私たちは社会の中で生きていますと、自分が生きるのに懸命なゆえに、自分が持つ愛情や思い遣りを縁ある人々に表現するのがヘタです。
形にしたところで気恥ずかしさがありますし、他人の視線や受け取り方を逆に気にしがちです。特に日本人は苦手な感じがします。
でも、人間は何か日々の生活の中に、他への愛情や思い遣りを表す行動を、忘れない為に形にした方が良いと思います。
仕事や家庭の中で誠意を持って人に向き合うのも大切な表現の1つですが、理解をされるのに時間を要しますし、誤解を与える場合もあります。
父親などは家族の為にと秘めた思いで仕事を頑張っていても、家族には煙たく嫌な存在に成っている傾向があります。父親が居なくなれば、後で父親の思いの有り難さが理解される事もあるでしょう。
日本の職人は、教えを細かく受けずに「見て学べ」とは良く言われます。本人の個性を持ちながら自然と身に付ける事が、最初は時間が掛かるが将来はオリジナリティを持つ意味が在ると思います。
最初からマニュアルで細かく型を押す様に学びますと、本人の持ち味が消えてしまい、時間が経過しても規格的な物しか出来無い感じがします。要は本人が伸び無いのです。
毎日、もの言わぬ先祖霊や神様に対して、数分でも行動と感謝の思いを捧げる事は、これも自分の愛情と思い遣りの行為を発露させる練習と成ります。
無言の相手に対して、自分成りに出来る事に意味が在るのです。無言の相手に継続が出来るとは、「自分自身を見つめている事」でもあります。
自分の中の愛情=内在神が、必ず表面へと発露をし始めます。
自分で日々実践した行為は、内在神へ至る自分オリジナルな道へと誘導します。職人が自分で見て学ぶがごとく、心の高みへと行く事が出来るのです。
この時に道を間違わない為の灯明は、「生かして頂いて 有難う御座います」の心境で進む事なのです。
他人が決めた細かい道は、遠回りで危険なケモノ道です。
自分の生活の中で、感謝の思いを置いて行きましょう。
生かして頂いて ありがとう御座位ます