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こんにちは!

 

今回も国立公文書館へ行ったことについて書いてみます。

 

 

↑は、清浦圭吾です。

 

1850年、現在の熊本県出身で、明照寺住職 大久保了思

 

の五男です。

 

この方、住職にはなりませんでしたが、↑のような顔立ちで

 

お経をあげている姿は様になっているかと思います。

 

冗談はともかく、清浦は、最初から政治家になったわけでは

 

なく、官僚になっています。

 

1876年に推薦で司法省に所属します。

 

この間、今でいうと刑事訴訟法にあたる治罪法の制定に

 

関わり「治罪法講義随聴随筆」という本を書き、

 

多くの警察官の実務における指針になったとされています。

 

この治罪法制定に関わったことが大きいのでしょうか、

 

当時内務卿であった山縣有朋の目を引き全国の警察組織を

 

統括する内務省警保局長に任命されます。

 

こうして政界入りの芽がここで作られることになります。

 

1896年第2次松方内閣で清浦は司法大臣に任命された

 

ことを皮切りに、様々な大臣を歴任します。

 

1914年には、シーメンス事件で倒れた山本権兵衛内閣の

 

後を受けて元老から指名された徳川家達が総理大臣になる

 

ことを断り、次に名前の挙がった清浦はこの大命を

 

受け入れました。しかし大臣の人選、特に海軍大臣の人選に

 

難航し清浦内閣は実現しませんでした。

 

その後、1923年第2次山本内閣が虎ノ門事件で

 

総辞職すると再び清浦に組閣が要請されます。

 

今回は実現したものの、組閣基盤が貴族院内の研究会で

 

大臣の顔ぶれが貴族院メンバーに大きく偏っていました。

 

第2次山本内閣後は政友会出身の人が政権を取ると思われて

 

いたことや政党出身者の大臣がいないことなどを理由として

 

新聞各紙も巻き込み全国的に清浦内閣に対する倒閣運動が

 

展開されます。

 

1923年2月1日に政友会など護憲三派は内閣不信任案を

 

提出する意向を固め、それに鋭く気付いた清浦は

 

その前の1月29日に解散を行います。

 

ただその後の衆議院総選挙の結果は清浦に敗北となり

 

議会運営が不可能となったため清浦内閣は総辞職します。

 

5カ月の短命内閣でした。

 

以上、国立国会書館に行ったことについて書いて

 

みました。

 

私のホームページアドレスです。よろしくお願いいたします。

https://yokosuka-gyoseishoshi.com/