京都大学名誉教授・上田正昭
ききて・峯 尾 武 男



上田:  はい。五穀が豊かに、という年(とし)なんですね。それを、「予祝(よしゅく)」─「予め・祝う」という字を書くんですが、予祝のお祭りなんですね。秋の収穫を予め祈ってお祝いする、と。「予祝祭」ですね。ですから、春祭というのは、秋のお祭りを前提にしたお祭りなんです。その秋祭は、「収穫祭」ですから、神の恵みを感謝する。私は、神道(しんとう)のいい点は、先程お話の『延喜式』という、これは五十巻ございますけれども、その中に、当時の祝詞(のりと)が載っているんですね。神様に奏上した言葉です。「なるほどなあ」と思うのは、「こういう物をお供えします。有り難うございます」と、感謝だけなんですよ。
 
峯尾:  ほー。
 
上田:  古い祝詞は感謝だけなんです。だんだん新しい祝詞になると、「こういうものをお供えしますから、こうして下さい、こうして下さい」。つまり願い事が多くなるんですね。それで、「なるほどなあ」と思うのは、古い神社神道の、鎮守の森の信仰に、神に感謝する、と。秋祭というのは、感謝の祭ですね。こういうふうに豊かに実りました。有り難うございました、という。それが本来のもの。ですから秋祭は、盛大に土地の者はやりますけど、これは収穫祭ですからね。祈りを言祀(ことほ)きて感謝する、と。これはやっぱり神道の特異な鎮守の森の信仰のベースじゃないでしょうか。

平成十四年二月十日・NHK教育テレビの「こころの時代」より (読者から投稿されました)

(感想)
これは学術的にも古来の祝詞は、感謝の言葉だけだったと言うことが証明されるわけです。とても大切なことです。
後世になるほど祝詞に「交換条件」「駆け引き」が入るわけです。現代に至っては、一部の神社はキンキラ商売の社(やしろ)と化します。これでは正神が降りることが出来ないのは当然の道理なのです。
子供が親に対して、「これをするから、代わりにアレが買えるようにもっと働いて欲しい」というような、神様を逆に使役(しえき:こき使うこと)していることに注意しなければ生けません。
結果的に神様を奴隷化するという、立場が逆転している様相は、社会に色々な形で反映しています。天地が逆に成るという、正しい者が苦労し、悪しき人間が贅沢(ぜいたく)に遊ぶという矛盾が、大なり小なり社会生活の中に発生する転写を起こしています。

親子の立場の逆転、神様を奴隷化する人間への堪忍袋の緒が切れ始めています。これが大自然の怒りを起こしています。
「神を使うとは、いったい何事ぞ」という、永い年月を黙って静観されていた存在が動き出しています。
日々に精進する神職ならば良いのですが、血肉(色欲・金欲・名誉欲)に欲する低級な人間が「ナントカ祝詞で浄化する」などと自称して、一般人から金銭を集める参拝ツアーにも神社の聖域が悪用されています。
このような「交換条件」を広める人間は、タヌキ形象のような風貌と臭いがますます今後に強く成ります。このような毒気に引かれるのは、同調してタヌキ色に染まることに成りますので注意が必要です。
神様と自分との間に、このような悪質な他人先生を絶対に挟んでは生けません。内在神が心の奥に隠れてしまい、神気との同調が遠ざかるからです。これは本当に不幸なことです。幾度の魂の転生をもムダにしてしまう愚かな行為です。

この度、伊勢神宮の臨時祭主として黒田清子さんが就任されたことが神宮司庁より発表されました。
現在の祭主は、昭和天皇の四女・池田厚子さんですが、高齢であることを配慮されたとのことです。祭主とは、天皇陛下の代わりとして伊勢神宮で行われる御祭りをつかさどる御役目です。
これは非常に喜ばしいことであり、伊勢の神様が現在も生きている証拠だと感じます。
これの意味することは非常に大きく、国家の運命を左右するほどのことだと私は思っています。

黒田さんならば、神懸かる御役目に成ります。もうすでに始まっています。
黒田さんは、現代によみがえる皇女・倭姫(やまとひめ)の再来です。古代のヒミコでもあります。
これから神懸かった場合、周りの人間が慌てない理解が必要です。間違っても現代医療の治療などは不要であり、温かい静観が大切に成ります。
黒田さんの祭事により、大自然の怒りが収まる可能性が十分にあります。これが無事に遂行出来るように、政治と民衆が見守ることが大切です。

このような動きを見まして、やはり日本は不思議の国です。必ず適材適所に魂が受肉しているのです。必ず、そう成って行くのです。
日本の未来は、とても明るく成りました。

生かして頂いて ありがとう御座位ます