つい最近村上春樹にハマり始めました、ふじこです。

いいですよね春樹さん。


ジェットコースターがレールの上をぴったりと、しかも高速で走り抜けていくように、

書かれてある文字にぴったりと張り付いてそれ以外に意識を向けることを一切止めて読んだ、


海辺のカフカ (上) (新潮文庫)/村上 春樹
¥740
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海辺のカフカ (下) (新潮文庫)/村上 春樹
¥780
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を読み終わりました。

本を読むことに集中するのはとても気持ちのよいことです。


で、村上春樹について書こうと思い立ってふと、あれ?前にも書いたことあるくない?と思い、

記憶のもやもやを選り分けていくと、下記の文章が発見されました。


アフターダーク (講談社文庫)/村上 春樹
¥540
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を読み終わったときに書いたものです。

今から書こうとしてたこと、

つまり私が春樹の作品に対して思っていることが大半ここに書かれている気がしたので

(さらに言うと、ここでブログに載せておかないともう載せるタイミングなさそうなんで)、

さきにこっちを載せます。

『アフターダーク』の書評であり、私と村上春樹作品の出会いについて、という感じです。



※注


文体がいつもとちょっと違います。

前にブログで書いた内容とちょっとかぶってます。

すごく中途半端なところで終わっていた文章を無理やり終わらせたので、しり切れトンボ的な終わり方です。


ごめんなさい。


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長い間、村上春樹は気になる存在だった。
気になるタイトルで、日本人には珍しく海外でも広く読まれていて、もちろん日本にもたくさんのファンがいる。
「趣味は読書」という、私にとっては真実だけれど、

ややもすれば実の伴わない無難な答えと受け取られがちな言葉に真実味を持たせるためには、
村上春樹ぐらいに対しては何らかの所見をもっていないと、という恐怖観念に近いものがあった

("ぐらいに"というのはあまりにも大きな存在であるがゆえに、という意味です)。


けれど、私が村上春樹に対してコメント出来ることといえば、


「読んではみたけれど、読めなかった」


だった。


高校生のとき、私は村上春樹にチャレンジした。

『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』など、有名どころは一通り手にとってみた。
しかし、数ページ読んでも面白いと思えず、断念したのだった。

有名な文学作品、例えば宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や、夏目漱石の『三四郎』などでも、
数ページ読んでも退屈で読み進められなかったことは何度かある。
それゆえ、「あぁ、村上春樹とは合わないんだな…」との結論で一応落ち着いたのだった。

なんにせよ、「読んでない」と「読んではみたけど読めなかった」の間には絶大な差があると思うので、
取りあえず読んではみたけど、村上春樹の書きたいことと、私の問題意識が重なっていなかったとか、

おそらくはそうゆう理由で読めなかったというのは、私にとって答えとしては一応満足のいくものだった。


それから長い間、春樹は読書の対象としては候補に挙がってこなかった。
転向のきっかけは内田樹さんである。

内田樹さんとの出会いはとても偶然だった。

たまに行くカフェで『疲れすぎて眠れぬ夜のために』を見つけたのだ。
そのときは友達と一緒だったので、触りだけ読んで後日買うことを決め、

買ってちゃんと読んでみたところやっぱりとても面白かった

(だがその話を始めるとこの文章がいつ終わるのか検討すらつかなくなるので後日におく)。
その内田樹さんの著書の中に、何度も村上春樹を好意的に取り上げる箇所が出てくるのである。


時折りしも『1Q84』が出版された頃で、春樹は社会的にも大きく取り上げられていた。
それでも、私は春樹に手を伸ばそうとはしなかった。
「面白くない(別に春樹の作品が無価値だとかそういう意味ではなくて、私には合わないということ)」

という印象が拭い去れなかったからだった。

が、そこでもう一度、偶然的な引力を感じる出来事があった。
旅先で、バスを30分ほど待たねばならない事態が生じたときのことである。
手持ちの本はなく、目の前には本屋。
文庫本くらいなら買って損はないだろうと、本屋に入った。

しかしそこは小さな町の本屋である。

学習参考書と漫画と雑誌に押されて、文庫本のためのスペースなんてほとんどない。
そのわずかなスペースにさえすっぽりと本の並んでいないスペースがある

(本屋で棚がスカスカなところなんてめったに見れないと思う)。

うむむ、と唸りながら本を探し、見つけたのが『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』だった。
春樹のエッセイは好きだった。

高校生の、春樹に挫折した日々に唯一ちょろちょろと読んだのが、
『「そうだ、村上さんに聞いてみよう」

と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける

282の大疑問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』や、
『少年カフカ』である。


個別の内容は覚えていないが、面白かったという記憶はある。
そうゆうわけで、私は『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』を買うことにした

(こちらの書評も後日機会があれば書こうと思う)。


それがやっぱり面白かった。
私は一人で本を読みながら笑うことを恥ずかしいとか変だとかはまったく思わないのだが
(むしろ、対人のくだらない話に笑えて本の中の上質な話で笑えないほうがけったいである)、
これは本当に、読んでいる間中クスクスと笑いが止まらなかった。
そして、内容もさることながら、私が純粋に「スゴイ」と思ったのが、

その文章自体の豊かさというか、美しさだった。

あえて感覚的な言葉になることを憚らずに言うのなら、

飛び跳ねるように弾んでいて、カラフルで、軽やかで、しかもしっとりとした重みがあるのである。
「スゴイ」と思った。この人の文章をもっと読みたいと思った。


旅から帰ってまず手に取ったのは『ノルウェイの森』である。
高校生のときに読んだ『「そうだ、村上さんに聞いてみよう」~』や、

『少年カフカ』の中でたびたび取り上げられていて、なんとなく馴染みがあったからだ。
加えて、タイトルもなんとなく惹かれるものだった(私的にはそういうのはとても重要だと思う)。

読んでみての感想は(詳しい内容は後日に書こうと思うが)、「面白い」だった。
実は大学に入ったばかりの頃にも村上春樹にチャレンジし、

そのとき読んだのは『神の子どもたちはみな踊る』だったが、
その独特な比喩が全くしっくりこなくて、

春樹の小説の文章に対しては、「もやもやするなぁ」という印象をもっていたのだが、
そんなことも一切なかった。

正直に言って、最初の方はあまり面白いと思えず、間に別の本を挟みながら少しずつ読んでいたのだが、
途中からは少しでも読み止るのが惜しくて、湯船につかりながら読んでいたときなどは

(私は毎日30分ほどは半身浴をしながら読書をするのである)、
読みとめられず、一時間以上湯船から出られなかった。


次に読んだのは『風の歌を聴け』である。なんにせよ私はきっちりとしているのを好むので、

やはりデビュー作を読まねばと思ったのである。
この話も詳細は後日におくが、

個人的には『ノルウェイの森』ほどではないにせよ、心に引っかかるところがあった。
この頃には本屋に行けば取りあえずこれといった目的はなくとも村上春樹のコーナーに足を運ぶようになっていた。

そして、次に選んだのが今回紹介する本、『アフターダーク』である。


なぜ小説を読むのか。
私は何にでも理由を求めてしまうので(あまり良くないことと分かってはいるのだが)、

小説を読むという行為にも理由を求めたい。
最近、私はこの答えを「自分への肯定感を得るため」と思っている(暫定的な答えではあるが)。

生きている中で世の中に不条理を感じることは当たり前だけれどたくさんあって、
でもそんなことを普段の生活の中で真剣に語りあう機会は殆どない。
実用書はその不条理をどうやって上手くやりこなすか、つまりHow toを披露するためのものであるので(多分)、
不条理そのものはあくまで「やりこなす対象」としてしか描かれない。

でも実際不条理は「襲ってくるもの」である。
「ようし、やりこなしてやるぞぉ!来い来い!」と思っているわけではない。
一度襲われてから、何とか気持ちを立て直してやりこなすのである。

もちろんやりこなす方法も知りたい。

が、襲ってこられたときのあのやるせなさも何とかしてほしい。
そこを埋めてくれるのが小説なのだと思う。
不条理がただ「襲ってくるもの」として描かれているのを読むとき、私の心にはスッとした感じがする。


『アフターダーク』で、私の記憶に一番強く残ったのは次の一文である。


「つまりさ、一度でも孤児になったものは、死ぬまで孤児なんだ。
よく同じ夢を見る。僕は七歳で、また孤児になっている。
ひとりぼっちで、頼れる大人はどこにもいない。
時刻は夕方で、あたりは刻一刻と暗くなっていく。夜がすぐそこまで迫っている。
いつも同じ夢だ。夢の中では、僕はいつも七歳に戻っている。
そういうソフトウェアってさ、いったん汚染されると交換がきかなくなるんだね」


「そういうソフトウェア」は「いったん汚染されると交換がきかな」いのである。
読んだところで、「あぁ、そうだよね…」と深く吐息が漏れてしまった。


私も、過去汚染されて交換のきかなくなったソフトウェアを抱えている。
どこで汚染されたのか、今となってはもう明確に特定できないが(思い当たる出来事が多すぎる)、
それは確実に存在する。
それはもはや取り返しのつかない歪みである。


それは普段は表面に出ないように隠している事が推奨されている。
だから私はその歪みが他人に気づかれないように気を付けている。
けれど気を付ければ気を付けるほど、意識の中でその存在は大きくなる。
なぜ、自分が自分であることを隠すためにこれほどまでのエネルギーを使わなければならないのか、

私には分からなくなる。
しかも、誰にも気づいてもらえない努力である。


「そういうソフトウェア」は「いったん汚染されると交換がきかない」と言ってもらえて、私は楽になった。
汚染されたソフトウェアを抱えて生きていることは、

なんら特異なことではないと言われているような気がしたからである。
もちろん、自分だけが苦労しているなんて思ってはいないけれど、

そう思ってしまいそうになることがあることは、正直認めざるを得ない。

人間って、世界に60数億人いるわけだから、

"私だけが・・・"

なんてのはそうそう無いって分かっている。

でも世界に1万人、私と同じ何かを抱えている人がいたとしても

それは10万分の1の確率でしか巡り合えなくて、

そんなの奇跡でも起きない限り出会えないから、

やっぱりすごく孤独を感じることはある。

そうゆうときに、本を読んで「私だけじゃないんだ」と思えることは大きな救いだと思う。


『アフターダーク』を読んで、そんなことを思いました。