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こんにちは!
今回も国立公文書館へ行ったことについて書いてみます。
↑は、ワシントン会議に参列の帝国全権委員へご案内状
御下の件と呼ばれる文書でこれにより加藤友三郎、
幣原喜重郎、徳川家達にワシントン会議の全権委員として
全権を委任することを決定しました。
ということで、今回は徳川家達について書いてみます。
徳川家達は、1865年江戸城において田安家第5代当主
徳川慶頼の三男として出生します。14代将軍家茂が跡継ぎ
なく死亡したのですが、家茂の遺言は徳川宗家に血の
つながりの近い家達の相続を希望していました。
しかし当時家達は4歳という若さであったことと
雄藩大名らが反対したこともあり、15代将軍は一橋家の
慶喜となります。
基本的に徳川家達の人生は滑った転んだがほとんどないので
ブログに書くには少々物足りないと思いますが、
そこは私の腕の見せ所と考えて書いていきます。
徳川家達の最大の功績はと聞かれれば、1933年から
30年間貴族院議長を務めたことと言えます。
しかし、家達について「何の政団にも当たり障りない」
「無色透明」と言っている評論家もいます。
確かに議場においては議長として公平であり理想的と
評価できたのでしょうが、物足りなかったと感じる人が
多かったのも事実かと思います。もともと徳川幕府の
人間が新たな明治政府の中で生きていくためには
無色透明もやむを得なかったと言えるのかもしれません。
なので少しでも面白そうなところということで
1921年のワシントン会議について書きます。
このワシントン会議に全権として加藤友三郎、幣原喜重郎、
徳川家達が選ばれます。
外交官でも軍人でもない家達が選ばれた理由は、
家達が日英同盟廃止論者でアメリカとの四か国条約にする
ため加えられたと考える人や、原内閣の貴族院対策なのでは
と言われています。
ただ無色が身上だった家達にとってこの会議への参加は
原内閣の方針に従うことになり完全な無色透明とは
ならなくなってきます。
この会議の重要な議題は、日本海軍の主力艦を対米7割に
するかそれとも6割にするかでした。もちろん日本側は
7割主張、アメリカは6割主張だったのですが、
交渉は困難を極めます。そのためか家達は途中から必ずしも
7割主張ではないような発言もして日本国内から批判の
対象になります。そのため日本国内の貴族院での混乱を
収めることや、家達の名望を落とすことを阻止する目的で
側近の提案により途中帰国することになります。
以上、国立国会書館に行ったことについて書いて
みました。
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