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こんにちは!

 

今回も靖國神社遊就館へ行ったことについての続きを

 

書いてみます。

 

 

遊就館に大石良雄についての記載がありましたので

 

今回は大石良雄について書いてみたいと思います。

 

例によって無料の大石良雄のイラストを拝借しています。

 

大石良雄は、1659年、播磨赤穂藩浅野家の筆頭家老を

 

任された家系に生まれます。一般的に大石内蔵助と呼ばれる

 

人であります。

 

大石良雄は、幼少の頃、漢学を伊藤仁斎に学び、軍学を

 

山鹿素行から学びます。

 

大石良雄は21歳の時、赤穂藩の筆頭家老となります。

 

出世してよかったのではと思えるのですが、実際のところは

 

昼間の明るい時に炎があっても、存在感は薄いと感じる

 

ように、大石はいたって普通の家老であったため「昼行灯」

 

と呼ばれていたようです。

 

1701年、江戸城では「勅答の儀」と呼ばれる儀式が

 

行われようとしていました。大石の主君、浅野長矩は

 

東山天皇の勅使の接待役を命じられ、接待指南役は

 

吉良義央でありました。勅答の儀の直前、廊下において

 

長矩は吉良義央に対して刃物を振り回します。

 

この事件を知った時の将軍、徳川綱吉は激怒して、

 

長矩は切腹、浅野家断絶となりますが、吉良義央には特に

 

お咎めなしといった処分を下します。当時、こういった時の

 

原則は喧嘩両成敗であったのですが、それに反した処分と

 

なりました。

 

浅野家の筆頭家老であった大石良雄は存在感が薄かったと

 

先ほど述べましたが、この事件を契機に急に存在感を

 

増していきます。

 

大石は浅野家再興を画策するも、これはかなわず。

 

そのため大石は吉良邸へ討ち入りを決行します。

 

討ち入りは成功し吉良義央の首を浅野長矩のあった墓

 

(泉岳寺)に手向けます。

 

しかし幕府より大石義雄は切腹を命じられ同じ泉岳寺に

 

葬られます。

 

以上、靖國神社遊就館へ行ったことについて書いて

 

みました。

 

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https://yokosuka-gyoseishoshi.com/