光の洞窟で──構造映画覚え書(1990、未発表)

(本稿は『生まれつつある映像』(1991、文彩社)の1章として書かれたが海外作品論のため収録せず未発表のままとなった)

 

 

 映画史に「ゴダール以降」という区切りが存在する如く、我々は「ウォーホル以降」という次元を想定できるだろう。ウォーホルが「映画」という自明な娯楽スペクタクルの歴史にまったく異質な次元を導入したことは明らかだからである。だが、それは正確には何であったのか?

 アンディ・ウォーホルの映画について、それが映画の原点への回帰、リュミエールへの回帰であるという言い方が(本人も含め)よくなされたが、列車の到着を固定カメラ、1リール回しっぱなしで撮ったリュミエール兄弟(のキャメラマン)は、ある人間的なまなざしをもって列車と乗降客を撮ったように思われる。そこに写し取られたのはごくありきたりな日常的光景のひとこまであり、日常的時間のひとときであった。

 だが、ウォーホルはそれよりずっと「以前」に戻ったような印象を与えるのだ。映画が(情感を伴った再現技術である以前に)本質的に機械にすぎないという地点である。そのまなざしは本来人間の眼とは異なるキャメラとフィルムの光学反応なのだ。そんな機械の眼に写し取られた人間の現実とはいかなるものなのか? 我々がふつうに生きる日常生活世界を逸脱した視線にさらされた我々自身の姿。我々が自分で思う「私」ではなく、本質的な「他者」としての視線を映画という機械に見出したのが、ウォーホルという他者であり、ウォーホルという<現在>だったのではあるまいか。

 ウォーホルは、カメラの自動運動にできるかぎり身を委ねることにより、作者(=人間)の意思を越えた視点を獲得し、人の意識の外にあることを引き出した。「作品」を作らないことによって成立する作品という何ともパラドクス的な存在状態、しかし誰かがそういう特殊なコンセプトを持たない限り、ふつうには見出されがたい視点なのである。

 『イート』でも『キス』(ともに63年)でも、そこに流れている時間は撮影中の時間(毎秒24コマで撮影)とは違っている。毎秒16コマで上映されることで1.5 倍にスローダウンされるからばかりでなく、出来事の始めと終りがフィルム(1リール)の長さに規定されている。そしてこうしたフィルムを見続けていると、人間の側の時間を越えた、メディアの側の時間、フィルムの側の時間が見えてくるように感じられるのだ。それはウォーホルのフィルムがそうであるように、始めも終りもなく起承転結もクライマックスもない「時間」である。『チェルシー・ガールズ』(66年)の1巻ごとの長回し、編集もせずにリーダーごと見せてしまう時間。それは無論、劇映画の時間ではけっしてなく、リュミエール映画の時間ですらないのかもしれない。その時間こそがウォーホル以降のメディア的原点、ゼロ地点なのだといえる。

 よく知られるようにウォーホル映画は彼の生前、ごく一部のポピュラーな作品を除きほとんど一般公開されなかった。だから幸運にもそれを見た者の数はごく僅かであった。にもかかわらず、彼の映画は、あるいは彼の行為は、それ以降の映画のスクリーンをあるいはフィルムを(理論においても制作においても)本質的に変えるほどの認識論的転換をもたらしたように思われる。彼の行為を経た後の映画的現実──それを我々は生きているのだが──が「ウォーホル以降」と名指されねばならない所以でもある。

 

 

 トニー・コンラッドの『フリッカー(明滅)』(66年)は、実際には光を遮断する黒いコマと透明な白いコマの数学的・音楽的組合せだけでできたフィルムだった。その「闇」と「光」、0と1、というもっとも極限化された構成要素を待つまでもなく、このフィルムは「最初の映画」であり、直ちに「最後の映画」でもある。そこには空間も時間も、ドラマもイメージも、平面も奥行も、モノクロもカラーもない。「私」の内で起こっていることと外で起こっていることが完全に一体で共鳴している。それは根源的体験だ。感情があるだけであとは空白の根源。それが映画の真の姿というわけなのだ。そこはたしかに映画が発生する「最初の」ミニマルな場だ。が、それは余りに初源的な光の体験としてあらゆる文化を越えてしまう。いかなる意味も解釈も受けつけず、そこから先に進めば光か闇かしかない「最後の」地点でもある(光だけの映画としては、スヌケ(透明)フィルムを映写するナムジュン・パイクのフルクサス映画『フィルムのための禅』があるが)。

(『フリッカー』のフィルム)

 一元的世界の果てしない退屈に陥りたくなければ、0と1の組合せでゲームを始めてみるしかない。だが、光の明滅に変化やズレを持ち込んでも、それはもはや根源的体験から後退した造形的粉飾にすぎなくなってしまう。「最後の映画」から先には進めない。だからこそ我々はこの地点をも「フリッカー以降」として措定しておくべきであろう。

 

 

 なぜ、映画がある時期こんな根源にまで行き着いてしまったのか?

 歴史であれ日常であれ我々の生きる時間があり、それとは別の「フィルムの時間」がある。スクリーンという空間のなかにフィルムの時間があり、それを我々は19世紀末から持ってしまった。実人生の時間とフィルムの時間の微妙な浸透・拮抗が「映画」を成り立たせてきたといえる。実人生のピークやクライマックスを、フィルムというもっと抽象的な時間が受け止め、限定された上映時間のなかに別の時間を生み出すことで現実とパラレルに淡々と存在し続けてきた。そこにドラマやクライマックスを見るのは観客の実人生の側の時間にすぎない。このことは長く気付かずに済まされてきたが、時空間や知覚についてラディカルな問題意識が見たり感じたりする感性の構造を組み替えてしまった1960年代にフィルムの時間もまた際立った尖鋭化を見せることになったのだった。

 概念というものへの感覚的接近。概念と知覚(感覚)が深いところでつながりあっていた時代。それが1960年代という時代だったと思う。今日、意味に裏付けられぬ感覚が一人歩きし、体験を伴わぬ知がもてはやされる時代の欠損感、いかさま臭さとは比べようもない「時代の膨らみ」である。しかし、60年代を何らかのクライマックスに置くことはフィルムの時間にそぐわない。フィルムの時間はその都度「終」と指示されることはあっても実際に止まることはなく、いや、だからこそ、つねに劇映画は「終」とか「完」とか出さなければ心理的に幕の下ろしようがないのだが、映画はどれだけ続いてもいいのだし、個々の映画を越えてフィルムの時間は織り出され続けているのだから。

 

 

《光の洞窟、白き闇の穴ぐら、光輝く黒さのまだらな動きでしみついた影の内部を通り抜け、真四角の回廊をすすんでこの部屋への入口(プロジェクターの「門(ゲート)」)から「ありえない」(想像力の)部屋…スクリーンという平面的な「洞窟」…へとたどり着く。そこからは迷路という言葉がぴったりな入りくんだトンネルへと分岐していき、その先はこの部屋の無数の眼(その一つ一つが「門」だ)に、それぞれ一対の眼のうしろで渦巻く光の回転につながり、さらにそれぞれの脳の灰白色の丘や谷で、多頭の恐るべき怪物たちにつながっている…このヒドラこそ我々すべてが危険な天使のもつれ髪のなかで共有している奇形性の表象といえる。この最も禁断の、まったく異邦の地で、本能的な神経を細切れにする電気仕掛けの頭脳=眼鏡。》──スタン・ブラッケージ『映画伝記』1977

 

 

 ロフトの一角からカメラが室内を捉えている。カメラの位置はまったく動かない。最初は何が起こるか分からない。見る者は何かを待つ。実際、この光あふれる部屋ではいろいろな出来事が起こるかに思われる。ラジオからはビートルズの「ストロベリー・フィールズ」が流れるかと思えば、運送屋が棚を運びこんでくる。窓が閉められ、夜になる。「何か」への期待はより一層カメラの視線の行く先に眼を凝らさせる。ところがカメラは微動だにせず、起こりうる事態には一向に無関心なのだ(昼/夜の時間の反転にも)。いや、微動だにしないとは正確でないかもしれない。わずかずつググッと画面内の情景(窓のある室内)は狭まっている。言い方を換えれば、視線=注意が少しずつ少しずつ窓の方へと寄っていき、それに伴って画面がアップになっていく。レンズが、つまり、体でなく眼だけが驚くべき遅さでズームアップしている。それはさほどスムーズな導入ではなく、多くの「ノイズ」に満たされている。カメラもときにグラつきやブレ、ピントのずれがあり、頻繁に変わる露出、フリッカーやフィルター、ネガ、オーヴァーラップの使用をはじめ、音も現実の道路音から正弦波の周波数音(50〜12000Hz)に変わるなど一見したミニマルなコンセプトに対して視聴覚的雑音が寸断の感覚を生む。しかしカメラを中心とする時間はほとんど静止している感覚として体験される。いみじくも作者はこの長回しフィルムについて「時間のモニュメント」と言ったが、この空間のフィルムは見ているうちに無限に続くかと思われ、ちょうどLSDの引き延ばされた時間体験に似たものに転じていく。

 そのカメラ=観客の純粋に視覚化された時空間体験(これも一つの「神経系」だ!)の外では、しまいに何やらヒッチコック的な殺人事件(六、七発の銃声)まで起きてる気配である。しかしカメラは(昼夜が入れ替わったりネガポジが逆になっても)ついに無関心を貫き通し、一度位置かレンズが変わったようだが四十五分の後に、窓辺の柱の一点へ、壁にかかった一枚の波のモノクロ写真のアップへと吸い込まれて終る。無音のまま画面がややセピア色の波の写真で占められる。ミステリアスな終結だ。謎の解かれないミステリーとしてアントニオーニの『欲望』(六六年)を暗示しているようにも思えるが、スノウがそれを意図したかどうかは定かでない。冒頭の部屋の全景からは予想できなかった終着点だが、この不変の二次元に凍結されたスティル写真(映画のメカニズムのもとにある一コマの静止画像)に至る「知覚の旅」は,爽快なリフレッシュ感覚のもとに終結するのだった。

 マイケル・スノウの『波長』(67年)。この「現象学的」フィルムにおいて、我々は時間をかけて空間を通り抜け、平面(ただし三次元のイリュージョンをもった)に至る。こんな芸当は映画にしかできないが、また誰もそういうことをやろうと思いつきもしなかった。その意味で、写真家でありジャズメンでもあるスノウは映像の冒険家・探検家である。そして、この映画も単に構造的探究として概念的・哲学的にばかり受け取られてはならない。ズームが前進移動に代えられたら体験の質は全く変ってしまう。何より空間を知覚によって再経験するという発想には、サイケデリックやトリップの<知覚の時代>の精神の形が見え隠れしている。そこにあるのは論理の明快さではなく混沌の歓びだ。モノではなく出来事としての映画の特性が、息づまるほどサスペンスにみちた経験としてせりあがってくる。ズームというカメラ=眼の機能に官能的なまでに惑溺するこのフィルムは一つの眼球譚でもあった。

 

 

 スクリーンという「平面」が三次元のイリュージョンをもつ「空間」になる。基本的にはこれが「フィルムの空間」だ。リュミエールの列車がスクリーンを走ったときから、いや、そのずっと以前から成立してきたこの動く疑似三次元空間は、日常的・経験的に生きている空間とは別の「超越的な空間」として不思議ではあるが自明なものとして受け入れられてきた。いつも眼で見るだけのそういう空間に、肌で触りその「中」へ入るトリッキーな身体体験、それが『フリッカー』から『波長』への空間の回復が伝えようとしていた「内容」である。そこでは映画がなまなましい光と音として観客の身体に流れ込むだろう。『波長』は、精神的なスタイルがレクイエムにも似た静的興奮を呼び覚ました。しかしさらにその<形式>が、形式主義としてではなく、いつか新しい表現者にとって「必要」とされるときがくる。芸術の自己対象化のためばかりでなく、そういう形式でのみ表現可能な感覚(感情)や意味(内容)が登場してくる。それは感覚の映画か意味の映画かわからないが、タルコフスキーの「記憶の部屋」であったり(『鏡』には『波長』によく似た長いカットがある)、デュラスの新しい語りであったり(『オーレリア・スタイナー』や『ベネチア時代の彼女の名前』『陰画(ネガ)の手』)、日常生活の空間的批判であったりファシズムのイデオロギー批判であったりするかもしれない。が、形式の誕生がこれまでにない表現の欲望を発生させるはずである。

 

                  ☆

 

 『波長』の部屋は、さらにその部屋で上映されるのがふさわしい映画へと連想をかきたてる(『メカスの映画日記』68年8月1日参照)。たとえばアーニー・ゲア(Ernie Gehr, 1941- 、ゲール、ギアとも表記)の『穏やかな速度(Serene Velocity)』(70年、サイレント、23分)。

 無人の建物の廊下が写しだされる。蛍光灯のせいか全体が緑色の発色で、壁にはたての縞、奥行がX字形の幾何学模様に見える。カメラはその位置から(またしても!)動かない。何が始まるのか?今度はどこへ行き着くのか? この緑色の廊下はすぐに少しずつ振動を始め、動かないはずの廊下空間が奇妙にリズミックな収縮・痙攣を始める。ループ映画がくりかえしのなかで生命を持ち始めるように静止空間が脈打ち始める。ズームレンズの焦点距離を50ミリを中心に5ミリ動かしては4コマ、戻しては4コマと60フィート撮影し、次に45−60ミリ、40−65ミリと幅を変えながら60フィートずつ撮っておく。そのうち空間のピストン運動が起こり、天井と壁が別々にうごめき出す。ちょうどパリの地下鉄モンパルナス駅の長い長い「動く歩道」からの風景に似た奥行のめまい。その運動する奥行がときに突き出したピラミッド型や単なる色の広がる平面にも見える。次第に元の場の空間的リアリティは失われ抽象的な視覚の場に反転しつつ、同時にそれが廊下の具象性とオーヴァーラップしている。

 『穏やかな速度』はレンズのズーミングというより一種の眼のマッサージであり、意識の(視覚思考の)マッサージに思えた。それはもはや機械の眼、レンズの眼ですらない。「知覚装置」としてのフィルムが自己維持しつつ変形していくシステムだ(もうひとつの「神経系」!)。のちに作者がこう言っていることを知った。「私自身を表現するのはできるだけ抑え、その分映画作品が関わっているフィルム物質自体から精神的な目的のために何かを外に引き出したいという欲求です。精神的と私がいうのは、ムードや感情を醸し出すためにフィルムを操作するのでなく、精神が単純に物質や提示されたフィルム現象を観察し消化できるようにして、精神を自らの意識に敏感にしてやるということです。」(71年のメカスによるインタビュー、「フィルムカルチャー」誌53・54・55合併号)

 

 この映画は『波長』と並ぶ "ズームレンズの映画" である。ズームの機能を劇的に主題化したというより、ズームの存在が「フィルムの」時間や空間にとってどんな意味や感覚を持ってしまったかを際立たせた映画というべきであろう。

 ズームといえば1920年代後半に試作され、かのクララ・ボウの『イット(あれ)』(27年)の冒頭シーンで使われたのが早い例だが、当時はf.11とレンズが暗く、32年のテイラー=ホブスン「ヴァロ」レンズを経て、16ミリ用ができた40年代後半から一般化、マキノ雅弘(正博)の『昨日消えた男』(41年)でも見かけるしゴダールに従えば「ロッセリーニの発明品」(『ゴダール映画史』奥村昭夫訳、Ⅱ巻472ページ)ということだが、本格的には63年にアンジェニューの10倍ズームが登場してからである。35ミリで25〜250ミリ(f.3.2 )、16ミリでは12〜120ミリ(f.2.3 )という高精度なもので、65年にクロード・ルルーシュが監督・撮影した『男と女』に効果的に使ってそのメロドラマ的でスタイリッシュな用法が流行したこともよく知られている。

 1970年代に至るとズームはむしろスタイルの要諦として、ロバート・アルトマン、ミクローシュ・ヤンチョー、ベルナルド・ベルトルッチ、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーといった作家やヴィットリオ・ストラーロ、レナート・ベルタ、ミヒャエル(マイケル)・バルハウスといった撮影監督にとって重要なツールとなるのだが、それはいうまでもなく、ズームというフォルムが「フィルムの」時間と空間と倫理に密接に結び付いているという直観に基づくものであっただろう。

 そうしたズームの映画史においても「ズームのための映画」といえば『波長』と『穏やかな速度』にとどめをさす。そこではレトリックとしてではなく、完全な空間の変容が生み出されるからだ。のれるのれないという見る側の状態のちがいはあれ、『穏やかな速度』は鏡の部屋のようにめくるめく体験だ。この直接的な視覚体験に、我々は同時にきわめて知的な映画への省察も経験する。その理論と実践の独自なバランスに時代精神の形を感じる。この時間のなかでのジオメトリックな空間の歪みという「形式」は、テクノロジーとファンタジーの結合による視覚的幻想という方向で、80年代に向けて比較的大きな潮流をなしていくのだが。

 

                  ☆

 

 ネガの森の彼方に住むF・W・ムルナウの吸血鬼「ノスフェラトゥ」は、朝の光のなかでに哀しげに消滅していった。死ぬのではなく、光を浴びて「消滅」したのだ。何たる啓示だろうか。一条の光が闇の空間(映画館)を広がっていき映画がそこに立ち現れる。その闇が失われ、その部屋が光(それはつねに平板で曖昧な光でしかないが)に占領されてしまえば、映画は消滅するしかないのだ。闇が支えているこのはかない光の生存に敏感でなければならぬ。

(初稿1990、未発表、400字18枚)

 

©西嶋憲生