👨‍💼このような事例ですね。特に「日ユ同祖論」のメインは「祇園」という言葉でしょうね。

✨✨面白いのう。それで「祇園」がどういう意味を持つと言うのかな。
 

👨‍💼古代イスラエルにあった聖地、シオンの丘が由来です。京都の八坂神社ですが、昔は祇園神社という名前でした、京都の人達は今でも「祇園さん」と呼んでいます。この神社の祇園祭ですが、古代イスラエルでは国から疫病を払う祈祷の祭りを王様主催で開かれていたものと同じなのです。聖書、ノアが洪水から地上に復活した7月17日、ノアは山上にて神を礼拝したことから、古代イスラエルではその日にシオン祭を祝うようになりました。生命の復活の祝い、そこで祇園祭ではその象徴として子供を山車(だし)のメインにしているのです。

その山車はモーゼが降り立ったアララト山を表しているのです。

✨✨ほう、その他はどのようなものじゃな。

👨‍💼多くは神社にまつわるものですが、神官服の房飾り、諏訪神社の御頭祭、山伏の兜市(ときん)、禊(みそ)ぎ、神輿、神社、手水舎(ちょうずや)、狛犬、鳥居、榊、菊の紋、十五夜の月見、お盆踊り、一つ物神事、塩まき、ハレとケ、天狗、虎の巻・・・、と挙げたらきりがないほどです。日ユ同祖論関係で取り上げられる代表的なものを列記しましたが、これらの内容を一つ一つ説明するだけで一冊の本になります。

✨✨食べ物についての関連は無いのかな。

👨‍💼ありますよ。正月に食べる「モチ」です。古代イスラエルでは7日間「種を入れないパン」
を食べる祭りがあったのです。種を入れないパンを「マツァ」と発音するのですが、それがモチとなり、正月はモチを食べるということです。その祭りの前は大掃除するので「大掃除祭り」とも呼ばれていたものです。

✨✨再度いうが飛騨高山、中部山岳で採れていた「わさび」も忘れてはならんのう。

👨‍💼あっ、ワサビですか、そういえばお聞きしていましたね。もちろん寿司に入れるやつですよね、長野が名産の。

✨✨そうじゃ、それは薬用としてシュメールに持ち込まれたものなのじゃ。

👨‍💼シュメール王家の紋章、菊の紋も同じなのでしょうか。

✨✨そうじゃ、しかしそれは青森文明の民のものではなく、龍族王のシンボルが一六菊花紋じゃ。
話を戻すが、屋久島の永田村、平家の落ち武者末裔のその娘の名はなんというのかな。

👨‍💼神宮司〇〇子さんと言います。

✨✨やはり神社関係じゃな。平家が壇ノ浦で破れて離散し、屋久島でもその後800年もの間、秘密、血統が守られておる。神社の役目は、歴史を温存することにある。つまり、血統を守る役目が神社の隠された使命なのじゃ。人水したはずの安徳天皇は、高知の香美、高板山に落ちのび、隠れ住んでいた。その安徳天皇を12の落武者集落が守っていたのじゃ。もちろん、そこにも神社があり、代々秘密裏に歴史は守られておる。800年程度の期間では末裔が住んでいることも多いが、3000年、5000年となると、伝承される歴史は遺跡、石像、神話、お伽噺、童歌、神宝を守る神社、血統、DNAのみとなっていくのじゃ。

👨‍💼そうですか。正倉院、法隆寺、それ以前になりますと、仁徳天皇陵のような古墳の形をとっ
ているのですね。仁徳天皇陵ですが、上空から何度も見ましたが、とても大きくて、墳丘大きさでは全長486Mです。この規模から言いますと2千人の人間が毎日働いて15年間かかると言われています。ピラビッドの底辺の長さ230M、秦の始皇帝陵の底辺の長さ
350Mから考えても世界最大のものです。あの前方後円墳という形ですが、何度上空から見ても、私には理解出来なかったです。太陽エネルギーを送受信するパラボラ鏡と、その台をかたどったものということは納得出来ました。このような古墳が日本国中に4908基も
あるのですが、これは誰が造ったものなのですか。

✨✨お前達の言う仁徳天皇陵は、大和朝廷が威信をかけて秦の始皇帝陵より大きい物を造ろうとした成果じゃ。同行した技術者には秦の始皇帝陵の設計に携わったものもいたが、その技術者達は殺害せず、秦の始皇帝は日本に同行させたのじゃ。

👨‍💼では、あれは秦の始皇帝陵と同じ目的、秦混成部隊の最高リーダーと埋葬物を納めた場所なのですか。
そうしますと建造時期は紀元前200年くらいになるのでしょうね。

✨✨そうじゃ。理想郷、つまり大和の地を支配したのは徐福一行じゃ。彼らは争いもない平和な国家を造っておった。それがヤマトゥ国なのじゃ。
それを見習って大和朝廷は、日本全土に前方後円墳を4907基も造っていったのですか?それはすごい。全国で造ったのが、徐福の別上陸隊の人達ですね。それにしてもすごい財力です。その間に秦の始皇帝が死亡し、息子、胡亥が引き継いだのですが宦官により暗殺、そして僅か10年で秦は滅亡していくことになります。その後反乱の世となったのですが、劉邦が統一し、紀元前202年から漢の時代になります。秦の残党は民族の違う「漢」を嫌い、日本に渡ってくることになるのですから、ヤマトゥ国は西暦50年の頃までの約300年間は平和な国家だったと言えますね。そんな平和な国家も、続々と秦国残党が九州に集結、そこにペルシャ系武力部隊が加わっていき、九州集結軍対ヤマトゥ国という不安定な情勢になっていくのですね。ここからの話はすでにお聞きしていますが、その後、ヤマトゥと九州に集結した秦寄せ集め部隊とは和睦し、ここから物部一族は、神事と物作りの専門職として軍事からは距離を置くようになるのでしょうね。