メドヴェトキン、ヴェルトフ、マルケル、そしてゴダール

(初出、アテネ・フランセ文化センター特別上映「アレクサンドル・メドヴェトキンとジガ・ヴェルトフ クリス・マルケル『アレクサンドルの墓』をめぐる2人の映画作家」(2000年1-2月)チラシ用原稿と思われる。後に同センターのウェブサイトにも掲載)


 

 

 メドヴェトキンという名を知ったのは「美術手帖」1972年2月号の「映画における今日−メドヴェトキン=スロン=連帯を」と題する邦和彦の文章でだった。クリス・マルケルが作ったフランスの労働者映画集団の動きと彼らが発見し71年12月劇場公開にこぎつけた『幸福』(34年)のこと、そしてメドヴェトキンの「映画列車」について18ページもの詳細な報告をパリから書き綴った記事だった。

(その後名前を見かけぬ邦和彦が何者なのか長いこと謎だったが、ずいぶん後にどうやら中川邦彦のペンネームだったらしいとわかった。中川氏は『距てられた部屋、あるいは/また、アラン・ロブ=グリエに捧げる秘かな部屋』などの映像作家で東京造形大学元教授。2017年没)


 私が愛読していた「季刊フィルム」ではその前年「映画=眼 ジガ・ヴェルトフ」特集(第8号、1971年3月)を組み、ヴェルトフの宣言や日記・論文・経歴を初めてまとめて紹介した。ロシア・アヴァンギャルド再評価の始まりというより、ゴダールの「ジガ・ヴェルトフ集団」(1969年結成)を通してその名が知られたロシアのドキュメンタリストへの関心で、読者の興味も何よりゴダールにあった。したがって、当然のようにゴダールのインタビュー「なぜ<ジガ・ヴェルトフ集団>を名乗るのか?」が同時収録されていた。

 メドヴェトキンの名を知ったのは、ちょうどヴェルトフの活動を知り新たに輸入された『カメラを持った男』(29年)の先駆的映画意識に(40年以上も後に!)興奮していた頃だった(『幸福』が日本で初上映されるのはさらにそれから4半世紀後のことだが!)。

 

 メドヴェトキン、ヴェルトフ、マルケル、そしてゴダール。この多重カップルの近さと遠さは『アレクサンドルの墓/最後のボルシェヴィキ』(クリス・マルケルによるアレクサンドル・メドヴェトキン[1900-1989]へのオマージュ、93年)でも随所に言及される。たとえば、マルケルはナレーションで「ヴェルトフはもっとも君(メドヴェトキン)に近い」と断言しつつ「君らを対立させる者もいるが。そうじゃないかね、ジャン=リュック?」とゴダールを皮肉る。ヴェルトフとメドヴェトキンが一時同じ建物に住んでいたという驚くべき事実を明らかにしながら、「でも二、三言しか言葉を交わさなかった」と二人の現実的接触は否定する。

(アレクサンドル・メドヴェトキン、『アレクサンドルの墓』)

 

 その一方で、ヴェルトフが「映画列車」に乗り込む貴重な瞬間が出てくるし、『カメラを持った男』の断片(特に列車がらみのシーン)も繰り返し引用される。証言者として登場するヤーコフ・トルチャン(1901-93)は『世界の6分の1』等を撮影したヴェルトフの仲間でメドヴェトキンとも親しかった。フィクションとドキュメンタリーの分かれ道は二人の映画観も人生も大きく隔てたが、おそらくエイゼンシュテインより多くの接点を二人は持っていたことが『アレクサンドルの墓』から感じられる。

 


 ゴダールとマルケルも68年5月革命の渦中にそれぞれヴェルトフとメドヴェトキンの名を冠する戦闘的映画集団を結成、新たな政治映画を模索する。それ以前にマルケルの音頭で作られたオムニバス映画『ベトナムから遠く離れて』(67年)にゴダールも参加。映画カメラと自分自身を撮影した『カメラ・アイ』で一人異端ぶりを発揮していた。5月革命後は二人とも「シネトラクト(映画アジビラ)」に参加するが、ヴェルトフ集団とメドヴェトキン集団の関係は実の所よく分からなかった。


 「カイエ・デュ・シネマ」の5月革命30年記念別冊「シネマ68」(1998年4月)のジャン=アンリ・ロジェ(1949-2012)の証言で初めてその内実が判明した。

 ロジェはヴェルトフ集団の一員だったが、カルチェラタンのマスペロ書店(フランソワ・マスペロの出版社が新左翼・アナキズム系の本ばかりを集めた書店)で販売するビデオマガジンをマルケルやメドヴェトキン集団とも一緒に作り、撮影のポール・ブーロンもヴェルトフ集団とマルケルの両方の撮影をしていたという。「(両者に)対立は全くなかった」。ただマオイストだったゴダールに対し、当時マルケルはフランス共産党に近かった。

 ヴェルトフを名乗りながらドキュメンタリーを拒んでいたゴダール、集会で上映される政治映画は結局組織や運動の正当化や鼓舞を求められ「映画を政治的に作る」ことを目指したヴェルトフ集団の限界となった、などロジェの証言は興味深い。

 実際にはゴダールがメドヴェトキンに、マルケルがヴェルトフに近いのかもしれない。だが、いずれも歴史の屈折を味わった彼らは、その精神と微妙な体質の親和力によりゴダールはヴェルトフに、マルケルはメドヴェトキンに呼び寄せられていったのだ。

 ところで、ごく最近、アメリカの美術雑誌「アート・フォーラム」が1990年代ベスト特集を組んだ(1999年12月号)。スーザン・ソンダグやJ・ホバーマンらと共に90年代映画ベスト10を選んだ映画批評家ハワード・ハンプトンは『アレクサンドルの墓』をベスト1に推した。そのコメントには「20世紀への別れ。歴史の死傷者(カジュアルティーズ)を想起し、決してやって来なかった未来への彼の夢を想起しつつ」とあった。

 

(補足情報)

映像の国のタイムトラベル  クリス・マルケル『アレクサンドルの墓』(1995)

 『アレクサンドルの墓』は、「映画の最初のエッセイスト」クリス・マルケルが友人のロシア人監督「最後のボルシェヴィキ」アレクサンドル・メドヴェトキン(1900・3・8-1989・2・19)を追悼した2時間のビデオ・エッセイである。

 アルテ(仏独)やチャンネル4(英)といったカルチャーチャンネルでTV放映後、サンフランシスコ等の映画祭招待のほかロンドンICA等で劇場公開もされた話題作、マルケルの最高作との呼び声も高い。原題の"Tombeau" は墓そのもの以外に「死んだ芸術家や偉人を悼み、死者に捧げた詩や音楽」の意にも使われ、ここでもその意味で使われている。

 クリス・マルケルの名はサイバーパンクSFを先取りしたような『ラ・ジュテ』(63年)で最もよく知られていた。核戦争後のパリ、記憶を操作しタイムトリップを試みる科学者とその実験材料にされた男。ほぼ全ショットがスチル写真で「凍結された時間」「一瞬の記憶」を強調して(わずかに動く場面がある)フォトロマンとして描いた伝説的映画である(「12モンキーズ」としてテリー・ギリアム監督が1995年にハリウッドでリメイクした)。しかしマルケルはフィクションの作家ではなく、旅するドキュメンタリストであり詩人である。ドキュメンタリーというより映像エッセイと呼ぶのがふさわしい数多くの美しい作品の中には日本を舞台にした『不思議なクミコ』(65年)『サン・ソレイユ』(82年)『AK』(85年)もある。たびたび来日もし、大の猫好きであることや写真嫌いなことも広く知られるところとなった。

 だがアレクサンドル・イワノヴィッチ・メドヴェトキンとはいったい何者なのか? マルクス兄弟と比較され「ロシアで唯一本当に妄想的なファンタジーを持つ監督のバーレスク喜劇」(L&J・シュニッツェル「ソビエト映画史 1919-40」)と評された傑作『幸福』(34年)の監督。1930年代初めスタジオ・現像設備・編集室を備えた「映画列車」を組織しニュース・宣伝映画の製作・上映を行なった、いま一人のジガ・ヴェルトフ。しかし、エイゼンシュテインやヴェルトフやドヴジェンコほどにも知られず(母国の映画大学の学生にすら忘れ去られ)、スターリニズムと映画官僚に自由を奪われた「社会主義シュルレアリスト」(マリーヌ・ランドロ)。狂気とエキセントリックさとバロック趣味をあわせもつ忠実な社会主義者。ソビエト映画史の「ブラックホール」(本人の言)。動物好きで馬や牛や猫や熊を画面に出さずにいられなかった「代々農民の血筋だった」アレクサンドル・イワノヴィッチ。

 そのエキセントリックな魅力あふれる『幸福』を71年にフランスで初めて紹介し、監督を招き、自ら組織した労働者映画団体を(ゴダールのジガ・ヴェルトフ集団に対抗して)「メドヴェトキン集団」と名づけて再評価した中心人物こそクリス・マルケルだった。

 「あなたが主人公に選んだのは、模範的コルホーズ員ではなく、この時代に制作されたどの作品でも幅をきかせているポジティブな主人公ではなく、最も落ちぶれた、時勢から最もはずれた人物、現実にそんな行動をしたら牢獄か絞首台送りになるような人物だった。」(本作ナレーションより)

 メドヴェトキンの名は、『幸福』の素晴らしさに驚嘆したマルケルとその仲間の情熱によってシネフィルや研究者の間に知れ渡った。そして、その情熱と交遊の集大成がこの『アレクサンドルの墓』といえるのだ。

 たぐいまれなアクロバティックなスタイルで無数の映像の断片が、引用され、縫合され、合成され、分析されていく。メドヴェトキン自身の『幸福』や『新しきモスクワ』(上映禁止)、ニュース・宣伝映画の数々をはじめ、エイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』『十月』『全線』、ヴェルトフ『カメラを持った男』『世界の6分の1』、プロタザーノフ『アエリータ』、ドヴジェンコ『武器庫』『大地』等からプィリエフ『クバンのコサック』、チアウレリ『誓い』『ベルリン陥落』、リーフェンシュタール『美の祭典』、果ては盗み撮りされたスターリンまで。

 さらに写真やニュース映像、それにマルケル愛用の8ミリ・ビデオで撮影された友人・娘・関係者らのインタビューの数々(その中には、彼を最初に再評価した映画批評家ヴィクトール・ディオメン、監督ユーリ・ライズマン、老キャメラマン・ヤーコフ・トルシャン、若手女性監督マリーナ・ゴルドフスカヤ、スターリンに粛正された小説家イサック・バベルの未亡人らも登場する)。

 71年と84年に撮影されたメドヴェトキン自身の姿と声も感動的だ。

 イメージをテクストが解釈し、テクストをイメージが注釈し証言する。『アレクサンドルの墓』では、すべてが視覚化され、引用されコラージュされていく。それはさながら一冊の「イメージの書物」、映像で作り上げられた書物と呼びたくなるような体験である。

 『告白』の車中のイヴ・モンタンがモスクワでの『告白』初上映(90年)に向かう車中のモンタンとつながりあう。マルケルの映像の宇宙では、つねに映画と現実が(対比されながらも)溶け合っている。そうしてモザイク状に織りなされたイメージを矢継ぎ早に見せられる体験は、まるで映像の国(ゴーリキーの言う「影の王国」)を旅するタイムトラベルのようである。

 クリス・マルケルのハンディカムで撮られた人々の表情はとてもうちとけていて親密だ。マルケルのこの作品もまた私的な親密さを保っている。しかし、すでにこの世にいないメドヴェトキンにあてた6通の手紙として構成されたこの映像エッセイは、単なる私信でもなければ一映画監督の追憶でもない地点へ観客を導く。個人の歴史が社会やイデオロギーやメディアの歴史と重なり、ロシア現代史や20世紀文化史や映画100年史がマルケルのイメージの中へと流れ込んでくる。

 『アレクサンドルの墓』は映画生誕100年の年にこそ見られるべき「映画についての映画」なのである。(『アレクサンドルの墓』パンフレット解説、アテネ・フランセ文化センター、1995)

 

『幸福』公開時のフランスのメディア(1997)

 アレクサンドル・メドヴェトキンの『幸福』は1971年12月1日から「ステュディオ・アルファ」で単館ロードショウ公開された。パリのカルティエ・ラタンに数多くあるミニシアターの1館だ。一種のプロローグとして『動き出す列車』(71年、32分)が併映された。『幸福』を修復しムソルグスキーのピアノ曲をつけた作者公認のサウンド版を制作し公開したクリス・マルケルとスロン集団による、メドヴェトキンとその「映画列車」についてのドキュメンタリーである(ちなみにロシア語でスロンは「象」、メドヴェトは「熊」の意味という)。

 さて、当時のメディアの反響だが、1971年12月ごろの新聞・雑誌・映画専門誌は積極的に『幸福』を取り上げていて掲載記事も数多い。「再発見された、というより発掘された」(「レクスプレス」ジル・ジャコブ)この映画に対して論調はことごとく好意的で、この知られざる傑作にマルケルたちと同様の驚きと興奮で反応している。併映ドキュメンタリーも未知の監督メドヴェトキンへの興味をかきたてたようだ。『幸福』と『動き出す列車』が68年5月革命以降の停滞した知的・文化的状況に大きな刺激を与えたことは間違いない。

 当時の受容の文脈を物語るのは、チャップリン(とくに36年の『モダン・タイムス』)と比較した評が多いことだ。「ボルシェヴィキのチャップリン」という見出しの「ポリティク・エブド」12月2日付が「これほど豊かな喜劇作品はソヴィエト映画になかった。『幸福』はまるで奇跡のようにその頂点に達してしまった」(ロジェ・ドス)と絶賛したのが好例。また、むしろバスター・キートンやハリー・ラングドンに近いとする説(「エスプリ」「レットル・フランセーズ」「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」)も出ている。

 チャップリンの名を最初に持ち出したのはエイゼンシュテインで、36年に『幸福』を見た直後に書かれた文章に「チャップリンのギャグは個人主義的だがメドヴェトキンのギャグは社会主義的」で「所有の社会主義的な関係を表わしている」等と評価したが、30年以上も公表されなかった。

 「ル・モンド」12月2日付は多角的な構成で、ジャン・ド・バロンセリの評が「手早く展開する幕間狂言の連続にきわめて繊細なユーモア」を発見し、その「詩と滑稽」を讚える一方、アンヌ・フィリップがマルケルにインタビュー(「上映のたびごとに新しい美を発見する。『幸福』は政治的で同時に詩的な映画なのだ」)、さらにメドヴェトキンを「“絶対的に独創的な”作家」とするマルケルの短文(メドヴェトキンが国外に出られないという一部デマへの抗議)まで載っている。

 「レットル・フランセーズ」12月8日付もミシェル・カプドナクの論考「革命に奉仕する笑い」とサウンド版のムソルグスキーに関するマルセル・マルナの文章の2本立て。

 サルトルが編集長だった「レ・タン・モデルヌ」は1972年2月号にクリスティアン・ツィンメルの長文の批評を載せ、「映画と人間に対する謙虚さ」をメドヴェトキンの特徴とし、そんな映画人は他にヨリス・イヴェンスぐらいしかいないと讚える。「民衆文化に忠実であると同時に、ほとばしる美的創意、厳格さ、ファンタジー、大胆さ、単純さ」をもつその作風は『幸福』が「夢」(しばしば悪夢)に立脚し、「メドヴェトキンはそのファンタスティックな夢や想像力豊かな錯乱、心安らぐ脱線から出発する」からだという指摘は面白い。

 映画雑誌ではマルセル・マルタンの「エクラン72」2月号が特集を組み、『チャパーエフ』と同年のこの映画は社会主義リアリズムと官僚主義へ向かうソヴィエトの最後のユーモアか?とか一見シンプルな下にある美学や形式性(セットの表現主義的トーン、スタイルの独自性)を指摘。批評のほかモスクワでのメドヴェトキン・インタビューやジェイ・レイダ(『幸福』を同時代に見てその著『キノ』に記述した例外的歴史家)の『奇跡を起こした娘』に関する文章も載せた。

 「エスプリ」3月号では、ミシェル・メニルの熱狂に対し「30年代前半の集産化がいかに悲惨な死や餓死や投獄により進められたかという現実も知るべきだ」とクギを刺す投書(ジャン・メイエル)まで見受けられた。(後略、「美術手帖」72年2月号でのメドヴェトキン紹介の話)

(初出不明、アテネ・フランセ文化センターによる『幸福』公開時の解説と思われる。1997年)

 

©西嶋憲生