「『古事記』を読むこと」は、「日本語を考えること」にも繋がる。

そんなことを『古事記伝』を読み進めていくことで考えてしまいますね。


前回に引き続き、『古事記伝』一の巻「訓法(ヨミザマ)の事」より

「声の上がり下がり」つまりアクセントについて読み進めて参ります。

※発音記号は「」「」「」と青字で表記します。


然らば上声の、平声去声にかはる處も有ルべきに、平と去とは、附(ツケ)たる處なく、只上声のみ見えたるは如何(イカニ)といふに、凡て言の連(ツゞ)きて、本ノ声の變(カハ)る例を考るに、平去の上声にかはるが常多くして、上声の平去に變(カハ)るは、いと稀(マレ)なり。


故(カレ)記中に、声を附(ツク)る中に、平去に附(ツク)べき處は、おのづから無(ナカ)りけらし。


然るに宇比地邇(ウヒヂニノ)神、須比地邇(スヒヂニノ)神、此ノ去声たゞ一ツあるは、比地邇(ヒヂニ)てふ同音の二ツならびたる、一ツの邇(ニ)は上声、一ツの邇(ニ)は去声にて、忽(タチマチ)に音の異なるが故なり。

【此ノ邇(ニ)は土(ニ)にて、本ノ声去なるを、比地邇(ヒヂニノ)神とつゞくによりて、一ツは上声となれゝば、上と附ケたるは、他の例に同じきを、去と附たる方は、本ノ声なれば、附る例にはあらざれども、一ツの上声に傚(ナラ)ひて読(ヨマ)むことを慮(オモヒハカリ)てなり。】


又山津見(ヤマツミ)てふ神ノ名、つゞきて多く出たる所に、大山津見(オオヤマツミ)、奥山上津見(オクヤマツミ)などは、声を附け、淤縢(オド)山津見、闇(クラ)山津見などは附(ツケ)ず。

是(コ)は附ざる方は、山を本音のまゝに、平音に読べしとなり。


又奥津嶋比賣(オキツシマヒメノゝ)命、市寸嶋比賣(イチキシマヒメノ)命、これも然なり。

【もしかの須比智邇に、去声を附たる例によらば、これらも本音の方にも、山と附クべきことなるに、然らざるは如何(イカニ)といふに、彼レは初メにて、まがひやすきを、此レは多くの山津見のならべたる中に、附ケたると附ケざるとまじはれゝば、附ケざるは本音なること、さとりやすく、且(ソノウヘ)上(カミ)に既に彼ノ例もあれば、疑ヒなからむ。又奥津嶋比賣は、山津見の例にて、いよゝ明らかなるべし。】


おほかた声を附たる例かくの如し。


抑神ノ名などを読ムにも、古ヘはかく其声の上下(アガリサガリ)をさへに、正(タゞ)し示(シメ)したるを以て、すべて語(コト)を厳重(オゴソカ)にすべきことをさとるべし。


後世人たゞよしなき漢意(カラゴゞロ)の理をのみさだして、語をばおほろかにして、心をつけむものとも思ひたらぬは、いかにぞや。


宣長先生は、「本ノ声の變る例」を『古事記』本文中での音声記号から考えて、

「平声・去声→上声」が多く、「上声→平声・去声」は少ないとされています。


続いて「比地邇(ヒヂニ)」と「山津見(ヤマツミ)」の二つを例に『古事記』本文中で「音声記号」が附けられているその意図を考えられています。


「比地邇(ヒヂニ)」の「邇(ニ)」は本来は「去声」にて発音されるものであるが、「上声」で発音する「宇比地邇神」がその前にあるために、「間違えて発音しないよう」に注意するために「わざわざ『去』の記号が振られている」と言われています。


これは、『古事記』という作品が「語ることを想定して」書かれている事を示しているのではないかと思われます。

元々、天武天皇の命で稗田阿礼が暗誦した「『古事記』の原型」ともいうべき神々の誕生から大和朝廷による全国平定までの物語を「保存のために文章化」したものですので、筆録者である太安万侶が「大和言葉を尊重する」立場をとったということが分かるものではないかと思います。


そして、宣長先生はそれを感じ取っていたということになります。

本来は『古事記』はそういう観点で考えるべき作品なのかもしれませんね。


「山津見(ヤマツミ)」では元々「山」が「平声」であるのが、「さとりやす」いので間違いにくいと判断されて、「音が変化する(=アクセントが変化する)」ところにのみ記されていたと宣長先生は言われています。


宣長先生は、そのように「音の区別(アクセントの変化)」について、古代の人々がそのように読んだのだから、後世の人間があれこれ言って尊重することなく、発音記号が振られている事を無視して読むべきではないとされています。


『古事記』編纂を命じた天武天皇、「原『古事記』」を暗誦した稗田阿礼、『古事記』を文章化した太安万侶。


彼らの『古事記』で表現しようとした「古代日本語」を尊重して、『古事記』を読むことが大切であり、それを無視して「漢意の理」つまり「儒学の考え方」で解釈して『古事記』を読むことは、「言葉を疎かにする」になる。


宣長先生は、「『古事記』を『古事記』として読むこと」ができない人々に対して、憤りを通り越してあきれているかもしれません。


現在にまで至る『古事記』研究においても、「大和言葉」を重視するのではなく、「物語の裏側」つまり「大和朝廷の正統性」についてばかり読み説くことばかり重視してきて、そのたびに「日本人の民族性」を傷つけてきたように思います。


「言葉を大切にする」ということは、

「語り継がれてきた物語」を尊重することです。


南さんちの「つれづれなる記」

宣長先生は「全ては『言(言葉)』に通じる」と考え信じて、

『古事記』を「大和言葉の宝庫」として、尊重されたのです。


それはこれまでの連載でもお分かりだと思います。

「物語」とは、「言葉で語ること」です。『古事記』を読むことは、「言葉を尊重する」だと思います。


「自国の言葉の尊重」

それができない民族の未来は、暗いかもしれません。


『古事記伝』から「『古事記』を読むこと」は、ただ単に本居宣長先生の「『古事記』研究の道のり」をたどるだけでなく、「大和言葉を大切にすべき」という宣長先生の我々日本人へのメッセージを「『古事記』を通して知る」ことにもなるのかもしれません。


「歴史の記述の詳細さではない、如何に『大和言葉が重視』されているか」

宣長先生が『古事記』を重視した意味をもう一度考えるべきかもしれません。


次回からは、「日本語の日本語たる所以」である「テニヲハ」つまり「助詞」の類の話となります。


我々が「当たり前」と思っているものが本当は大切なのだということを『古事記』の時代から考える。

それが「『古事記伝』を読むことの意義」の一つかもしれません。


それでは。