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8月も終わりになってきたためそろそろ暑さも収まり秋の気配を

 

期待したいところですが、現実はエアコンをフル稼働させている

 

人が多いのではないでしょうか。

 

ワクチン接種に関して、私は1回目の接種をモデルナで

 

終えることができました。しかし安心していたのも束の間、

 

モデルナワクチンに異物が混入しているというニュースが

 

飛び込んできました。幸いにもニュースで流れていたロット番号

 

とは違いましたのでとりあえずは大丈夫だと思いますが、

 

体の中に入れるものですので細心の注意を払ってほしいもの

 

です。

 

こんにちは!

 

JR四ツ谷駅からしばらく歩くと葵の紋所をつけた西念寺という

 

お寺が現れます。↓

 

 

 

スマホに住所を入れてその案内に従って行ったので今となっては

 

どこをどう通ったのかとんと見当もつきませんが、狭い住宅街の

 

道を訳も分からず歩きました。

 

西念寺は1594年、服部半蔵正成が江戸麹町の清水谷に

 

安養院を建てたことが始まりです。その後1634年にこの地に

 

移りました。

 

このお寺に忍者として有名な2代目服部半蔵正成のお墓が

 

あります。↓

 

 

服部半蔵はたくさんいるのですが、みなさんの良く知る服部半蔵は

 

この2代目を指します。私は2代目服部半蔵正成を忍者と書いて

 

しまいましたが、実際は武士で忍者だったのは初代服部半蔵保長

 

だけでした。ただ徳川家康より伊賀衆、甲賀衆の指揮権を与えら

 

れていたので忍者と十分に関係はあります。

 

服部半蔵正成と徳川家康は切っても切れない関係だったの

 

ですが、この二人の関係を語るうえで外せないエピソードとして

 

伊賀越えがあります。1582年織田信長の招きにより徳川家康は

 

少数のお供のみを引き連れて上方の旅行をしていました。

 

当初は危険などないということで少数のお供のみだったのですが、

 

明智光秀が本能寺の変で謀反を起こし織田信長を自害させた

 

ことで状況は一変します。本能寺の変の報告を受けた家康は

 

自らの身も危ないことを察知し急遽、堺から三河へ戻ることに

 

しました。

 

その時の家康の伊賀越えに重要な役割を果たしたのが

 

少数のお供の中にいた服部半蔵正成です。

 

服部は伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉し、彼らに警護させること

 

で家康一行を安全に通行させ三河への帰還を無事に

 

果たしました。これによりその後も長く家康の信頼を勝ち取った

 

とされています。

 

以上、西念寺へ行ったことについて書いてみました。

 

私のホームページアドレスです。よろしくお願いいたします。

https://yokosuka-gyoseishoshi.com/