catology』(出演 吉村真理,福地健治,早野寿郎,石井保/音楽 前田憲男)も作っている。自らも発起人の一人となった「実験室ジューヌ」の上映会のためで、屋上から落下した猫が死んでいく様を撮ったと伝えられるこのフィルムは紛失したとされ見ることができない。

(「実験室ジューヌ Laboratory Jeune」<ジャズ映画実験室>は寺山と山名義三、金森馨が企画、60年10月有楽町ビデオホールで上映会を開いた。他の上映作品は石原慎太郎『夜が来る』<未完で上映されなかったという説もある>、谷川俊太郎+武満徹『×』、細江英公『へそと原爆』、白坂依志夫『TOO BLUE』、賛助出品として岡本愛彦『IRON』。第2部は詩とアニメーションとモダンジャズの舞台構成として和田誠・吉井澄雄『アート・ブレーキー』<構成寺山修司、出演土方巽>など。モダンジャズがテーマだったので、映画音楽演奏として猪股猛、渡辺貞夫、杉浦良三、渡辺辰郎、原田忠幸、金井英人、今泉俊明らの名がチラシにあった)

 そして周知のように、最後の大仕事は『百年の孤独』と仮題された映画(『さらば箱舟』)の完成であり、文字通りの遺作は家庭用ビデオで谷川俊太郎と交わされた『ビデオ・レター』(84年)だった。この作品は日本のビデオアートの傑作として海外でも広く知られている。

 

 

 寺山修司と映画の出会いは、サーカスや少年倶楽部と並ぶ重要な幼年記憶を形成したようだが、少くとも中学時代——洋画専門の映画館に預けられスクリーン真裏の小部屋でいつも音だけ聞いていた頃——には熱狂的な映画ファンとなっていた(「わが映画事始め」「月刊イメージフォーラム」1980年11月号、インタビュアーかわなかのぶひろ。のちに『寺山修司イメージ図鑑』フィルムアート社、1986年、に再録)。

 しばしば虚構が入り交じる彼の自伝的回想には「三歳のとき、押入れに閉じこもって針で穴を開けそこから覗いた世界がカメラ・オブスクラのエロティシズム見世物になった」といった記述まで見出される。

「自己を物語的な連続体の中でとらえようとする意識」が生む「私という名の病」を終生批判し続けた寺山修司にとって、「私」の虚構化(虚構的自伝)は必然的なものだった。それを芸術の方法にまでした点ではフランスの現代美術家クリスチャン・ボルタンスキー(1944-2021)と通じる。「偽の伝記」「嘘の履歴」を人生と作品の基に置く作家だった。面白いのはボルタンスキーが1960年代末に作った短編映画もよく「寺山的」と言われたことである。

 「いちばん影響を受けた映画」として引き合いに出されるのは『アンダルシアの犬』(ブニュエル&ダリ、28年)とほぼ決まっていた。このスキャンダラスなシュルレアリスム映画の製作にも携わったフランス人プロデューサー、ピエール・ブロンベルジェは、ルノワールやゴダールらの製作でも著名だが、回想録『シネマメモワール』にこう寺山について記している(齋藤敦子訳、白水社、1993年、p.238)。

 「日本のプロデューサーたちからは無視されているようだが、私はとても偉大な映画監督だと思っている寺山修司の『草迷宮』を製作できたのは、とても幸せだった。」

 その後もオッフェンバックの『ホフマン物語』を一緒に準備していたが、体調の悪化で実現には至らなかった。ちなみに『ホフマン物語』は1951年にパウエル&プレスバーガー(『赤い靴』のコンビ)がオペラとバレエのテクニカラー大作として映画化している。もちろん寺山修司のお気に入りの一本であった。

 

 

 映画を作り始めたとき寺山修司はすでにシュルレアリスム映画やアンダーグラウンド映画について知識を持っていたし、自分の映画を「アヴァンギャルド映画」とはっきり意図して作り続けた。

 したがって、長編か短編か、劇場公開用か実験映画か、セリフがあるかイメージだけか、などはあまり区別する必要がないし、そうすべきでもない。むしろ、即興的な場面にさえ一定の完成された画面を求める(そのため人工的に見える)その様式性や撮影の完璧さ、そしてコラージュ的なイメージ配列に一貫した特徴があるといえる。

 また、35ミリや16ミリの幅のフィルムが巨大化する「スクリーン」という場に、映画という装置全体を特殊に象徴化させることがよくあった。メディアを物質化して捉える発想は他のメディアでも見られた独特なものだ。

 たとえば、寺山修司の絵本に『だれが子猫を切り抜いた?』(落田洋子絵、1979年、CBSソニー出版)がある。主人公の妻が誰かに「切り抜かれ」失踪、追跡する探偵や余白を描く画家も登場し、やがて孤独な音楽青年の母親が犯人とわかる。息子の胸に開いた少女の形の空洞を埋めようと夜毎ハサミで女を切り抜いた彼女が、ある日自分を切り抜き当てはめるとぴったり合う。「見る見るうちに母親は、少女のように若返ってゆきました。」

 そして世界はスクリーンのように真白な余白に変わってしまう。問題は自伝を暗示する物語ではない。これが単なる文字の世界でなく、人物が実際に白い余白だったりページが物理的に切り抜かれている点である。絵本は紙で出来ているから切り抜けるという物質的発想。その上に「切り抜かれるってことは、名前や住所や記憶から切り離されるってこと」という詩的意味づけがなされ、「どこかに切り抜かれた人ばかりの町があって、皆思い出を失くして暮らしてるんだ」と展開する。

 寺山修司のスクリーンはしばしばこの「切り抜かれた」ページと似た扱いを受けた。光=映像がさえぎられたり(蝶服記)、映像=記憶が文字通りゴシゴシ消し去られたり(消しゴム)、人がその中に引き込まれ丸裸で放り出されたり(ローラ)、観客が釘を打つよう求めたりする(審判)。そうした物理的・物質的な行為はしばしば「私」や「記憶」にからむ詩的隠喩へ転換されるのが常だった。

 

 

 だから、寺山修司の映画は単純な幻想映画でもなければ単純な概念映画でもなく、「映画というもの」(システムや構造)の意味を問いかけながら、シュルレアリスム的なデペイズマン(dépaysement:本来のpays<故郷・国>から切り離し転移する手法)で観客をゆさぶるのである。デペイズマンは異郷感覚とも訳されるが、そこに懐かしさや夢のような不思議な感情が伴うことも見落とせない。

 偽自伝を映像化した『田園に死す』のラスト、青森の家のセットをバラすと新宿の東口が現れる有名な場面も、やはりドラマや構造の解体だけでなく別の幻想や感情を孕んでいた(映画の異郷としての現実?)。『書を捨てよ町へ出よう』の後半で「映画はここまで、後は俺がしゃべる番です」とカメラ=観客に語り出す主人公が「ただのスクリーン」を強調し「真昼間のビルの壁に映画が映るかよ」と挑発する場面にしても同様だ。

 こうした物質的直接性や詩的転換を、寺山修司に一貫する「二重性」の体系として捉えるべきだと指摘したのは、『奴婢訓』海外公演にも客演したイギリスの映画評論家トニー・レインズだ。寺山映画の即物性と詩情、過激さと慎重さといった二面性を、夜の新宿の若者と恐山の亡霊を重ねて見た寺山修司の病床体験と結びつけ、そこに対立やダブルバインドがあるという。

 「寺山は物理的な現実と精神的・心理的な現実の両方に引き寄せられ、両者を同時に見ること、とりわけ対立物として見ることを主張した。」「一方の手で何かを差し出しながら他方の手でそれを取りあげるような人間ともいえるだろう。」  愛/憎しみ、創造/破壊といった単純な対概念であれ、新宿/恐山のような「謎めいた二重性」であれ、両者を同時に対立物として見ること。やはり謎めいた即物性/幻想性の「緊張を維持する寺山の超人的な能力こそ、彼の詩人としての才能の証しであった。」(「新宿詩人日記」『寺山修司・青少女のための映画入門』ダゲレオ出版、1993年)

 本質的には都市的で繊細な美的人間であった寺山修司が、それを隠すように方言や東北の土着性を強調したのは、なるほど自己隠蔽と同時に二重性の戦略であったかもしれない。「私」という現象も他と同じ二重の現実として見た(見せた)結果といえるからだ。

 

 

 こうして寺山修司の映画的思考をたどっていると、『田園に死す』『さらば箱舟』といった代表作もさることながら、影と実体の関係を扱った小品『二頭女−影の映画(77年、15分)が、自立/依存という寺山的二重性の根源的イメージとして際立ってくる。

 実体に依存して存在する影がその自明な一体性から自立し、隠された二重性のドラマへ入り込んでいくこのデリケートな映画には、「私」の二重性が、即物性(絵具の影の計測や拭き取り)と詩情(恋の残像)が、「切り抜かれた」記憶や「不在」の痕跡が、内面と外面が、可視と不可視が、さらに幼年期の影絵遊びの思い出までが、絶妙なバランスで混合され共在している。そのすべてを椅子に座り静かに見つめる観客=作者自身の影(後姿)の前でセットが片付けられ映画は終わる。

 この優雅な影との戯れこそ、寺山修司の映画論と自我論の最高のエッセンスではあるまいか。その影は実体(観客)にこう語りかけているのだ。

 「スクリーンの中は空っぽなのだ」、そして「全ての意味によって充たされた不在なのだ」と。あるいは、「「私」という名のストーリーは終った。スクリーンの中には「私」はいない」、そして「私とは、百万人のあなたのことだ」と(「影なき男の影」より、「月刊イメージフォーラム」1981年4月号)。

 

©西嶋憲生