瀧口修造と映画——いくつかの接点

(本稿は当初、多摩美術大学図書館・瀧口修造文庫ウェブサイト<芸術学科現代芸術資料センターが制作・運営、現在は閲覧不能>のために1999年に執筆・公開され、2003年に加筆して「多摩美術大学研究紀要」第18号に掲載された)

 

 

 

それにしても、此の世紀は、何とフラジルな鏡を、発明したものだらう。セルロイド——このあまりにもサンシブルな鏡を、表現の機能とするシネマは、この意味でもつとも現代の性格に値ひするものだと云へるであらう。そして、この鏡こそ、眩惑のもつとも大きなものなのであり、その故にこそ、僕達の時代はひとしく、シネマを呼吸するといつてもよいのである。——瀧口修造「美術とシネマの交流」1935

 

はじめに

 

 多摩美術大学上野毛図書館地下の特別室[現在は八王子キャンパス内アートアーカイヴセンター]にある「瀧口修造文庫」は、詩人・美術批評家 瀧口修造(1903.12.7-1979.7.1)が生前所有した蔵書・資料を1986年に瀧口綾子夫人が多摩美術大学図書館に寄贈され設立された。資料の内容は、和書3628冊、洋書2523冊、雑誌297タイトル3164冊(いずれも整理済みの点数、これ以外に若干の未整理資料がある)、さらにポスター181点およびグルッポTの作品資料など約1万点におよぶ(さらに新規関連資料が追加収集されている)[i]

 これらの資料は次の4グループに大別される。

(1)ダダ・シュルレアリスム関連文献(およそ800点)、

(2)瀧口が戦後関わりをもった若い芸術家たちに関係する美術書、文学書、パンフレット類、

(3)瀧口が執筆や創作を行う上で基礎資料として利用したいわゆる一般書、

(4)瀧口自身の著作物(原稿やノート数点、単行書10点、関連図書約80冊、他に論文掲載の雑誌や監修した全集など)。

 このなかで映画関係書が占める割合は和洋書あわせても驚くほど少なく、何も事情を知らない人が見れば瀧口修造は映画にほとんど関心がなかったのかと思いかねないほどである。おそらく何らかの事情で映画関係書はあまり寄贈されなかったのか、寄贈前に散逸したものと思われる。

 実際には、瀧口修造と映画の関わりは、幼年期に田舎の家で見たチャップリンやマック・セネットの短編喜劇、中学時代に見たパール・ホワイト(活劇女優)主演の連続活劇などに始まり[ii]、戦前の映画製作会社勤務(いわゆるP.C.L..時代、1933-36)や戦後の美術映画『北斎』製作(未完、1951-52)、東京国立近代美術館フィルム・ライブラリー運営委員(1952-65)としての上映企画など意外に幅広く、前衛映画にはシュルレアリスム関係に限らず長く興味を持ち続けた。

 映画に関する文章は1930年代と50年代に多く書かれており、著作集『コレクション瀧口修造』(みすず書房、全13巻、1991-1996、別巻、1998。以下、本文中では『コレクション』第何巻と略記)の第6巻「映像論」(1991)および第11・12・13巻「戦前・戦中篇」(1991-1995)にその多くが収められている。だが、すでに生前から再評価の始まっていた写真論に比べ[iii]、映画論についてはその影響も少なく重視もされてこなかったのが実情である。

 瀧口修造と映画の関係は、単なる評論執筆や翻訳にとどまらず、映画製作、字幕翻訳、シネ・ポエムやシナリオの創作、上映活動など多岐にわたり、この分野でも他の分野と同様、つねに国際的な視野を持ち、異ジャンル間の交流を促し、小集団を組織してグループ活動を試みるという一面をみせた。

 本稿では、「瀧口修造文庫」の蔵書を糸口に、1.美術映画と瀧口修造——「文庫」の1冊の本から、2.美術と映画の交流——美術映画論と幻の映画『北斎』、3.戦前の瀧口修造と映画の関わり——P.C.L.時代を中心に、を論じ、おわりに「瀧口修造文庫」の映画関係蔵書のいくつかの点にも触れたいと思う。

  

1. 美術映画と瀧口修造——「文庫」の1冊の本から

 

 瀧口修造は、美術映画という分野に、確実に大きな貢献を残した。

 美術映画は、英語で “film on art”、フランス語で “film sur l'art”と呼ばれ、日本では1950年代には美術映画という訳語が定着し[iv]、最近ではビデオによる作品も含んで美術映像とかアート・ドキュメンタリーという呼称も使われている。1930-40年代にかけて、イタリアのルチアーノ・エンメル、ベルギーのアンリ・ストルクやポール・エゼールといったこの分野の先駆者たちの力でジャンルとして確立し、さらに40年代後半になると若きアラン・レネが16ミリ短編の『美術家訪問』シリーズ(1946-48、ハンス・アルトゥング、フェリックス・ラビッス、リュシアン・クトー、アンリ・ゲッツ、クリスティーヌ・ブーメステル、オスカー・ドミンゲス、マックス・エルンストら、一部は未完・紛失)を作った後、劇場公開用の『ヴァン・ゴッホ』(1948)『ゴーギャン』『ゲルニカ』(ともに1950)といった短編美術映画を自由で斬新な映画的アプローチで連作したことなどにより、1950年代前半に世界的ブーム化の兆候をみせ、新たな注目を浴びる分野となっていた。

 サスペンス映画の巨匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督が『ピカソ 天才の秘密』(1956、98年の日本リヴァイヴァル公開時に『ミステリアス・ピカソ 天才の秘密』と改題された)で、ピカソが即興的に描くドローイングを丹念に記録し、画家の創作過程に迫ろうとした試みも大きな話題となった[v]。日本でも当時、ブリヂストン美術館・岩波映画・三井芸術プロなどによってたくさんの美術映画が作られ、主に画壇の巨匠や国宝が対象だったが、作家の制作風景やインタビューは今日では貴重な映像記録となっている。

 「瀧口修造文庫」にあるユネスコ発行のフランシス・ボラン著『美術映画:展望1953年』(Francis Bolen, Films on Art: Panorama 1953, Unesco, Paris, 1953)には、瀧口自身の数多くの書き込みやマーキングがあり、この分野に寄せた彼の関心をさまざまに読み取ることができる。

 『美術映画:展望1953年』はA5判80ページほどの小冊子(英語版)で、前半10ページほどは短いイントロダクションに続き、「映画と視覚芸術」(史的概略、分類と定義、規準と利用法、配給上の問題とその克服)、「絵画の新しい次元」(デニス・フォーマン執筆、オスカー・フィッシンガーの抽象アニメーションやノーマン・マクラレンのフィルムに直接描くアニメーションなどについて)が掲載され、つづく50ページ以上が「世界の美術映画カタログ(第三版)」(31か国を網羅した国別のABC順作品リスト)に費やされている。著者のフランシス・ボランはベルギーのジャーナリスト・批評家で、詳しい経歴は不明だが1956年にカンヌ国際映画祭の短編部門審査員をつとめたことが確認できる(同映画祭に前年出品されたジェラール・ドボー監督『ピエール・ロマン・デフォッス』のナレーションも執筆)。

 その内容から見て、この本が翌1954年に東京国立近代美術館フィルム・ライブラリー(1970年に京橋に正式開館する東京国立近代美術館フィルムセンターの前身)での上映パンフレットのために書かれた「美術映画は創造する」(『コレクション』第6巻所収、pp.285-286)の下敷きとなっているのは明らかである。

 その文章で瀧口は、「美術映画は戦後あざやかに浮びあがってきた映画の新しい一分野だということができる」とした上で、『ルノアルからピカソまで』(1950、ポール・エゼール監督)を例に「映画の感覚を通して美術作品を分析し、一つの映画的な創造にまでたかめ、ひいては美術史的解釈や批評をも行おうとする映画が生まれようとしている」と書いている。さらに「美術映画では音の領域が密接に結びつくことで、ことに実験的な作品や新しい手法の映画では、音楽に新しい方法がこころみられる」と重要な指摘をし、『カルダー』(1950、ハーバート・マッター監督)にジョン・ケージがミュージック・コンクレートを付け、アラン・レネの『ゲルニカ』(画家ロベール・エサンスが協力、共同監督)ではエリュアールの詩を女優マリア・カザレスが朗読した例をあげて「美術映画の創造的な面は限りない未来を約束しているのである」と結んでいる。

 短い文章なのだが、瀧口の美術映画への関心が「記録」でなく「批評」と「創造」にあることが明らかな一文である。これが書かれた「各国美術映画週間」(東京国立近代美術館フィルム・ライブラリー月例映写会、1954年11月16日-55年1月30日および3月25日-4月23日)は「我が国ではじめての試みとして『各国美術映画週間』を開催し、各国の美術映画を一週間ずつ国別にとり上げて上映」する大きな企画だった(同映画週間パンフレットの前文)。予定では、日本、フランス、ドイツ・イタリア、ソ連・パキスタン、イギリス・インド、アメリカ、メキシコ・ベルギー等の美術映画が上映されるはずだったが、後日になった国や上映されなかった国もある。ほとんどは各国大使館・日仏学院・日伊文化協会の提供フィルムであった。

 その作品選択に「フィルム・ライブラリー運営委員」として関わった(この企画の中心人物であった)はずの瀧口修造にとって[vi]、本書の「世界の美術映画カタログ」が主要な基礎資料となったことは疑い得ない。チェックされているのは、先述のルチアーノ・エンメル、アンリ・ストルク、ポール・エゼールら美術映画のパイオニアたちの作品(そこにはストルクの『ポール・デルヴォーの世界』1946やエゼールの『ジェイムズ・アンソールの仮面と顔』1952も含まれる)、そしてルーベンス、ゴヤ、ゴッホ、セザンヌ等に関する作品(ゴッホをめぐる各国美術映画の比較上映の企図が伺える)のほか、今日では古典的な『ジャクソン・ポロック』(1951、ハンス・ネイマス&ポール・ファルケンバーグ監督、音楽のモートン・フェルドマンに下線)やカナダのノーマン・マクラレンの一連の実験アニメーション作品集(これも「美術映画」の一分野と捉えられていた)など。ジョルジュ・ルオーの連作版画『ミセレーレ』(1950、モレル神父&F・デュラン監督)も選ばれている。

 なかでも、コンゴ芸術と女性像を取り上げたベルギーの『之を女と名づくべし(Elle sera appelée Femme)』(1953、ジェラール・ドボー監督<Deboeは本書の表記ではド・ボーDe Boeとなっている>、12分)には、アフリカ美術に関心を持つ瀧口らしく特に興味を引かれたようで、自筆の書き込みもある(Flora Robson(E.v.)およびM. André Souris。E.v.はEnglish version、MはMusicと思われる)。『之を女と名づくべし』という邦題も瀧口の命名であろうと推測されるが、フィルム・ライブラリーでその後何度も上映されることになる作品である。もう一本、アメリカの映画史家・監督ルイス・ジェイコブスによる『大鴉(The Raven)』(1952、10分)も注目される。E・A・ポーの有名な詩とギュスターヴ・ドレの聖書や神曲の版画を組合せた作品とある。

 ほかに瀧口らしい関心として次の4作品へのチェックも目を引く。

 イギリスの女性詩人キャスリーン・レイン(2003年7月、95才で亡くなった)の詩にヘンリー・ムアが絵を付けた「巫女」など、現代美術家が詩からのインスピレーションでオリジナルにドローイングを描くシリーズ『画家と詩人(Painter and Poet)』(1951、BFI<英国映画協会>製作、全4集)。これは『妖精の距離』(1937)以来、瀧口が何度も試みた「詩画集」という詩人と美術家のコラボレーションをただちに想起させる。

 戦前来日しホワイト・ライティング(白書き)の抽象画で知られるアメリカの画家を取り上げた『マーク・トビー(Mark Tobey: Artist)』(1952、ロバート・ガードナー監督)。1958年ヴェネツィア・ビエンナーレのコミッショナーおよび審査員として招かれた瀧口は審査会で絵画ではマーク・トビー(大賞に次ぐヴェネツィア市賞を受賞)を最も支持したことが本人の報告に書かれている[vii]

 イタリア未来派から形而上絵画へ進んだイタリアの『カルロ・カッラ(Carrà)』(1952、ピエトロ・ポルタルピ監督)。

 そして、プリミティフ芸術(アメリカ、オセアニア)を扱うフランスの『世界の創意(Invention du Monde)』(1952、ジャン=ルイ・ベドゥアン&ミシェル・ザンバッカ監督)。『世界の創意』のコメンタリーはシュルレアリスト詩人バンジャマン・ペレが書き、監督ベドゥアンもシュルレアリストで瀧口と交流があった(『コレクション』第10巻pp.397-400の「黒い造形の神秘『アフリカ芸術展』」1961でもベドゥアンに言及あり)。ベドゥアンは『シュルレアリスムの20年:1939-1959』(1961、邦訳は三好郁朗、法政大学出版局、1971)の著者でもあり、瀧口修造への献辞付きの原書が瀧口文庫にある。

 残念ながら、以上の4作は日本で上映されなかったようである[viii]

 東京国立近代美術館フィルム・ライブラリーでの美術映画上映は瀧口が運営委員を辞任する時期まで周期的に繰り返されたが、「美術映画は創造する」の書かれた上記の企画が何と言っても最大の催しであり、当時世界中で同時的に機運の盛り上がっていた美術映画の運動を、リアルタイムで紹介した意義はとりわけ大きく評価すべきである。

 瀧口は、既存の映画評論家も美術評論家も関心を示すことのなかったこの美術映画という新たな表現領域に鋭い先駆的な論考を残し、さらに自ら美術映画を演出まですることになる。その点を次章で検討したい。

 

2.  美術と映画の交流——美術映画論と幻の映画『北斎』

 

 詩と絵画、写真と絵画の「間」あるいは「境界」の領域での交流について早くから敏感であった瀧口修造が、美術「と」映画、という境界領域に目を向けることは必然的であったといえる。その関心の痕跡は、(美術映画論ではないが「シネマは、絵画の額縁的構図を完全に破壊してしまふ」という一節を含む)1935年に書かれた「美術とシネマの交流」(『コレクション』第11巻、pp.371-375)にまで遡ることができ、さらに1939-40年頃の「文化映画」(教養的・教育的記録映画を指す戦前の呼称)の可能性への考察(『コレクション』第13巻所収「文化映画に対する要望」1939、pp.126-128、「文化映画と詩」1940、pp.428-433)も下敷きとなったと考えられる。

 したがって、戦後すぐに瀧口が『マティス』(1946)や『ブラック』(1950)といった美術映画の存在を知り、誰より先に紹介したのは当然であり、1940-50年代の国際的動向も熟知した上でたびたび啓蒙的文章も書いたのだった。[ix]

 ところで、こうした美術映画の新たな動きが内包する意味を察知しそれについて発言した批評家は、実際には、日本に限らず海外においても映画・美術両サイドともにきわめて稀だったのである。

 近年、ポンピドゥ・センター(パリ)での体系的な美術映画収集と国際美術映像ビエンナーレ開催(1987-98年に6回開催)などにより、現代美術ドキュメントとして新たな重要性が提起されるまでは、ユネスコで美術映画普及に関わった文芸批評家アンリ・ルメートルの『美術と映画』(1956、原書が瀧口文庫にある。邦訳は当時多摩美術大学助教授だったフランス文学者の小海永二、紀伊國屋書店、1965)がほとんど唯一の研究書といったありさまであった。ほかには、ヌーヴェルヴァーグに多大な影響を与えたフランスの映画批評家アンドレ・バザンが「絵画と映画」(1949頃と推定されている)と「ベルクソン的映画  『ピカソ 天才の秘密』」(1956)というすぐれた美術映画論を残している程度であった(アンドレ・バザン『映画とは何か』邦訳第4巻所収、小海永二訳、美術出版社、1977。新訳『映画とは何か』上下巻、野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳、岩波文庫、2015)。

 美術映画に対する瀧口修造の特別な関心が重要かつ先駆的な意味を持つのは、こうした事情にもよっている。瀧口は、美術映画の国際的活況にリアルタイムで反応した世界的にも貴重な一人だったことになる。アンドレ・バザンは”cadre”(枠、フレーム)という概念を使うことで、絵画の(額縁の)外の世界と作品とを区切り作品に対して求心的に機能する絵画の「額縁」(cadre)というものと、スクリーンの枠の外を観客につねに想像させながら遠心的に機能する映画の「フレーム」(cadre)というものを対比し、「絵画の額縁は空間を内へと集中させるが、スクリーンは反対に、宇宙へ無限に延び広がっていくかのように観客にものを見せる。額縁は求心的、スクリーンは遠心的なのである。この絵画のプロセスを反転させつつスクリーンを額縁の中に入れてみると、タブローの空間はその方向性と境界を失い、我々の想像力に無限の広がりとして映る結果になるのだ」と書く(前掲『映画とは何か』邦訳第4巻「絵画と映画」p.175、岩波文庫版新訳 上巻p.321、谷本道昭訳。ただし引用部分は拙訳による)。アンドレ・バザンは、映画のフレームの中で捉えられた絵画は異なるイマジネーション、異なる意味を喚起しうると、美術映画というジャンルの可能性に本質的な指摘をしたのである。

 一方、この論文(バザンのフランス語著作集に収録され一般に知られるのは1959年)の存在を当時知るはずがない瀧口が同じ1949年に「スクリーンもカンヴァスも同じ一つのタブロオである。ここから映画と絵画のさらに複雑な関係が生じてくる」(「美術と映画」1949、『コレクション』第6巻、p.209)という発想をすでに持ち、さらに1955年の「美術映画雑記」(『コレクション』第6巻pp.287-293)では「これは実際にタブロオを眺めたときに感じられるものとは別のものかも知れない。が、事実ピカソの絵にはあるものであり、それは歪曲ではなくて、映画が発見したものであるにちがいない。ここらにも、絵画の映画化を難じる人の意見の分れるところがあるのだが、映画はあくまで映画的に、絵画のなかに秘められているものを発見すべきなのだ。すくなくともこれが新しい美術映画の第一要素なのである」(p.289)と主張するのである。そしてルチアーノ・エンメル『ピカソ この天才を見よ』(カラー、1954)で「作品の世界はすべて額縁が除かれて、カメラはタブロオに入ってしまっている。つまりピカソの絵が一つの世界として連続的に取扱われている」(同)という点に注目する。アンドレ・バザンと瀧口は随所で同時代的な並行・呼応をみせているのである。

 さらに驚かされるのは、この新しい美術映画への一連の強い関心のなかで1951-52年に瀧口修造が美術映画『北斎』の企画・脚本・構成(実質上の演出)を自ら担当、「予期した以上にその制作に深く関係」した事実である。この映画の発案は、瀧口の戦前のP.C.L.勤務時代(次章参照)からの知人だった宮島義勇(みやじまよしお、映画キャメラマン・監督)と、この映画の製作母体となるキヌタ(砧)プロダクションに勤務していた美術家・手塚益雄(それ以前は東宝の美術にいた)によるもので、相談を受けた瀧口は長谷川三郎・末松正樹[x]・手塚といった自由美術協会の美術家に平川透徹や村治夫(P.C.L.の研究生出身、教育・教材映画の専門家で東宝から教育映画配給社を経て後に日経映画社取締役)らを加えて「美術映画研究会」を発足させる。「美術映画の理想に達しられないまでも、これによって日本の美術映画の新分野への実験としては最もふさわしい題材だと考え」(『コレクション』第6巻p.326)選んだ第一回作品の題材が『北斎』だった(瀧口の文章には一度も出てこないが一説にはP.C.L.出身の左翼ドキュメンタリー映画作家・亀井文夫も参加したという。亀井は当時キヌタプロダクションで『母なれど女なれば』(52年)『女ひとり大地を行く』(53年)を演出し、きわめて近い場所にいた)。

 瀧口は『北斎』で「説明的な解説、またはイデオロギー的な解釈とか批評的な解釈を避けるようにし、なるべく絵そのものをして物語らせ、一つの感銘をあたえるようにしたいと思った。これは私のひそかな実験のつもりであったが、実際には非常にむずかしいことであるのを知った」と書いている(「挫折した『北斎』と完成した『北斎』——美術映画制作の諸問題」1954、『コレクション』第6巻p.327)。

 『北斎』製作は瀧口と美術映画の関わりの最初のピークをなすものであり、瀧口はこの映画に多くの精力を傾けるが、製作の前提として頼りにしていた宮島義勇がいくつかの事情(今井正の劇映画『どっこい生きてる』の急な撮影開始および共産党書記局員であった宮島が占領軍の手配から逃れて地下潜行したため)により撮影を担当できなくなり浦島進に代わる誤算を手始めにさまざまな困難が重なり、撮影はカラー部分(富嶽三十六景の神奈川沖波裏と赤富士)と実写の部分(現実風景の撮影。波、現代の本所、雨の水面、障子や畳、雪、北斎漫画の開閉、富士山などを予定)を除きほぼ終了したが、資金難で最終的に中断を余儀なくされた。その撮影素材は(瀧口の許諾を得ずに)不明朗な手続きで勅使河原宏らの青年ぷろだくしょんに売却され、勅使河原宏の映画監督デビュー作『北斎』(1953、23分)として完成されることになる。この間の事情に瀧口や武満徹(当時22才で最初の映画音楽を担当する予定だった)が抗議した経緯もある(詳しくは『コレクション』第6巻「美術映画『北斎』」の章pp.313-336参照)。

 今日、勅使河原宏作品として見ることができる『北斎』は、脚本・構成が吉川良となっているが、監修として岡部長景・高橋誠一郎の名が並び、やや異様な印象を与える[xi]。岡部長景(1884-1970)は子爵の身で外務官僚から内大臣秘書官として宮中に入り東条内閣で文部大臣、この当時は東京国立近代美術館館長(1952-60)の職にあった。高橋誠一郎(1884-1982)は慶應義塾大学の経済学部名誉教授(経済学史)で浮世絵蒐集家としても知られ浮世絵関係の著書も数多いが、塾長代理を経て第一次吉田内閣の文部大臣、その後、東京国立博物館館長、国立劇場会長、日本芸術院院長などを歴任、東京国立近代美術館の評議員も長く勤めた(1952-79)。若者たちの自主製作的な映画にこれほど権威ある人物たちの後ろ楯が必要であったのかどうか、大いなる疑問を抱かざるを得ない。

 いずれにせよ勅使河原版『北斎』は、オリジナル瀧口版の素材をまさに換骨奪胎したもので、瀧口がひそかな野心をもって実現しようとした映画とは構成も内容も大きく異なっており、ナレーションも(武満徹の幻の)音楽も異なる以上、これをもって瀧口版『北斎』を判断することはまったくできない。残されている瀧口のシナリオ(『コレクション』第6巻pp.313-320)と比較してみると、その問題意識の違いをたとえば次のような点に見ることができる。

 幻の瀧口版『北斎』は「世界で最も独創的な波の画家」北斎を全体を貫くモチーフとして、画家の生涯を追うのではなく、遠近法・雨・唐獅子図・北斎漫画・富士といったテーマをカメラワーク、カット割、モンタージュによって視覚的に論証・分析しようとしている。冒頭、さまざまに打ち寄せ砕ける実写の波のタイトルバックの後「葛飾北斎は日本の封建時代の密雲の中に生きて西洋の近代絵画にさえ先駆した偉大な画家であった」として北斎の生年(1760年)に触れ「西洋の写実主義の祖クールベよりも59年早く、また印象派のドガよりは74年、北斎の熱烈な賛美者だったゴッホよりは実に93年も先輩であった」と美術史的文脈へ観客をいざなうナレーションから始まる。

 一方、勅使河原版は、北斎の顔、唐獅子図のタイトルバックの後、江戸の古地図に「いまから約190年前、葛飾北斎は江戸本所割下水で生れた。徳川家康が江戸に幕府をひらいてから150年やうやく武家支配の基礎がくずれ始めた」「幕府はその矛盾を解決するため農村の収奪に終始したため農民は村を離れ江戸に流れ町人となり武家支配に対抗した。当時人口約80万、市街1670余町を数えた」と歴史教科書のような字幕が重なって始まる。監修者・高橋誠一郎の史観なのだろうか、浮世絵を町人文化の象徴と捉え武士階級との対立を終始強調する勅使河原版はこうした史観(たとえば大塩平八郎の乱の挿入、幕府の失政のため北斎が人間不信に陥り画狂人となったような論旨など)と北斎の人生のエピソード(孫の放蕩など)を追うことに終始する。

 遠近法に関する部分でも、瀧口が「洋風版画もその過程で生れたものであって、新鮮な感覚と大胆な形式は西欧の近代絵画の到来を予想せしめるものがある」と注意深く書いたナレーションは、勅使河原版では「北斎の写実精神、その新鮮な感覚、大胆な形式は、実に西欧の近代絵画に多くの影響を与えたのである」となり、北斎漫画について瀧口が「北斎は大胆に現実の世界を描いて、本当に生きた人間の芸術を創造した。しかも大衆的なユーモアと痛烈な諷刺とは北斎の独断場であった。絵本『北斎漫画』15冊は(中略)絵画の百科全書といわれ、同時に子供にもわかる北斎芸術のエッセンスでもあった」とした部分は「彼の描いた絵は庶民から愛され、武士たちには嫌われた。なかでも漫画は手軽に庶民生活に馴染んでいったのである。生き生きとした庶民生活を描くと同時に、大胆に武士の生活を冷やかしたのであった」とつねに階級論に回収され、図式的で強引な印象を免れない。

 構成が全体においても細部のカットの配列においても大幅に異なるが、瀧口はたとえば北斎が83才から日課のように2年間描き続けた唐獅子図に「画家の心の日記」(生活ではなく主観の世界)を見ようとし、北斎漫画に「ユーモアと諷刺と機知が生動する北斎の徹底した人間味を映画的に再現したい」と思った。そして一貫したモチーフがあるとすれば「庶民に深く根ざした人間性であり、それがたえず波とか富士のような強く高い力に対立している」ことだとした(「シナリオ『北斎』について」『コレクション』第6巻pp.321-323)。テーマごとのパート分け、それをつなぐ波のイメージ、オープニングとラストを始め随所で入る実写映像、クライマックスで入るカラーの浮世絵、カメラワークと音楽への指定など、シナリオ段階で作品のイメージは明確に出来上がっていた。

 ほぼ瀧口の指定通りの形で残っている遠近法割り出し図のシークエンスでのフレーミングやカメラワーク(よつや十二そう、九段牛ヶ淵など)、カラー部分こそないが独特な波や富士山をさまざまなカメラワークで捉えていくシーン(ごく一部だが波の実写シーンや短いが「富士の画家 北斎」とスーパーインポーズされる字幕も現行版に残存している)などからは、カメラの視線が絵から何かを発見するという美術映画的な方法意識がはっきりと感じ取れる。

 こうして比較してくると、勅使河原版はオリジナルの「改悪」としか見えないが、勅使河原宏の名誉のために言っておくと、この勅使河原版『北斎』でも当時の草創期の日本の美術映画(同年にブリヂストン美術館が『梅原龍三郎』『川合玉堂』を製作している)としてはすぐれた部類に入り、ナレーションの我田引水ぶりには批判もあったが問題作・異色作という評価で「キネマ旬報」1953年度ベストテンで日本短編映画2位に選ばれている。入賞作品の解説に「ほとんど全篇を北斎の版画で埋めた大胆な作品である。一枚の絵を全景、近景、接写と区分し、移動やトラックを使い、更に漫画のフラッシュ・バックで躍動感をあらわすなど、思いきって斬新な手法を用いている」(「キネマ旬報」1954年2月上旬号)とあるが、これらの特徴は瀧口版で作り上げられていたものである。

 勅使河原宏サイドからすれば、新人監督としてトラブル含みのデビューとなったのだが、その後、瀧口の美術映画研究会とも関係があったとされる記録映画の巨匠・亀井文夫の日本ドキュメントフィルムに加わり『生きていてよかった』『世界は恐怖する』で助監督をつとめて監督修業をしたり、武満徹とはその後『おとし穴』から『豪姫』までの全長編と多くの短編で組むことになるのである。

 1950年代前半の瀧口修造は批評家として美術映画への関心を惹起したのみならず、今日なら映画祭と呼ぶべき規模の上映活動や美術映画の野心的な実作にまで積極的に関わった。次章ではそうした活動の背景となった、戦前の瀧口と映画界の関わりを見ておきたい。

 

3.  戦前の瀧口修造と映画の関わり——P.C.L.時代を中心に

 

 戦前の前衛映画について瀧口修造は、「昭和4、5年の頃」、マン・レイ『ひとで』(1928)、ジェルメーヌ・デュラック『貝殻と僧侶』(1927)、ディミトリ・キルサノフ『秋の霧』(1928)、アルベルト・カヴァルカンティ『時の外何物もなし』(1926)と『港町にて』(1927)、ジョルジュ・ラコンブ『ラ・ゾーン』(1928、1966年の世界前衛映画祭では『パリ・スラム街』の題で上映、瀧口は『ラ・ゾーヌ』とも表記)あたりを見たとたびたび証言している[xii]

 『時の外何物もなし』『港町にて』については、肥後博(神田須田町にあった異端の映画小劇場シネマ・パレス経営者、のちに新宿武蔵野館支配人)の前衛映画社の輸入で1930年(昭和5年)2月9日、日比谷公会堂で初上映されたことが確認されている(徳川夢声らの弁士付、A・シルカ『家鴨の惨死(La Malemort du Canard/Ballade du Canard)』(1928)を併映し、大阪・名古屋・静岡(?)・新潟も巡回した)。同年のしばらく後に『ひとで』『貝殻と僧侶』『秋の霧』『ラ・ゾーン』も映画監督・鈴木重吉の手で輸入・公開され、瀧口はこれらを学生時代に見たことになる(ただし『ひとで』と『貝殻と僧侶』はすぐに検閲を通過せず1933年にやっと場面削除により通過し公開された)[xiii]

 また彼は『前衛シナリオ集』(河出書房『シナリオ文学全集VI』、1937)にダリの『ババウオ』を訳出し、「1940年前後」にアヴァンガルド芸術家クラブ主催で上記の前衛映画の再上映を企て、本富士署の横やりで不許可になったという[xiv]

 しかし、戦前の瀧口修造と映画メディアとの最大の関わりといえば、彼が東宝の前身となる映画会社P.C.L.(ピー・シー・エル、写真化学研究所:Photo Chemical Laboratoryの英字イニシャルをとった社名)に勤め、映画産業の現場で働いた事実(1933-36)に尽きる。

 慶應義塾大学文学部英文学科を1931年に28歳で卒業した瀧口は、当時住んでいたアパート乃木坂倶楽部の住人として知り合った松崎啓次(1905-74、本名青木義久、P.C.L.文芸課長から東宝文化映画課長、中華映画製作部長を経て戦後は内外映画社を設立、のちに松崎プロダクションと改称)とのつきあいから、「最後の傾向映画」といわれる『河向ふの青春』(1933、木村荘十二監督)を手弁当で手伝う[xv]。傾向映画とは昭和初期の左翼的傾向の社会批判映画を指し、代表作に伊藤大輔の時代劇『斬人斬馬剣』、内田吐夢の『生ける人形』、溝口健二の『都会交響楽』(ともに1929)、大ヒットした鈴木重吉の『何が彼女をそうさせたか』(1930)などがあったが1931年頃には警察の弾圧で衰退を余儀なくされる。1930-31年頃は恐慌による失業者が急増し左翼運動の昂揚期だったが、同時に共産党の大弾圧や満州事変・上海事変の勃発など右傾化・軍国化も進んでいた。

 その『河向ふの青春』に撮影ステージを貸し、録音技術を担当したP.C.L.が、劇映画製作に乗り出すので『河向ふの青春』のスタッフ(木村、松崎ほか、進行の能登節雄、篠勝三ら)をそのまま雇い入れ、定職のなかった瀧口も誘われるまま一緒に入社することになるのである。彼自身の言葉では「生活の問題と芸術上の問題を一挙に解決しようとしたためである」(「超現実主義と私の詩的体験」『コレクション』第1巻pp.386-394のp.393)あるいは「感ずるところがあって映画の世界に飛びこんだ」「映画という集団芸術の体験は私にとって貴重なものであった」とある(「P.C.L.の想い出」『コレクション』第4巻pp.14-15)。

 P.C.L.は1930年発足、トーキーの録音技術研究(日本では1935年前後に技術が確立し開花する)のため設立され、やがて1937年にのちの「東宝」の母体として吸収合併されていく。

 すでにアンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』(厚生閣、1930)を訳し、詩人であった瀧口が出会った松崎啓次という人物は、映画のプロデューサー・脚本家ではあったが、何よりも「プロキノ」と呼ばれた昭和初期の戦闘的左翼映画集団「日本プロレタリア映画同盟」(1929-34)の同盟員でありその論客であった[xvi]。松崎や監督の木村荘十二らはプロキノ(ひいてはナップを中心としたプロレタリア芸術運動)への執拗な弾圧や帝キネ(新興キネマ)争議による解雇を経て、1933年に独立プロ「音画芸術研究所」を設立し『河向ふの青春』を製作、そこに集まったプロキノ左翼人脈がP.C.L.に移ったのだ。瀧口が左翼系の映画理論誌『映画芸術研究』(芸術社刊、佐々木能理男編集)に翻訳や採録で協力しているのもこうした関係によるものだろう。佐々木能理男はマルクス主義の映画理論家だったが、P.C.L.の文芸課に属し研究生にシナリオを教えたりもしていた。

 撮影所長の森岩雄はアメリカ・ヨーロッパに滞在して外国の映画製作を学んだ近代主義者で、新しい経営方針やプロデューサーシステム導入などにより、P.C.L.は規模は小さいが従来の映画会社と比較にならぬ近代的で明るく合理的な新しい撮影所を目指していた(タイムカードまであった)。このモダニズムと左翼思想の混ざりあうP.C.L.で、瀧口は当初、撮影所の現場で新たな職種「スクリプター」(撮影記録係)の先駆者として働き、過労のため胃潰瘍で倒れてからは文芸課に籍を置き、P.C.L.が配給するフランス映画の翻訳などを担当した。彼が勤めた1933-36年という時期は、偶然にも、日本の映画界がサイレントからトーキーへ移行する、特異で重要な時期に当たっていた。P.C.L.は「日本最初のミュージカル」とされる『ほろよひ人生』(1933、木村荘十二監督、冒頭・タイトルバックにP.C.L.の社屋が映る)を第一作として製作、瀧口はスクリプターとしてそれに関わる。同監督の続く『純情の都』(1933)や翌年公開の『只野凡児・人生勉強』『さくら音頭』(1934)、山本嘉次郎監督『エノケンの青春酔虎伝』矢倉繁雄監督『踊り子日記』(ともに1934)あたりまでスクリプターとして関わった模様である(クレジットタイトルにスクリプターの名は記載されていない)[xvii]

 瀧口の洋画翻訳で確認できる作品は2本ある。『キートンの爆弾成金(Le Roi des Champs-Elysées)』(1934)は、トーキー初期の実験的な吹替版(日本語発声版)の一本として、1935年10月11日日本劇場で『エノケンの近藤勇』(P.C.L.、山本嘉次郎監督)と併映で封切られた。真木潤はこの吹替版について「その出来栄えは感心しなかった。悪い新劇口調が不愉快である。尤も日本語版は困難なものであろうが、この映画の吹込者たちは、揃いも揃って喜劇的感覚の欠乏者たちであるらしく思われた」(『キネマ旬報』557号、p.77)と酷評している[xviii]

 翌年公開のジョルジュ・ラコンブ『若き日(Jeunesse)』(1934)は前年から吹替版で予告されていたが、実際には字幕方式で1936年11月18日日比谷劇場でアメリカ映画『白衣の天使』と2本立てで封切られた。瀧口も見ていた前衛映画『ラ・ゾーン』(1928)の監督だったがこの作品自体は地味で「ラコンブは、この真面目な、つつましやかな題材を、生真面目に映画にしようと努力している」と清水千代太は評した(『キネマ旬報』596号、p.63)。『若き日』については「セルパン」に載せた瀧口自身の紹介文もある(1935年執筆、『コレクション』第11巻pp.398-399)。

 P.C.L.では、監督の木村荘十二、撮影の宮島義勇、美術の戸塚正夫、(成瀬巳喜男とともに松竹から移った助監督の)山本薩夫、ほかに研究生だった亀井文夫(文芸課からスクリプターをへて文化映画の演出へ。のちに左翼ドキュメンタリー映画の巨匠)、谷口千吉(監督)、本多猪四郎(監督、『ゴジラ』をはじめ東宝特撮もので有名)らとよく接したようだが、文芸課に移ってからはほとんど仕事らしい仕事をしなかったらしい[xix]

 2章で述べた通り、P.C.L.で若い映画キャメラマン宮島義勇(1936年『唄の世の中』で一人立ち)と知り合ったことが、戦後「美術映画研究会」で『北斎』製作へと結びつくことになる。宮島義勇(1910-98)はP.C.L.、東宝を経てフリーとなる撮影監督(『戦争と平和』『どっこい生きてる』『人間の条件』『西陣』『若者たち』『愛の亡霊』等を撮影)で、監督としても、松川事件を扱う『真実は勝利する』(1952)、北朝鮮との合作『チョンリマ』(1964)、『沖縄』(1965)、『原爆の図』(1966)、70年安保闘争の記録『怒りをうたえ』三部作(1970-71)など社会派ドキュメンタリーを多く手がけた。戦後の東宝争議の指導者から日本共産党中央委員会の書記局員、55-56年は文化部副部長まで勤めた(のちに脱党)という異色の経歴を持つ映画人で、気骨ある人物、論客として知られている[xx]

 瀧口はP.C.L.退社後の1937年頃から、当時「シナリオ文学運動」を主唱していた気鋭の詩人・映画批評家の北川冬彦(1900年生まれで瀧口より3歳年上)が主宰する「シナリオ研究十人会」に参加する。季刊誌「シナリオ研究」に1939年まで定期的に寄稿しシネ・ポエムの試み「卵のエチュード」(1938)などを発表、瀧口にとって映画とのつながりはこういう形で残っていく。また「『阿Q』と北川冬彦氏」(1938、『コレクション』第12巻pp.507-510)や「北川冬彦『散文映画論』感想」(1940、第13巻pp.426-428)が書かれる背景にはこうしたつながりがあった。東京帝大仏法科を卒業し『マックス・ジャコブ詩集』やブルトンの『超現実主義詩論』(ともに1929)を訳していた北川冬彦と瀧口とは「詩と詩論」を通じて当然すでに面識があったはずである。「シナリオ研究十人会」は若手の映画批評家(飯田心美、滋野辰彦、大黒東洋士ら)と脚本家の集まりだったが、澤村勉のように批評家からシナリオ作家になった者もいた。その後、北川冬彦や澤村勉(1915-77、東京帝大美学科卒、そのキャリアは戦後が中心だが、最初の脚本が『上海陸戦隊』38年、戦前はほかに『指導物語』41年『海軍』43年の脚色など)は戦争と深く関わっていくことになるのが、瀧口とは対照的である。

 瀧口のP.C.L.時代とも重なる1930年代前半は、第一次メディア論ブームともいうべき時期でもあり、映画自体もサイレント映画の完成期からトーキーへの移行、ロシア革命後の前衛映画理論の紹介、1920年代のヨーロッパ・アヴァンギャルド映画とその理論への関心などが重なり合い、理論的にも活発な議論が交わされていた時期である。いわゆる映画評論家ではない多くの知識人が映画と理論的・実践的な関わりを持ち、哲学者・谷川徹三(久世昂太郎の筆名も使った)、美学者・中井正一、英文学者・清水光、経済学者・住谷悦治、物理学者・寺田寅彦(吉村冬彦の筆名も使った)、美術史家・板垣鷹穂などが活発に映画を論じた[xxi]

 こうした文脈の中でシュルレアリスト瀧口修造が、半ば偶然の成り行きから、最も「映画の現場」に接近していたのは何より興味深い事実といわねばならない。また、P.C.L.には先述のようにプロキノや傾向映画の残党というべき左翼人脈が多く、モダニストのサイドにいた瀧口がこうした戦闘的左翼人たちと数年間を共にした事実にも注目しておくべきであろう。

 

おわりに

 

 最後に、「瀧口修造文庫」の映画関係書籍について少し触れておきたい。冒頭で述べた通り、その数は決して多くはない。また、戦争末期の空襲により瀧口修造の戦前の蔵書は焼失したため、瀧口文庫の映画書籍にも戦前の出版物はほとんどない。

 そのなかで、世界の前衛映画に関する理論・情報・批評を掲載した雑誌「クロース・アップ」("CLOSE UP", published by Pool, 1927-1933)のオリジナル(1927-31年分)がほぼ全巻揃っているのは、映画史研究の第一級資料といえる(戦後に再購入されたものだろうか)。この雑誌は後にニューヨークの Arno Press より全10巻(1971)で復刻された貴重な文献である。編集・発行はケネス・マクファーソンと妻の詩人ブライヤー(富豪エラーマンの娘アニー・ウィニフレッドのペンネーム)だった。マクファーソンは映画史の謎の人物の一人で、前衛芸術のパトロン的存在でもあったようだが、ポール・ロブソン主演の黒人映画『ボーダーライン』(1930)[xxii]を監督したかと思えば、ゲイであったとされるが一時ペギー・グッゲンハイムの恋人となり彼女の評伝『ペギー』(ジャクリーン・ボグラド・ウェルド、邦訳文藝春秋、1991)に登場し、彼女とともにハンス・リヒターの映画『金で買える夢』(1944-47)を製作したりもする人物である。

 「ダダ・シュルレアリスム関係文献」のなかには、アド・キルー『映画におけるシュルレアリスム(Le Surréalisme au Cinéma)』の初版原書(1953年のArcanes 版)と訳書(飯島耕一訳『映画とシュルレアリスム』美術出版社、1968)やアラン&オデット・ヴィルモーの『シュルレアリストと映画(Les Surréalistes et le Cinéma)』(1976)といった基本文献が当然ながら含まれている。

 また、映画洋書のなかで、ジャック・B・ブリュニウス(瀧口は1938年に彼の写真論を「写真・映画の写真」で訳したことがある)の『フランス映画の余白に(En Marge du Cinéma Français)』(1954年 Arcanes 初版、マルセル・デュシャンの表紙)、ロ・デュカの『映画におけるエロティスム(L'Erotisme au Cinéma)』(1957)とミシェル・ラクロの『映画における幻想的なもの(Le Fantastique au Cinéma)』(1958)といったフランス語原書、そしてマリー=テレーズ・ポンセ『アニメ世界芸術(Dessin Animé Art Mondial)』(1956)といったアニメーション関係の原書が瀧口らしい関心を伝えている。

 また未整理資料であるが、瀧口修造が戦後まもなく日米通信社などの関係で試写室通いをした時期の試写用映画パンフレット類も種々あり、彼が1948-61年ぐらいの間に散発的に発表した映画評の裏付けとなる資料といえる。ジョルジュ・フランジュの『顔のない眼』(1960、日本公開も同年)の試写用パンフレットのように直筆の書き込みが残されているものも発見された。

 これらの蔵書についても、瀧口修造と映画という文脈で今後さらに詳細な検討が可能であると思われる。1958年の滞欧メモ帖(注7参照)をみると、パリではしばしばシネマテーク・フランセーズ(1958年当時はパンテオン裏手のユルム街にあった)に通い、ジャン・ヴィゴの『アタラント号』(1934、夭折の映画作家の伝説的作品)、F・W・ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922、ドイツ表現主義映画の名作)などの映画を見ていたことがわかる。ブニュエルの『エル』(1952、メキシコ時代のブニュエル作品)にはタクシーで駆けつけて間に合った、などとあり、瀧口の映画狂ぶりがうかがえる[xxiii]

 また、注目に値するものの一つとして「アンダーグラウンド映画」関係の洋書・和書があった。実験映画作家スタン・ブラッケイジのユニークな映画芸術論『視覚のメタファー(Metaphors on Vision)』(1963)のきわめて貴重な初版原書のほか、60年代アンダーグラウンド映画の専門誌だったジョナス・メカス編集の「フィルム・カルチュア」誌(31・36・37号、1963-65年)、シェルドン・レナン『アンダーグラウンド映画(An Introduction to the American Underground Film)』原書(1967)、ジーン・ヤングブラッドのカウンターカルチャー的メディア・テクノロジー論『エキスパンデッド・シネマ(Expanded Cinema)』原書(1970)といった洋書・洋雑誌のほか、和書では実験映画の芸術論として飯村隆彦『芸術と非芸術の間』(1970)やかわなかのぶひろ『映画・日常の実験』(1975)などが、数少ない映画蔵書の中で際立っている。

 瀧口修造は「その後の、そして最近の前衛映画」(1947、『コレクション』第6巻、pp.186-193)で戦後もっとも早くアメリカの実験映画の動向を伝えた人物だが、「ベル・エポックの前衛映画 その背景と前景」(初出『世界前衛映画祭』パンフレット、草月アートセンター、1966、pp.26-28、『コレクション』第6巻所収pp.278-284)でも「たとえばここ数年来、アメリカのヨナス・メカスの『フィルム・カルチュア』が中心となっている映画の動きなども出来るだけ早い機会に紹介されるといい」と書いて、過去の歴史的作品だけでなく「現に世界のいたるところで作られているすぐれた非商業的な映画」への強い関心を示していた。

 

 「前衛映画は今世紀の初頭以来、いろんな呼び名のもとに幾つかの波が現われては消えていった。しかし前衛映画とか実験映画といった呼び名でしか呼べないような映画の製作は、今もどこかで絶えず新芽のように吹きだしている。これは何を意味するのだろう。こうした映画は結局は実験室的なものだともいわれている。だが果たしてそれにとどまるものだろうか。私は、映画は人間の純粋な表現手段として絶えず還元される<自由>をもっているのだと信じないではいられない。」(同前初出p.28)

 

 人間の純粋な表現手段として絶えず還元される<自由>。1920年代フランス・アヴァンギャルド映画への瀧口修造の熱いまなざしは、1940-50年代アメリカ実験映画への先駆的関心を経て1960年代のアンダーグラウンド映画にまで向けられていたことが、これらの蔵書からも改めて確認できるのである。

 

 以上、瀧口修造と映画の関わりをいくつかの角度から見てきた。瀧口の映画的足跡についてのまとまった研究はこれまでなく、彼の映画的活動や映画論の子細な検討は今後さまざまなアプローチによるさらなる研究に十分値するものと思われる。本稿がそうした新たな研究・再評価のためのささやかな寄与となれば幸いである。

 

 

 

* 本稿の調査段階(1999年)で資料等のご教示をいただいた三上豊氏と島敦彦氏に感謝します。

 

* [追記] 本稿校了後に次の関連文献を目にしたので付記します。

西村智弘「日本実験映像史10:瀧口修造と前衛映画(1)(2)」『あいだ』96号、97号、『あいだ』の会、2003-2004。

倉林靖「可能性の映画:瀧口修造の「北斎」シナリオとシュルレアリスム」、岩本憲児監修、西嶋憲生編『日本映画史叢書3:映像表現のオルタナティヴ 1960年代の逸脱と創造』森話社、2005。

また、武満徹の『北斎』のためのスコアについては、『武満徹全集3:映画音楽1』小学館、2003、pp.20-25に証言・資料が収録された。

さらに矢野進「瀧口修造と映画 P・C・L映画製作所から美術映画『北斎』へ」が世田谷美術館図録『瀧口修造 夢の漂流物』(同美術館、2005)に収載された。

 

 


[i] 瀧口修造文庫に関する詳細は、多摩美術大学共同研究「瀧口修造・北園克衛文庫資料研究」において芸術学科現代芸術資料センターが制作した瀧口修造文庫ホームページを参照(現在閲覧不能)。

なお、瀧口修造文庫は2022年現在、多摩美術大学アートアーカイヴセンターの所管となっている。 https://aac.tamabi.ac.jp/archive_takiguchishuzo.html

山田裕之「瀧口修造文庫設立17年目の現状と課題」『アート・ドキュメンテーション通信』56号、アート・ドキュメンテーション研究会、2003、pp.10-12も参照。

[ii] 瀧口修造「私の映画遍歴」『季刊フィルム』第7号、フィルムアート社、1970。単行本『私の映画遍歴』(フィルムアート社、1973)収録を経て『コレクション瀧口修造』第6巻、みすず書房、1991、pp.171-185に再録。

[iii] たとえば多木浩二はすでに1971年に『日本写真史 1840-1945』(平凡社、1971)の「展開期」で瀧口の「前衛写真試論」(1938)を「さりげない文章だが、多くの重要な内容を含んでいる」とし、前衛写真と記録性の関係について「ここまで透徹した洞察を持っていた写真家も批評家もほとんどいなかった」(同書、p.413)と評価した。瀧口修造の写真論については、島敦彦「瀧口修造と1930年代——写真に向けられた眼」(『非』Vol.3、1989年夏、特集・瀧口修造)、高島直之「写真的触角」(『現代詩手帖』1986年10月号)、同「主観と客観」(『現代詩手帖』1991年3月号)なども参照。

[iv]  1950年代前半の日本における美術映画の状況、美術映画という用語の定着や美術映画をめぐる美術雑誌でのディスクールについては、萩原朔美「美術映画の行方」『1953年ライトアップ——新しい戦後美術像が見えてきた』展図録、目黒区美術館・多摩美術大学、1996、pp.198-202参照。

[v] 『ピカソ 天才の秘密』に関する瀧口の映画評は、読売新聞1956年8月3日「不思議なピカソ」と朝日新聞1957年5月22日「ピカソの魅力 版画展と映画をめぐって」があり、ともに『コレクション瀧口修造』第6巻pp.294-299に収録。

[vi] 瀧口修造は1952-65年の間、東京国立近代美術館の運営委員を務めた。約20人の運営委員会には、映画関係者として飯島正(映画評論家・早大教授)、牛原虚彦(監督・日大教授)、池田義信(監督・映連事務局長)をはじめ、清水晶(映画評論家・フィルムライブラリー協議会)、島崎清彦(映画技術協会)、関野嘉雄(教育映画)らが含まれていた。瀧口が美術サイドの委員でありながら、実際には彼らと共に近代美術館に併設されたフィルム・ライブラリー(のちにフィルムセンターとして独立した施設を持つ)の運営に積極的に加わっていたことは、フィルム・ライブラリーのパンフレットや『現代の眼』(東京国立近代美術館ニュース)に「フィルム・ライブラリー運営委員」と肩書きが付けられていることでもはっきり分かる。彼のフィルム・ライブラリー観は「(前衛映画のような)非商業的な映画の蒐集と交流そしてその上映を絶えず確保できるような生きたライブラリー」(『コレクション瀧口修造』第6巻、みすず書房、1991、p.279)だった。近代美術館にフィルム・ライブラリーが併置されることで「美術と映画の交流、近代芸術としての映画の考え方など、従来あまり顧みられなかったことが刺激されるよう期待したいものである」(同、p.240)とも書いている。

[vii] 審査の経過については瀧口修造「ヴェニス国際美術展」『芸術新潮』1958年8月号、新潮社。また、このときの5ヶ月にわたる瀧口の最初の外遊は、8冊の手帖にさまざまなメモが残されている。その詳細については、渡辺嘉幸・大倉麗菜「瀧口修造1958年ヨーロッパ紀行」『多摩美術大学研究紀要』16号、2001年、pp.51-72参照。また、同年のビエンナーレのアメリカ副コッミショナーとして渡欧していたニューヨーク近代美術館学芸員フランク・オハラ(詩人でもある)との接触の可能性については、村山康男「瀧口修造とフランク・オハラ」『多摩美術大学研究紀要』16号、2001年、pp. 参照。

[viii] フィルム・ライブラリーでの上映作品は『国立近代美術館 昭和27-30年年報』(同美術館、1956)と『東京国立近代美術館30年の歩み 1952-1982』(同美術館、1982)のフィルム・ライブラリー上映記録により確認した。

[ix] 『コレクション瀧口修造』第6巻「映像論」所収のものに限っても、1947年「その後の、そして最近の前衛映画」、48年「マチスの映画」(翻訳)、49年「美術と映画」、50年「色彩の有機的交流」、51年「美術映画と完成した『ブラック』」「映画『ブラック』」「シナリオ『北斎』について」、53年「『赤い風車』」、54年「挫折した『北斎』と完成した『北斎』」「美術映画は創造する」、55年「美術映画雑記」、56年「不思議なピカソ」、57年「ピカソの魅力」、58年「漫画、動画 --- 空間恐怖」などで美術映画に言及している。 

[x] 画家末松正樹は元多摩美術大学教授(1997年4月28日、88才で死去)であり、多摩美術大学図書館(現在、同大学アートアーカイヴセンターが所管)が文庫をもつ瀧口修造と北園克衛の両者をつなぐ人物の一人でもある。末松がよく二人展を行なった鈴木崧たかし、山冠に松)は北園が主宰する詩誌「VOU」(バウ)の会員で二科の画家(雑誌「ア・エ・セ」Art et Cultureも発行)。鈴木は美術家であると同時に「新外映」という洋画配給会社の代表取締役であり、末松はそこが配給するフランス映画の字幕翻訳も当時していたことが知られている(現在、鈴木の作品とコレクションは、長野県上伊那郡中川村の「アンフォルメル中川村美術館」に寄贈されている)。

[xi] 勅使河原宏版『北斎』で脚本・構成=吉川良、監修=岡部長景・高橋誠一郎のほかにタイトルにクレジットされている主なスタッフは、撮影=浦島進・長谷川博美・瀬川順一、音楽=清瀬保二、編集=宮森みゆり、解説=加藤嘉。

[xii] 『コレクション瀧口修造』第6巻所収の「私の映画体験」「ベル・エポックの前衛映画」、未収録の「フランスの前衛映画について」『現代の眼』80号、東京国立近代美術館、1961、など。

[xiii] 戦前のフランス前衛映画の輸入・公開の経緯に関しては、最近の次の二つの詳細な調査も参照。西村智弘「日本実験映像史4:前衛映画発表会」『あいだ』90号、『あいだ』の会、2003、pp.11-20。広瀬愛「田中純一郎における実験映画への視点」映画史研究誌刊行委員会編『映画への思い 日本映画史探訪3』第三回日本映画史フェスティバル実行委員会、2000、pp.255-265。

[xiv] 『コレクション瀧口修造』第6巻、p.181,275,279等での証言による。

[xv] また瀧口と映画界をつなぐ別の人物として、慶應義塾大学仏文科を出て松竹の映画監督になった原研吉(1907-62)がいる。瀧口のアパートの筋向いに住んでいた原は1930年発行の「Surréalisme International I」に同人として参加、「花咲く胴体模型」なる詩を寄稿している。ちなみにこの雑誌には北園克衛の詩も掲載され、それに先立つ「衣裳の太陽」(1928-29、6号発行)とともに瀧口と北園がもっとも接近していた時期のものである。

[xvi] プロキノについては、牧野守「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)の創立過程についての考察」『映像学』27号、1983、日本映像学会、pp.2-20、および、同「『新興映画』、『プロレタリア映画』、『プロキノ』、第二次『プロレタリア映画』および『映画クラブ』解説・解題」『日本社会主義文化運動資料10別巻』戦旗復刻版刊行会、1981、pp.1-27参照。

[xvii] 1999年に世田谷文学館で開催された「瀧口修造と武満徹展」では、映画プロデューサー能登節雄(2001年6月22日93才で死去)の提供でP.C.L.関係の写真が展示されたが、ロケ写真や完成記念写真に瀧口がスクリプターとして(ベレー帽をかぶって)写っているのは、『ほろよひ人生』『純情の都』『只野凡児 人生勉強』の3作品であった。『踊り子日記』と『エノケンの青春酔虎伝』(いずれも1934)は同展図録の略年譜による確認(そこでの題名表記は『さくら音頭 涙の母』『エノケンの青春水滸伝』とある)。矢野進ほか編『瀧口修造と武満徹展』世田谷文学館、1999参照。

[xviii] 吹替版は森岩雄の方針でもあったが評判は芳しくなく、たとえば音楽・舞踊評論家の蘆原英了は『キネマ旬報』556号(1935)でこの方式への批判を寄せている。

[xix] 1934年に入社した脚本家・小林勝の回想「P.C.L.創立のころ」(『日本映画作品大鑑6』キネマ旬報社、1961)によれば「瀧口修造にいたっては週一回の会合に顔を出すだけで、間もなくいなくなってしまった」とある。瀧口修造自身の回想は「P.C.L.の想い出」1956(『コレクション瀧口修造』第4巻「余白に書く I」所収pp.14-15)。美術監督・中古智の回想「瀧口修造とP.C.L.」は『コレクション瀧口修造・第6巻月報』(みすず書房、1991年1月)所載。P.C.L.については『日本映画史研究(2)——東宝映画50年の歩み(1)——』(「FC74」東京国立近代美術館フィルムセンター、1982)も参照した。

[xx] 宮島義勇は「キネマ旬報」に1983-86年に連載した「宮島義勇回想録」(のちに山口猛編『「天皇」と呼ばれた男——撮影監督宮島義勇の昭和回想録』愛育社、2002、として単行本化)で何度か瀧口修造に触れている。『北斎』については同書pp.428-429参照。

[xxi] たとえば『思想』(岩波書店)1932年(昭和7年)2月号では総特集「映画芸術の諸問題」(谷川徹三の企画とされる)を組み、吉村冬彦(寺田寅彦)「映画の世界像」、野上豊一郎「映画と能と日本的なるものと」、長谷川如是閑「映画芸術の大衆性と階級的歪曲」、西田正秋「動物映画の真実性」、板垣鷹穂「『視覚的叙述』に就いての小感」、清水光「映画・モンタアジュ・理論の諸問題」、エイゼンシュテイン「映画・モンタアジュと唯物弁証法」を掲載。

 また京都では中井正一を中心とする同人誌「美・批評」(1930-34、全32号)で美学者・辻部政太郎(後に映画・演劇・音楽評論も手がける)らが頻繁に映画を論じ、中井・辻部らは『十分間の思索』(1932、構成・中井正一、撮影・安藤春蔵)『海の詩』(1932、構成・辻部政太郎、撮影・安藤春蔵、色彩音楽・内藤耕次郎、音楽・貴志康一)といった実験映画も試作・発表している。この2本はドイツに留学した作曲家・指揮者貴志康一(1909-37)がドイツに持参し上映されたというが、35年に帰国した貴志が28才で病死して以降、作品の所在が不明とされる。貴志はさらに独自に色彩トーキー映画『春』『鏡』(1932-34)を日本で撮影しドイツのウーファ撮影所で完成、ドイツで公開したが、『春』については近年ベルリンのフィルムアーカイヴで発見されている。

 最近の関連文献として、高島直之『中井正一とその時代』青弓社、2000(とくに「第8章3 抽象画とシュルレアリスム」で瀧口修造と中井正一の比較が論じられている)、鈴木貴宇「板垣鷹穂と<機械>——「機械のリアリズム」と「プチ・ブルジョワ・インテリゲンチャ」——」『日本近代文学』第67集、日本近代文学会、2002。

[xxii] この映画に関する詳細な研究として、Roland Cosandey,”On Borderline” in Michael O’Pray(ed), The British Avant-Garde Film 1926 to 1995: An Anthology of Writings, University of Luton Press, 1996, pp.45-63.

[xxiii] 前出、渡辺嘉幸・大倉麗菜「瀧口修造1958年ヨーロッパ紀行」pp.59-60参照。