「伊藤家の人々」memo(2001- )
かなり前からマヤ・デレンの経歴を調べていて、一度「月刊イメージフォーラム」1986年12月号に「「マヤ・デレン」の伝説 アメリカ実験映画の母、彼女について知りえた二、三の事柄」として発表したことがあり、その後のマヤ・デレン論で引用されることも多かった。
しかし、ヴェヴェ・A・クラークらによる大部・複数巻の『マヤ・デレンの伝説』(アンソロジー・フィルム・アーカイヴス/フィルムカルチャー、1984-88)の刊行が始まるまでは、インターネット以前の時代ということもあり大型の映画事典類でも記述はごくわずかで生年すら異なっていて、詳細な情報を得るのはむずかしかった。
デレンの第1作「午後の網目」(最初はサイレント作品)に日本的な音楽をつけた人物Teiji Itoも謎であったが、デレンの3番目(最後)の夫とわかったものの、わずかに1964年5月草月ホールで上演された「六人を乗せた馬車」The Coach with the Six Insides(原作はジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」、美術・衣装はロバート・ラウシェンバーグ)の折に来日したことがあると秋山邦晴氏から伺った程度であった。
その後、父親が伊藤祐司(裕司の表記もあり)とわかったことから、その家系を調べていくと、じつに驚くべき国際的な芸術家一族だった。
Teiji Ito=伊藤貞司
マヤ・デレンの3番目の夫、現代音楽作曲家・パーカッショニスト、日系アメリカ人(米国籍)
1935年(1.22?)東京生まれ、1982年8月16日ハイチ滞在中に心臓発作で死去、享年47歳。8/21付ニューヨーク・タイムズに訃報、共同通信配信で朝日新聞、読売新聞の8/22朝刊に小さな訃報あり。
伊藤道郎の甥になる。道郎の弟・伊藤祐司Yuji Itoの息子、舞踊家テイコ・イトウTeiko Ito-Ono(『マヤ・デレンの伝説2』に名前あり)が母。
6歳で渡米。パーカッションをはじめ多様な楽器を学び、NYで芝居やバレエの作曲家に。ブロードウェイの「カッコウの巣の上で」(62)やNYシティバレエ「ウォーターミル」(71)等を作曲。CDに「ユビュ王」など。
貞司は15歳のとき(=1950年頃)家出して映画館で寝ていたのをデレンが自宅につれていったのが出会いとされる(ビル・ニコルズ編『Maya Deren and the American Avant-Garde』2001,p.180でのジェーン・ブラッケージ・ウォデニングの記述)。
後妻チェレル・イトウCherel Ito-Winett(1947-1999.1.10)と(未完の『Divine Horse-men: The Living Gods of Haiti』の編集を含む)デレンの仕事を集成、顕彰した。
1964年5月草月ホールにて「六人を乗せた馬車」(ジョイス「フィネガンズ・ウェイク」原作)公演のさい作曲家テイジイトウとして来日。
なお、日本庭園についての英文書籍(The Japanese Garden, The Gardens of Japan等 )を書いている同名のTeiji Itoは建築史家・工学院大学教授「伊藤ていじ」(1922−
2010)との混同と思われ、別人である。
<伊藤家の人々>
父・伊藤爲吉(1864-1943、日本の近代建築の先覚者、1885-87年アメリカで建築等を学ぶ)
キリスト教徒で自分の結婚のため駒込教会(現在の西片町教会)を建てたとされる。妻・喜美栄(1867-1942)の兄は、飯島魁(いいじま・いさお、1861-1921、動物学、理学博士、東京帝大理学部でモースらに学びライプチヒ大学に留学、東京帝大理学部教授)
→評伝に、村松貞次郎『やわらかいものへの視点 異端の建築家・伊藤為吉』岩波書店、1994
(参考)「近現代・系図ワールド」というウェブサイトに「伊藤為吉 系図」があります。興味ある方はご検索ください。
長女・嘉子(1889-1959)陸軍大将・古荘幹郎(ふるしょう・もとお、1882-1940。1911年から4年間ドイツ駐在武官、1939年大将に)の妻。古荘幹郎は伊藤兄弟の義兄となる。娘の古荘妙子は舞踊家として知られる。
次男・伊藤道郎(みちお、1893・4・13-61・11・6、長男晃一が1891年生まれてすぐに亡くなり、次男だが長男的存在。そのため道郎を長男とし、以下くり上げて千田是也を五男とする表記も多い)
著名な舞踊家・演出家。19歳で渡欧(1911年?)、パリでロダン、ドビュッシーと交流、ドイツ(義兄がベルリン大使館の駐在武官)ではジャック・ダルクローズ(の学校で学ぶ)と、ロンドンではカフェ・ロイヤルでエズラ・パウンドらと交流。
パウンドに依頼され能を取り入れた(パウンドが当時秘書をしていた)イエーツの英語詩劇「鷹の井戸」の初演で鷹を演じる。
cf.この件ではロンドン在住の画家・久米民十郎(タミ・クメ)とパウンドの交流もあり(五十殿利治の研究、複数あり。ex.『日本のアヴァンギャルド <マヴォ>とその時代』青土社、2001、pp.189-215 「<タミ>の夢とモダニズム 久米民十郎とエズラ・パウンド」)
1916-43年アメリカ在住。戦後、占領軍のアーニーパイル劇場の演出家。東京オリンピックの開会式・閉会式の総合演出の予定だったが準備中に死去。妻は伊藤ヘイゼル。
姪の古荘妙子(2005.2.6没、78歳)はダンスの弟子で、道郎没後もダンススタジオを支え、伊藤道郎財団(詳細不明)を設立したとされる。
→伝記2冊あり
・ヘレン・コールドウェル 『伊藤道郎 人と芸術』中川鋭之助訳、早川書房、1985
・藤田富士男『伊藤道郎・世界を舞う―太陽の劇場をめざして』 武蔵野書房、1992
ほかに、伊藤道郎談「思ひ出を語る−「鷹の井」出演のことなど−」『比較文化』2号(1956、東京女子大学比較文化研究所、聞き手・古川久)ただし発言はやや妄想的なので裏付けを検証しつつ読む必要あり。
早稲田大学 坪内博士記念演劇博物館 伊藤道郎関連資料データベース
→道郎の次男=歌手・俳優ジェリー伊藤(1927.7.12-2007.7.8)
NY生まれ、本名ジェラルド・タメキチ・伊藤。妻は日本舞踊家の花柳若奈(本名・伊藤栄)で、作家山口瞳の妹。
三男・伊藤鉄衛(かなえ、1895-1951)建築家、熹朔の兄、『熹朔画集 1930』に手紙収録あり
四男・伊藤祐司(戦前の文献ではネヘンではなく示ヘン、裕司とする表記もあり)Yuji Ito(1897-1963・11・1(3・31説も?)、63・11・4付「ニューヨーク・タイムズ」に追悼記事あり
音楽家のほか、舞台や映画の衣装デザインも手がけたとされる(『オズの魔法使』のブリキ男の衣装デザインも?)。1917年にオペラ歌手として渡米(メトロポリタン・オペラやラジオシティ・ミュージックホールの歌手だったという)。
妻は舞踏家Teiko Ito伊藤テイコ(ニューヨークの大地主の孫娘テイコ・オノ)で1934年結婚、彼女の東洋舞踊研究のため35年帰国、41年に米国に戻った。
長男・伊藤貞司は1935年東京生まれ、次男のGenji Itoも作曲家で1947年(?)NY生まれ、2001年4月マンハッタンで54歳で死去。
五男・伊藤熹朔(きさく、1899-1967・10・28(68?))
著名な舞台美術家。戦時中の移動演劇協会会長、映画美術家・木村威夫の師匠。青学から美校(=東京藝術大学)へ進む。舞台美術の「伊藤熹朔賞」に今も名を残す。
『伊藤熹朔画集 1930』1994、ワイズ出版
次女・暢子(1902-70)画家・中川一政の妻
→孫に女優・中川安奈(1965-2014)「父方の祖父が中川一政、母方の祖父が千田是也」と語っている(テレビ朝日「徹子の部屋」1998・9・11にて)
六男・千田是也(せんだ・これや)=伊藤圀夫(くにお、1904.7.15-1994.12.21)
著名な演出家・劇作家。日本の新劇史の重要人物、ブレヒトの翻訳・紹介者。
東野英治郎、小沢栄太郎らと俳優座を創立、代表を終生務める。伊藤熹朔の弟。
早稲田大学独文科から築地小劇場に参加、1927年にドイツ留学。
三女・あい子(愛子、1905-?)歌舞伎役者・3代目阪東壽三郎の妻
ほかに、七男・忠雄(夭逝)、八男に建築家の伊藤貞亮(ていりょう、1908-?)、九男に作曲家の伊藤翁介(1911-2009)がいる。