うっかりと長い間ご無沙汰してしまいました。

前の記事の日付、8月5日ですって。もう半年以上前だ。


何をしてたんだ!って言われれば、


   ・転職のための勉強をし、

   ・そうこうしているうちに仕事が繁忙期を迎え、

   ・ついに辞める意志を伝えてからは胃痛に苦しんでました・・・


ブログを読み返していると、転職したいと書いている箇所が何度か認められましたが、

転職先も決まらないうちにドロップアウトです(でもやりたいことは見つかりました)。

なんかね、私らしすぎてホントに自分でびっくりです。


その間、私はずっと本を読んでいませんでした。

本に限らず、それまで好きだったこと全部、避けていました。


私の仕事(もう辞めましたが)は企画というか、アイデアを出さなければいけない仕事だったので、

何か本を読んだとか、美術館に行ったとか、そういうことについてポロッとでも漏らそうものなら、

それがどのように仕事に役立つだろうかという話の流れになってしまうのです。

私はそれが嫌で嫌で仕方がなかった。


ただ純粋に、胸の高ぶりや、興奮や感動を求めての行為だったのに、

いつの間にか、どうやって役に立てようかという観点からしか見られなくなって、

大好きなものが、それ自体を楽しめなくなって、辛かった。

どうやら私は、物事を感性的に楽しむことと、

どうやって役に立つだろうと分析することとを同時にはできないようでした。


役に立つから好きなんじゃなくて、

好きなものはいつか役に立つかも、好きなものがたまたま役に立った、くらいでいいと思うんだけど。

すべての行為を、何らかの役に立てることを目的に為すなんて下品じゃないですか。


経緯や理由はともあれ、結果を端的に述べると、

この2月いっぱいで辞めることになり、現在、有給消化中・バラ色の日々です。

毎日明日の予定がないって本当に素晴らしいことです。


それでまた読書を始めたので、このブログを思い出しました。

「忘れてたのかよ!」って声が聞こえてきそうですが、うーん、あることは知ってたんだけど、

意識の上ではないことになってたというか、相変わらず自分で自分が説明できない・・・。

でも、今までいくつかブログを作っては止めてきて、

こんな風に長期間空けてからまたやろうって思えたのは初めてです。

自分って変化していくんだね。


それは多分、読書が自分にとってどれほど大切なことのなのかということと、

書くことがどれほど自分にとって大切なのかということが、

心の底からわかったからだと思う。

だからまたここに書きたいと思った。


あともう一つ、最近分かった(知ってるだけではなくて、体の芯から理解した)新しい考え方の一つに、

「商売っ気」というものがあって、

松浦弥太郎さんがご著書の中で書かれている言葉なんだけれど、

自分が持っているものを世の中に役立てていくということ、それも大きな理由の一つです。

私には本を読むことと書くことしかできないから、

そして私は人の書評に大いに心救われたり、自分の文章で元気づけられたりするから、

書かなきゃいけないって思った。


こんな文章が誰かの役に立っていれば、

私はこれを日記じゃなくてブログに書いてよかったなって心の底から思います。


ではでは次回からはまた本について書いてゆきます。



― 追記―


文中で下品だどうだという話が出てきますが、

あれはつまり、感性で見ることと分析的に考えること、

その両方を為すことをできない私が、結果的に

どうやったら役に立てられるんだろうかということだけで物事を見ることになってしまっていたという、

私下品な人間だったわということであって、

多分、そうゆうことができる人もいるんだろうなぁということも思うので、・・・うん。

なんだか他人を非難するみたいに読めて気になったので追記しました。

自分が人とは違うということが分かっていて、何を話しても通じない。

それはひどくつらい事だ。

言葉が通じない。伝えたいことが伝わらない。

それは無力感だ。

無力感は話す気力を奪う。

どうせ理解されないって思いながら話すということは、

普通人が何かを話すときには、

分かってほしいという気持ちと、話せば伝わるという気持ちの二つが必要とされるんだろうけれど、

その両方の程度が低い。

話しても伝わらない。そうゆう自分は人には必要とされていない。

だから分かってもらえなくて当たり前だし、分かってもらいたいと思ってはいけない。

だいたい人間なんて嫌いなものを積極的に理解しようとは思わないから。

理解してもらえないってことは好かれてないってわけで。


そうやってどんどん、話さないからまた話す技術が落ちて、より伝わらなくなるっていう負のスパイラルが進んでいく。

なんかね、そうゆう自分ってどうなんだろうと思うけれど。


この間の満月の夜、一人で月を見ていたら色んな考えが止まらなくなって、

忘れていた昔のことまで思い出して、自分でもびっくりしてしまった。


ママと「月の色は何色か」という話になって、「銀色」と答えたらびっくりして笑われたこと。

月の色は黄色なんだと、そのとき初めて知りました。

今は、銀色よりシルバーという響きのほうがしっくりくるかなぁ。

それは多分、銀色は色鉛筆の色で、シルバーは金属の色を思うからだと思うけれど。

もしくは白かな。


それに関連して思い出したのは、何かの絵で太陽を黄色に塗ったらこれまたびっくりされたこと。

日本人の子供は赤く塗るものなんだそうな。

美空ひばりの聞きすぎなんじゃねぇのとか思うけど。

外国人の子供は黄色く塗るって聞いて、

今だったらやっぱりそんなの人それぞれなんだから日本パラダイムで押さえつけないでくれる?と思えるけれど、

その当時は子供だったから、外国人と一緒なんてやっぱり自分は変なんだとか思ったことを思いだした。


いろんなことがあったよねぇ。

でも、今見てもやっぱり太陽は黄色か白だ。私は本気でそう思う。


言葉にならなくて、いつしか私は話すことを諦めた。

私に理解できたのはいつだって本の中に書かれていることだけで、

だから書くことは私にとって自然なことだった。

英語で話しても伝わらないからスペイン語話すみたいな、そんな感覚。


書くことで、何かが整理されて、また動けるなら書くしかないと思った。

よく、インタビューなんかで歌手が歌うことについてそんな風に言ってたりするけれど、

痛いほど分かる。

書かないと、今書かないと、私はここから立ち上がるために足に力を入れることさえできないし、

多分この椅子の上で朝まで腑抜けていることになる。だから書く。


誰か、と呼びかけるのはもう止めた。

一人で生きていくしかないから。受け止めるしかないから。

ただ、死にたくて生きたい。

毎日毎日死にたい。でも死にたくない。生きたい。

こんなに毎日辛くて、死んで止められるなら止めたい。

でも、明日が、明後日が、10年後が、50年後が、見たくて、

こんな日々が、こんな私がどこへ行くのか、こんな人間の行く末が、私は見たい。見たいんだ。見たい。


世の中はすごい人ばっかりだ。

本屋さんに行ったってすごい社長さんの本ばっかり並んでいる。

みんな時流をつかんで信念を持って、ばきばきに仕事をして、そこにいる。

それが出来たらそこへ行く。

でも私が行くのはそこじゃない。

私は私のようなひどい人間の話なんて読んだことが無いから、だから知りたい。

どこに行くんだ。



読書会ってね、みなさんどうですか?

私やってみたいんですけど。


なんか大人になったら、というか学校をでたら、議論をしなくなる気がします。

仕事で会議とかもちろんあるけど、大学のゼミみたいに、

全員の立場がフラットで、他人に対する思いやりとか気遣い以外の一切の遠慮、

つまり立場上の遠慮とか他人行儀的な遠慮なんかが必要とされないような、そうゆう議論ってないです。

・・・もしかしてありますか?私は無いんですけど。


なんかそうゆう生活を日々送っていると、

考えても吐き出す場がないからどんどん脳みそに汚泥が溜まって稼動が悪くなってくるっていうか、

あぁ、身体に良くないわ・・・と思います。

使わない機能は衰えていくし、無駄なファイルが溜まっているパソコンは動きが重たい。


人間には議論して人と分かり合うことが必要と思います。

そういえばそうゆう深い恋愛から足が遠のいて久しいです。

だからなのか?読書会がしたいのは。


それはさておき。

正直、春樹じゃなくてもいいんです。

それがありきたりなビジネス本とか、実用書とか、答えを勉強するためのものじゃなくて、

考える端緒となることを望まれて書かれた本なら。

なんかね、もう答えは要らない。

全部分かってるから。


別に天才じゃないけど、自分で1ヶ月かけて分かる答えなら、私はそれを自分で掴み取りたい。

1時間本読めば分かるかもしれないけど、

何か答えを教えてもらう度に、自分の考える力が失われていくのを感じるから。


私の身体の中には人間という生き物が1万年だか400万年だかかけて蓄えてきた何かがあるし、

それはきっと私が意識して使ってる脳みそよりも賢いはずだ。

ゆうなれば第六感というものなんだろうけれど。


だからさ、私はそうゆうものをフル稼働してものを考えたい。

安易な答えはいらない。強くなりたい。


だから、私の第六感が「すばらしい!」と叫んでいる村上春樹を、どなたか一緒に読んだり語り合ったりしてくれませんか。