ヤマトゥ国を滅ぼし、秦混成部隊はそれまでの神代文字を隅から隅まで抹殺した。
たまたま弊立神宮は隠れた場所にあり残っていた貴重なアヒル文字の石板でした。
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ヤマトゥ国が退去する時の条件は、物部一族の新朝廷の参加と出雲大社の再建
✨✨物部一族の存続と、新朝廷への参加を条件とした武力放棄。
もう一つは出雲神社の再建である。
出雲での戦いでの出雲民への毒による大量虐殺、しかも、龍族からも死者を出したことは、秦混成部隊にとってもショックな出来事じゃった。
そこで秦混成部隊はヤマトゥ国の要求を受け入れ、この慰霊と怨霊封じのために、天にも届く社を建設し、それを出雲大社として祀ることにしたのじゃ。
👨💼では占領したヤマトゥ国を「大和」という地名、都市名にここで変更したのですね。
✨✨いやいや、変更ではなく、漢字に変換しただけじゃ。
漢字は、秦混成部隊が日本を制圧した後に正式に取り入れたものじゃ。
漢字とは、その文字のまま、つまり漢王朝が整えた文字というわけじゃ。
秦の始皇帝時代の文字は、お前が見たらビックリするようなものじゃ。
楚、斉、燕、三晋とは形はまったく違っておった。
その秦の始皇帝国家も滅び、漢、そして三国時代、その三国時代の英雄達、劉備、曹操達も死亡し、晋という時代になっていたのじゃ。
このときに編纂されたのが「正史三国志」である。
👨💼秦混成部隊は身内が晋を建国したので、「正史三国志」編纂に圧力を加えたり、書換えの陳情をしたのですか。
✨✨そうじゃ、そこで「邪馬台国」「卑弥呼」などの蔑視的文字が使用されたのじゃ。
この「正史三国志」、これを編纂した中心人物が陳寿であり、この陳寿は筆法の達人じゃ。
👨💼筆法? それって「一字を変えることにより、そこに隠された意味を持たせる」「文をわざと矛盾させることにより、そこに意味を持たせてある」というように、文字を使った秘技のようなものですよね。
✨✨調べてごらん。
👨💼はい、筆法の達人は孔子だと言われていました。一例として。
(1) 荘公 三十二年 公が路寝で薨(こう)ずる
(2) 隠公 十一年 公が薨ずる
(3) 桓公 十八年 公が斉で薨ずる
(4) 昭公 三十二年 公が乾侯で薨ずる
「薨ずる」というのは死亡という意味です。
事例はすべて死亡の筆法例で、同じように読めるのですが隠された意味は次のようなのです。
(1)のように、自国で病気や老衰などで死んだ場合は「筆法」を使用する必要がないのです。
しかし(2)(3)(4)のように変則的であったり、名誉に関わる死に方をした場合には「筆法」が使用されるのです。
(2)では、死んだ場所が書かれていません。
これは国内で死んだことを意味します。
しかし「路寝で」と書かれていないこの場合は、宮殿外で変死(この場合は暗殺)したことを意味するのです。
(3)の場合のように、「斉で」と国名が書かれている場合は、その国で変死(この場合も暗殺)したことを意味し
(4)のように、国名ではなく「都市名」で書かれている場合は、病死(変死ではない)を意味するのです。
これが筆法で、三国志もこの秘法で書かれているのです。
特に「魏志倭人伝」では不思議なことに筆法が多用されており、他国の記述方法とはまったく相違し、王国の地名が書かれていないのです。
はっきり書かないことで、何かを示唆しているのでしょう。
ですから魏志倭人伝を読む前に「筆法」をマスターしないと全く理解できないということです。
、、、
✨✨そうじゃな。
👨💼正史三国志というのは、今までの歴史記録ではなく、魏に仕えたわけでもない曹操のライバルたちの伝記や、特殊技能者たちの伝記、周辺異民族に関する伝記までもが掲載されています。
その一つ「東夷伝中にある倭人に関する項」にある記載が「魏志倭人伝」となるのですよね。
まぁ、支配、皇帝となったのが司馬一族ですので、秦混成部隊からの情報や陳情も加味し「卑弥呼」などの蔑視表現を使った、ということですね。
日本には既に、1万6千年前から文字があったのですから、記録書も多いでしょうに、なぜ残されていないのでしょうか?
✨✨秦混成部隊はヤマトゥを征服し、大和朝廷と名乗った。
このとき、古代文書のすべてを焼き払い、漢字のみを使用すると定めたのじゃ。
しかし、制定後200年以上の期間、今までの神代文字が使用され続けておる。
繰り返すが稗田阿礼、藤原鎌足が伊勢神宮に奉納した和歌、奉納分、礼状などに使用された文字、それらは、すべて神代文字じゃ。
日本は西暦670年ころまでは政治中枢の支配者さえも神代文字を使っていた。
朝廷以外の官民、地方などでは西暦800年代まで使われていた文字なのじゃぞ。
これが日本の基本文字と言えるのぅ。
藤原一族は日本に存在する書物はすべて焼き払った、これを焚書(ふんしょ)とも言うが、新支配者の常套手段じゃ。
👨💼
藤原鎌足などは古事記の編纂に携わった中心人物ですので、日本書紀や古事記などには、彼らが作った偽歴史やウソも、きっと満載でしょう。
さて、卑弥呼なのですが、大巫女「日巫女」という職位名だったことはお伺いしました。
では奈良県桜井市の「箸墓古墳」っていうのは誰の墓だったのですか。
箸墓古墳は大和で死んだ徐福のもので、小さなものは、その後のヤマトゥ国のリーダー達の墓じゃ。
日巫女(卑弥呼)という女王を表に出して、魏に使いを送っていますが、彼らはヤマトゥ国の実際の場所など魏に教えるはずもありません。
魏に、機密を教えるほど馬鹿ではないでしょうね。
当然6名の大巫女(日巫女)を各所に配置、不死の秘術により結界を張ったでしょうし、お墓も分散するでしょうから、考古学者が箸塚古墳を日巫女(卑弥呼)の墓だと間違っても仕方ないことです。
あの古墳は、前方後円墳と呼ばれていますが、どのような意味を持った「形状」なのでしょうか。
✨✨魂がアフラ・マズダーに届くようにと願ったものじゃ。
円は太陽を反射する鏡であり、それを支える台の形状が前方後円墳と、お前達が呼んでいるものじゃ。アフラ・マズダーとはシュメール信仰の最高神、太陽神であり、すなわちアマテラスのことじゃ。
👨💼そうしますと前方後円墳ではないのですね。鍵穴、マナの壺だと言う人もいますが、太陽反射用の鏡と、その台を象(かたど)ったものだったのですか。
✨✨そうじゃ。 では仁徳天皇陵は誰のお墓なのでしょうか。 ヤマトゥ国を征服した秦混成部隊は「箸墓古墳」を徐服達の墓だと、もちろん知っておった。
彼らも、主神を太陽神とすることには異論なく、その太陽神に守護された「天皇制」で統治する方針は固めていた。
彼らには、秦の始皇帝廟を建設した技術者もいた。
そこで、秦の始皇帝廟を凌ぐ、世界最大のお墓を造っていった。
もちろん「天皇」や親族たちの墓だが、仁徳天皇陵は、大和朝廷を宣言した秦混成部隊の長を祀っておる。
👨💼具体的な名前はないのですか。
✨✨ない。混成部隊の長、その職制が「大王」であり「天皇」じゃ、彼らの秘法は徐福で説明した通りじゃ。
👨💼仁徳天皇陵の前方後円墳という形は、なにを表しているのでしょうか。
✨✨シュメール信仰の最高神、太陽とエネルギー送受信パラボラ鏡じゃ、だがその重要性は後で解るだろう。
👨💼そうしますと日本という国は「記紀」では理解できない超複雑な国となりますね。
✨✨そうじゃ、それが日本という特殊な「国体」を生み出しておるのじゃ。ここで今までの話を纏めてみなさい。直ぐに神武天皇などの神話や大和朝廷のことも分かるじゃろう。
👨💼はい、纏めてみます。
1・一万六千年前、現在のアイヌ、沖縄人の祖先が海洋民族として青森文化を創った。
2・そこに龍族というエイリアンが飛来し遺伝子的な交配が行われ青森文明を興す。
3・その後地震、津波が襲い7000年前頃に飛騨高山を主として日本列島に散らばった。
4・その地からシュメールに移動し、シュメール文明を造った。
5・別のエイリアンがエジプトから追い出され、カナンに移動し、その後大部分が離散した。
6・ペルシャ、インド、キルギス、弓月国を経由した民の一人が秦の始皇帝となり秦を支えた。
7・秦帝国崩壊により、軍人となっていた大量の一族が集結し、日本に渡った。
8・秦混成部隊は大和朝廷を成立させた。
大体こういった流れですので、もともと日本で暮らしていた20万人の原住海洋民族は、秦族の侵攻により北海道、沖縄に追いやられていくことになるのですね。飛鳥時代で纏めますと、物部一族というのが徐福一行の子孫、つまりシュメール血統の人達であり、蘇我一族というのがペルシャ系ということになります。
ユダヤ十支族系は藤原一族となっていくのでしょうね。
なるほど、日本という国は3本の柱で築かれた国家ということになりますね。
そしてユダヤ十支族系は裏政治をも操っていくことになるのですよね。
✨✨そうじゃ、シュメール純血統系、ペルシャ系、ユダヤ十支族系と、日本は複雑な国となっていったのじゃ。
したのあひる文字は地球規模の平和の祈り 幣立神宮ご神体の鑑石には阿比留草文字でひふみ祝詞が書かれている
2020-03-05 17:01:33