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暑いです。春と秋がなくなって日本は二季になってしまった

 

ので、まだ当面暑いのでしょう。

 

こんにちは!

 

靖國神社遊就館へ行ったつづきで、今回はバー・モウに

 

ついて書いてみます。

 

1893年2月8日、イギリス領ビルママウビンで

 

バー・モウは生まれます。

 

バー・モウは中等教育、ラングーン・カレッジを1913年

 

に終了すると教員として数年間働きます。

 

教員退職後は1917年カルカッタ大学で修士号、

 

1924年ボルドー大学で博士号を取得。

 

ビルマに帰国してからは、弁護士活動を行い、

 

貧民党を1933年に結成します。1937年にビルマが

 

インドから切り離され個別の植民地となるとビルマの

 

初代首相に任命されます。

 

1939年政情が安定しなかったため下野。

 

1943年には日本軍政下のビルマ独立宣言とともに

 

国家主席になります。戦後は東京へ亡命し、巣鴨プリズンに

 

抑留されるが1946年に釈放されます。

 

1946年帰国しマハーバマー党を結成するも

 

国民の支持を集めることはできず引退します。

 

以上、靖國神社遊就館へ行ったことについて書いて

 

みました。

 

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今回も、特別受益について書いてみます。

 

特別受益とは、相続人が被相続人から遺贈や贈与で得た財産

 

でした。

 

相続発生時、特別受益財産と今現在残っている財産を

 

足したものが相続財産となりました。

 

なので特別受益があってもそれは基本トクになることはない

 

ということはお話ししていたかと思います。

 

ただここで注意すべき点があります。

 

それは被相続人が特別受益を相続財産に持ち戻して計算する

 

ことを拒否している場合です。

 

この持ち戻しを拒否する考え方を持ち戻し免除の意思表示と

 

呼びます。この場合はその意思表示に従うことになります。

 

この意思表示は遺言で行うことが多いのですが、そうでなく

 

ても可能です。

 

ただ2018年には相続法の改正があり特別受益に関する

 

改正が行われました。結婚している期間が20年以上の

 

夫婦の場合、居住用の土地、建物の贈与や遺贈が行われた

 

時、その土地建物は特別受益ですが基本その価格を相続の

 

財産に持ち戻さないこととすることができるように

 

なりました。(持ち戻し免除の意思表示の推定)

 

持ち戻し免除の意思表示をしていなくても推定で持ち戻し

 

免除の意思表示をしているとみなされる場合もでてきた

 

のです。

 

以上、特別受益ついて書いてみました。

 

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皆様、お盆休みはどのように過ごされたでしょうか?

 

私は仕事をしていたのですが、普段と比較すると

 

すいていたので仕事はやりやすかったです。

 

こんにちは!

 

靖國神社遊就館へ行ったつづきで、今回はラウレルについて

 

書いてみます。

 

ラウレルは、1891年フィリピンのバタンガス州タナワン

 

の政治家の家に生まれます。1915年にフィリピン大学を

 

卒業した後は、イェール大学の留学生になり、

 

1920年学位を取得します。

 

1925年には、フィリピン議会の上院議員に選出されて

 

内務長官になります。太平洋戦争下でフィリピン行政委員会

 

の司法委員、内務委員を務めあげ、1943年10月からは

 

日本軍によって樹立されたフィリピン共和国の大統領に

 

なります。

 

1944年9月21日、22日にアメリカ軍によりマニラ

 

市内が空爆されると翌23日にラウレル大統領は米国、

 

英国に対して宣戦布告します。

 

当時の日本からは旭日桐花大綬章が贈られるなど親密な

 

関係を築きますが、日本の敗色が徐々に濃厚になってくると

 

フィリピンを脱出します。まず台湾に向かい、その後

 

日本の奈良ホテルで生活を送ります。

 

日本の敗戦後の8月17日に共和国消滅を決め、

 

8月23日に発表します。

 

連合国軍は戦犯指定を行ったのはご存じだと思いますが、

 

ラウレルも指定されます。

 

これにより横浜刑務所や巣鴨刑務所に収監されます。

 

しかし特赦で日本に対する協力の罪は免除。

 

1949年には国民党候補として大統領選に出馬しますが

 

自由党のE.キリノに敗れます。

 

その後1951年に上院議員にトップ当選。

 

1959年11月6日に亡くなります。

 

68歳でした。

 

以上、靖國神社遊就館へ行ったことについて書いて

 

みました。

 

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靖國神社遊就館へ行ったつづきで、今回はベニグノ・

 

ラモスについて書いてみます。

 

ベニグノ・ラモスは、1893年生まれ。

 

教師になるのですが、その後、元老院職員になります。

 

米国からの独立を標榜するナショナリスタ党に入党し

 

同党内のマニュエル・ケソンと親しくなるも

 

1930年の山猫ストでは両者は意見が衝突し

 

結局ラモスは党を離れます。

 

党を離れた後は、サクダルと呼ばれるタガログ語新聞の

 

発行を行います。同新聞は米軍基地撤去を主張するように

 

なり、これを支持するサクダリスタ運動と連携します。

 

1935年5月反乱を起こしますが、鎮圧され、

 

ラモスは日本へ亡命。米団体大東亜協会の保護を

 

受けます。帰国後、ガナップ党を結成。

 

ラモスが親日的だったこともあり、日本軍とラモスは

 

協力関係となります。

 

ただ日本はフィリピンに対して、フィリピンは資源が乏し

 

かったため政治体制の刷新など大きなことを主張しません

 

でした。

 

戦争末期にラモスは義勇隊マカピリを編成して戦闘を行い

 

玉砕。

 

玉砕とは書きましたが、マカピリの最期ははっきりとは

 

わかっていません。

 

以上、靖國神社遊就館へ行ったことについて書いて

 

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靖國神社遊就館へ行ったつづきで、今回はエミリオ・

 

アギナルドについて書いてみます。

 

エミリオ・アギナルドは、1869年3月22日に

 

現在のフィリピンカヴィテ州で生まれます。

 

小学校を卒業してマニラにある高校に進学したが

 

そのころコレラが流行し高校が閉鎖されます。

 

それを機に高校の教育が嫌になったのかわかりませんが、

 

学校には戻りませんでした。

 

フィリピンは16世紀よりスペインの植民地となっていて

 

住民は重労働や重税により大変な苦労をしていました。

 

1892年アンドレス・ボニファシオが中心となって

 

結成したカティプナンという秘密結社がありました。

 

その秘密結社にアギナルドは参加します。

 

米西戦争ではアメリカ軍に協力するが、植民地化に抵抗し

 

独立を宣言し捉えられます。

 

第二次世界大戦ではフィリピン・コモンウェルスに

 

日本軍が進軍してくるとアギナルドは日本軍に協力します。

 

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今回も、特別受益について書いてみます。

 

特別受益とは、相続人が被相続人から遺贈や贈与で得た財産

 

でした。この特別受益が多くなってくれば、それ以外の

 

残った財産を相続において分けなければならなくなるので

 

特別受益を受けていない相続人は被相続人が亡くなった時に

 

分けられる財産は少なくなるはずです。

 

民法はこの不公平感を解消するために特別受益を考慮する

 

仕組みを採用しています。

 

要するに、各々の相続分を計算する際、最初にやること

 

として相続財産に特別受益にあたる価格を戻して(持ち戻し)

 

、それから持ち戻された財産(みなし相続財産)から

 

相続分を導きます。なので遺贈や贈与を受けていたとしても

 

前渡しの意味しか持たず相続人の平等が図られています。

 

では贈与や遺贈が相続分を超えていたらどうなるでしょう

 

か?

 

この場合は、遺産分割時に取り分がゼロになり、贈与や

 

遺贈で受けた財産を他の相続人に渡す必要はありません。

 

贈与や遺贈が多額になれば被相続人の考えが尊重され

 

贈与や遺贈を受けた人が有利になります。

 

以上、特別受益ついて書いてみました。

 

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靖國神社遊就館へ行ったつづきで、今回はアルテミオ・

 

リカルテについて書いてみます。

 

アルテミオ・リカルテは、1866年10月20日に

 

フィリピンにて生まれます。金銭的には恵まれた家庭だった

 

ようでリカルテは十分な初等教育を受けます。

 

そのかいあってか、サント・トーマス大学に入学しますが、

 

この大学は神父のみが教壇に立ち、ここでの教育は

 

スペイン人による植民地経営をする上で有利な人物を

 

作りだすことを目的としていると悟ります。

 

そこで師範学校に転校し教員免許を取得します。

 

マニラ南部カビテにあるサンフランシスコ・デ・マラボンの

 

町で小学校の校長先生になります。

 

この時にアンドレス・ボニファシオ(武力革命を起こそうと

 

地下活動を行っていた人)がリカルテに目をつけ

 

武力革命を目指す組織カティプナンのメンバーに

 

1896年なります。

 

フィリピン革命、米比戦争ではフィリピン陸軍で活躍。

 

米比戦争ではアメリカ軍にとらえられアメリカへの忠誠を

 

拒否したためグアムに2年の間追放されます。

 

リカルテ本人の言葉によると「私は米比戦争で降伏

 

しなかったただ一人の将軍です。自分は祖国にとどまり

 

最後まで米国と戦う覚悟があります。」と言ったとされて

 

います。

 

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靖國神社遊就館へ行ったつづきで、今回はスカルノについて

 

書いてみます。

 

スカルノは、1901年6月6日にオランダ領東インド

 

スラバヤで生まれます。

 

父親は小学校の先生、母親は貴族出身です。

 

1921年、現在のバンドン工科大学入学。

 

1926年卒業。

 

インドネシアは長らくオランダの植民地でしたが、

 

太平洋戦争がはじまると日本軍がインドネシアから

 

オランダ軍を追い出しました。

 

第16軍司令官である今村均はオランダ軍に拘束されていた

 

スカルノやハッタを解放し日本軍がインドネシアを占領

 

することに協力することを求め、スカルノ、ハッタも

 

日本軍に協力してアメリカをはじめとする連合国軍と

 

対決し独立を勝ち取る道を選びました。

 

しかし日本軍は次第に連合国軍に対して劣勢になって

 

敗戦を迎えたため1945年8月17日、スカルノ、ハッタ

 

両名の下、インドネシアの独立を内外に示します。

 

これを快く思わないのはオランダです。

 

オランダは、英国やオーストラリアの援助を受けて

 

インドネシア独立戦争がはじまります。

 

オランダはスカルノ、ハッタを逮捕しますが、

 

国際世論はオランダに不利に動きます。

 

そのためオランダはインドネシアをあきらめます。

 

こうしてインドネシアの独立は達成されたものの

 

オランダに対する債務は多額であったため先行きは不安定と

 

なります。

 

1965年9月30日、共産主義勢力によるクーデターが

 

起こるが鎮圧。

 

このクーデターにスカルノが関与していたのではとの

 

疑いが起こり大統領職をスハルトに譲り、自宅軟禁状態に

 

置かれます。

 

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今回は、特別受益について書いてみます。

 

特別受益とは、一部の相続人が被相続人から遺贈や贈与を

 

受けることによって生じた財産を指します。

 

遺贈とは、遺言によって相続が始まった時に財産が

 

他人に渡されることを指します。

 

また贈与とは、自分の財産を無償で他人にあげることを

 

指します。

 

遺贈は、目的に関係なくすべて特別受益にあたるのに対し、

 

贈与は、婚姻のための贈与、養子縁組のための贈与、生計の

 

資本を目的とする贈与の4つが特別受益に該当します。

 

この特別受益を受ける人は必ず相続人である必要が

 

あります。

 

このような特別受益を被相続人から一部の相続人に与えて

 

いると、残った財産を遺産分割の対象とすることになり

 

特別受益を受けてない相続人にとっては不利になります。

 

こういった不公平をなくすための仕組みとして特別受益が

 

あります。

 

以上、特別受益ついて書いてみました。

 

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靖國神社遊就館へ行ったつづきで、今回はモハマッド・

 

ハッタについて書いてみます。

 

モハマッド・ハッタはインドネシアの政治家です。

 

1902年8月12日、オランダ領東インド西スマトラ・

 

フォート・デ・コックで生まれます。

 

1921年オランダへ行きロッテルダム商科大学へ留学。

 

学生時代から独立運動を行う血気盛んな成年だったためか

 

1927年にはオランダ本国政府に逮捕されるが、

 

法廷闘争で無罪となっています。

 

1932年に卒業すると東インドに帰国し

 

インドネシア国民教育協会に参加します。

 

この頃、スカルノと出会い独立国家構想などで意見を

 

戦わせます。

 

こうした状況下、植民地政府はハッタを危険人物とみなした

 

ためか逮捕します。約8年ほど投獄生活、流刑地での

 

生活を送ります。

 

ですが1942年になると日本軍が太平洋戦争の一環として

 

オランダ領東インドに侵攻しオランダ軍を追い出したため

 

ハッタも解放されます。

 

現地の人々の支持を得るため日本軍はハッタを解放、

 

ハッタもこの立場を利用して民衆の民族意識を高めようと

 

してウイン、ウインの関係だったようです。

 

1945年の日本の敗戦によりスカルノと独立宣言を

 

作成し、スカルノ大統領、ハッタ副大統領とする

 

体制を築きます。

 

以上、靖國神社遊就館へ行ったことについて書いて

 

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