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ロシアと北朝鮮は条約を結びました。同盟に近い関係を

 

構築したようです。

 

今後、北朝鮮製の弾薬等がウクライナで使用されるので

 

しょう。

 

やはり人間は戦争が好きなのだと思います。

 

こんにちは!

 

今回も靖國神社遊就館へ行ったことについての続きを

 

書いてみます。

 

靖国神社遊就館に長篠の戦いについて展示してあったので

 

今回は長篠の戦いについて書こうと思います。

 

いつものようにイラストは無料のものを拝借しています。

 

戦国時代の当時、信長や家康などの戦国大名から

 

恐れられていたのが武田信玄です。

 

信玄は1572年西上作戦を開始し1573年には家康と

 

一戦を交えます。(三方ヶ原の戦い)

 

この戦いは信玄の勝利で終わり家康は命からがら浜松城へ

 

逃げ帰ります。

 

ただこのころ信玄の体の調子は思わしくなく、西上作戦の

 

途上で急死してしまいます。そのため武田軍は本国へ

 

撤退することを余儀なくされます。

 

この信玄の急死の情報は伏せられていたとされています。

 

それだけ信玄の指揮官としての能力が高かったことの証明

 

だと思います。

 

その後、信玄の跡を継いだ勝頼が再び兵を進め

 

織田徳川両軍と戦ったのが長篠の戦いです。

 

結果は武田軍が惨敗。

 

武田の騎馬隊対信長家康連合軍の鉄砲隊という図式で

 

戦ったのですが、今では鉄砲隊が勝つのが当たり前の

 

ように思います。しかし当時の火縄銃は一度弾を発射すると

 

次の弾を発射するまでに時間がかかりました。

 

なので最初の兵が発射するとその者は下がり弾の充填を

 

始め、後ろに控えていた兵が前面に出て弾を発射すると

 

いったことを組織的にやりました。

 

これは確かに勝敗を決した大きな理由だったのでしょうが、

 

やはりもっと大きかった理由は、信玄が亡くなったこと

 

でしょう。信玄の死を秘匿していたことからもわかるように

 

信玄のリーダーとしての資質が別格だったということに

 

尽きると思います。

 

以上、靖國神社遊就館へ行ったことについて書いて

 

みました。

 

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https://yokosuka-gyoseishoshi.com/