読者からの疑問と感想」

他人に厳しかった自分には、地獄が相応しいと思って、自分の良心から地獄で苦しんだとします。
でもそれは、私の中での自己事情であり、そのことが実際のご迷惑をおかけした他人様の慰めや利益になるわけではないことが、自分には非常に心配と困惑を感じています。

キリスト教では、
「イエスの身代わりの十字架により、あなたの罪は許された」
と言いますが、では「相手が苦しんだ事実はどうなるのか?」
「被害者が放置されたまま、罪を犯した自分だけが救われるのは変ではないか?」
ということが素朴な疑問です。

親族とも喧嘩して罪深い放置をした自分が、キリストか、神様の御蔭で救われるというのは、死後に本当に自分の良心が判断するならば、私は救われた天国に居るよりも、地獄に居るのが自分の良心の判断と思うが、それは違うのか? 
神様を信じた特権が、本当に優先されるのでしょうか?

罪深い自分が神様により救われ、被害者はいつまでも無念で地獄に居るかも知れない。
こういう構造に、正義は在るのか?

もし罪深い自分が、別の人に対して、多くの善行をしてバランスシート上は、善行が悪行よりも多かったとします。
でも、それはバランスシート上だけのことであり、自分が犯した被害者たちの苦しみや悲しみ、悔しさは消えないままです。
もし、リーマンさんが言われますように、バランスシート上で善行が上回り、私が天国に行けたとします。
でも、死後に自分の良心が本当に10倍に成るならば、自分は良心の呵責から被害者が心配になり、やはり地獄に居るように苦しむと思います。それは、果たして天国なのか?

以上を総合すると、私の来生は、今生の被害者の方々の転生先を一人ひとり追いかけて生まれ変わり、相手が受けた無念を、次は自分が体験したいと思います。
もし、私からの被害者が100人いれば、百回の転生をします。
1000人おられれば、千回の転生が必要です。

でも、その途中で、また新たな罪を自分は犯すかも知れません。
その来生で、「どうして自分だけが、こんな目に遭わなければいけないのか!?」と、
記憶を無くした来生の自分は、新たな被害者を生み出すかも知れない。
そして、また更に転生回数が増えるのでしょうか。

もしかしたら私は今、そのための転生を繰り返している最中なのでしょうか?
そういうことが、誰もの人生なのでしょうか?
1つの過ちを償うための人生が、また更に100の過ちを新規で犯し、それを償おうと生まれて来れば来るほど、また他人様への迷惑が増え、後悔も増えるという有様を想像します。
毎回の転生のためのこの身体と、この世の行き先の場所を用意してくださっている神様に申しわけないことなのですが、転生のたびに更に借金を増やすようで事態は悪くなる一方にしか思えません。

でもこれは、もちろん私だけの事情ではないはずです。誰にでも数え切れないほどのご迷惑の相手様がいて、新しい人生を得るたびにそれが増えていくのなら、誰一人としてこの因果を終えることはできないですから、解決も終結もない混沌の世界が永遠に続くことになりますし、後悔は転がる雪だるまのように大きくなる一方です。

リーマンさんの本の「生と死後の真実2」の中で、「あなたは、私である」という節には、
「自分と他人とはたった一つの大生命の共有者だった」
とあります。
このことがきっと、全ての自分の疑問の答えなのだろうと私はいま思っています。
即ち、すべての他人様は、実は神様が用意された一部であり、私自身もそうであるという知識なのです。
きっと、答えはそこに在るだろうと知っていても、それを真から体得するために、私にはまだまだ長い旅が続きそうです。

(以上は、複数の読者コメントに改変と加筆をしています)

(感想)

非常に興味深い指摘です。ところどころ真理に触れています。
この読者の疑問を読むだけでも、今後の人生の参考になる点が有ります。

これを読んで思い出すことは、親鸞(しんらん)さんです。
親鸞さんは、考えて考えて、病気になるほど考え過ぎた結果に思ったことは、
・ こんなバカでアホウで罪深い自分は、地獄に落ちて当たり前だ。そうだ、地獄に行こう!
・ でも、たとえ地獄の中からでも、阿弥陀様に感謝をして絶対に拝んで行くんだ!
このように誓って生きておられました。

自分が救われたいと思うほどに、罪深い自分は苦しく感じるのです。
それならば、もう自分のことを考えずに、他人を安心させるための身の振る舞いをし、すべてを阿弥陀様の判断に任せ切って、起こる現象を悩まずに受け入れる覚悟を親鸞さんはされました。
もう考えないで、行動に任せたのです

現代人で病む人は、行動が無いまま、悩むだけの人が多いことも原因に感じます。
就活で悩む人は、動かずに、座ったままであーだこーだと悩まれる傾向に注意です。
当たって砕けろ、の繰り返しが大切に感じます。

上記の疑問で、指摘して置きたいことは、「善悪のバランスシート」のくだりです。
これも、思考では、「善行が上回っても納得が出来ないはず」という懸念です。
でも、本当に行動で、実際の人生体験で、「悪行よりも善行が上回った場合」、その疑問は消えるのです。

アノ世では、善行と悪行の打ち消し合いと、被害者のその後まで、見せられます。
そして、その被害者自身の、過去生も見せて頂けるのです。
これを見た時に、神様が創った法則には、寸分の間違いも、バグ(欠点)も無いことを思い知り、おののきます。すべては、完璧な縁が起こすことなのです。

考えて欲しいことは、地球の人口が80億を超えているのに、
・ 自分の長い人生で、善悪、喜怒哀楽、という「実際の接点」が生じる人は、何名ですか?

仕事を入れても、善悪の相克が生じた人は、数十人も居ますか?
実は、非常に少ないのです。
ただ、その少ない縁の中で、善悪の相克が発生した相手とは、過去生では別の相手としても、

・ その中身自体の因縁の再生。
・ どうして、今生でそういう体験を自分がするのか。

これを死後に、見せられると思って置いてください。
これを真澄鏡で見た魂は、完全に納得し、ノックアウトされます。

そして、今生を後悔し、誰もがそういうことならばと、来生は今度こそは!
と思いますが、記憶を無くて生まれて見れば、その本性はまた不満タラタラ、なぜ自分だけが? 
と成っています。

自分に起こることは、虎視眈々と頑張るのが最善です。
アノ世での答え合わせを楽しみに、何事にも悩まずに頑張りたいものです。