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こんにちは!

 

今回は、九七式中戦車についてです。

 

 

九七式中戦車は、昭和13年から昭和19年まで合計

 

2123台生産されたこの当時の日本軍の主力戦車です。

 

世界各国が開発していた戦車のほとんどがガソリンエンジン

 

だったのですが、日本はこの当時ディーゼルエンジンを

 

搭載していたところが世界各国のやり方と違っていました。

 

ディーゼルエンジンのいいところは火災になった際、

 

ガソリンエンジンよりは火の回り方が遅いところ、

 

それから軽油の代用燃料の使用が考えられていたため

 

ディーゼルエンジンの開発は当時の日本にとっては

 

理にかなった選択でした。

 

しかし欠点もあり、空冷ディーゼルエンジンで

 

ガソリンエンジンと同じような性能を引き出そうと

 

すると戦車自体が大型にならざるを得ず機関部の大きさが

 

大きくなるという欠点がありました。

 

またこの当時の世界の戦車と比較すると主砲の口径や

 

装甲厚は遜色ないが戦車対戦車の戦闘になると

 

不利になりました。

 

米国や英国と比較すると資源が少なく、技術力がなかった

 

当時の日本の自動車産業では後継車両の開発が遅れに遅れた

 

ため古くなった本車両をいつまでも使用しなければ

 

なりませんでした。

 

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今回は、回天についてです。

 

 

回天は太平洋戦争末期に日本海軍が使用した特攻兵器です。

 

1944年7月に試作機が二機完成し、同年11月20日の

 

ウルシー環礁奇襲で実戦に初めて使用されました。

 

回天は九三式三型魚雷を基に改造して、特攻兵器として

 

完成させたものです。

 

はっきり言って、こんなものに乗り込み人命を犠牲に

 

しなければ勝ち目がない状況に陥っていたのが当時の

 

大日本帝国でした。

 

最高速度は時速55キロ程度で、出撃すれば二度と生きて

 

帰れませんでした。

 

回天が実戦投入された当初は、港に停泊している艦船への

 

攻撃(泊地攻撃)が行われていました。最初の攻撃では

 

給油艦ミシシネワを撃沈し、当時アメリカ軍が十分な

 

警戒態勢をとっていなかったこともあって、ある程度の

 

戦果をあげることができました。

 

しかしアメリカ軍も学習して防潜網を展開するようになり、

 

泊地攻撃が困難になると、回天の攻撃目標は水上を航行する

 

船舶へと変更されました。ただし搭乗員は動いている標的に

 

狙いを定めなければならず、潜望鏡を覗いて測定・操縦を

 

行う必要がありました。

 

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今回は、戦艦大和についてです。

 

 

戦艦大和は、1937年起工、1941年12月16日就役

 

1945年4月7日沈没の当時、世界最大の46センチ砲を

 

備えた戦艦です。

 

大和は、46センチ砲以外でも、指揮系統の集中する

 

重要区画では対46センチ砲防御を施した、守りにも気を

 

配った戦艦でした。設計、ブロック工法の採用などなど

 

施工においても当時の大日本帝国の造船技術の最高のものを

 

使用して製造されました。

 

しかしこの当時、航空主兵論が議論になることも多かっ

 

ことから、山本五十六はこうした大型戦艦の建造について

 

批判していました。

 

ただ大型戦艦建造中止といった決断がされることはなく、

 

着々と計画は断行されます。

 

1942年2月12日大和は、連合艦隊艦船となります。

 

1942年5月29日大和は、ミッドウエー作戦で

 

山本五十六が連合艦隊司令長官として座乗したが

 

前線で活躍するのではなく後方で温存するような扱い

 

でした。

 

ですが次第に戦況は悪化の一途をたどり、

 

1945年4月7日、沖縄へ向かっている途中、

 

米国海軍の爆撃機による攻撃で沈没しました。

 

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今回は、零式艦上戦闘機五二型について書いてみます。

 

 

1930年代の日本海軍は、艦隊戦力ではどうしても米国に

 

追いつくことができなかったため、その劣勢を航空戦力に

 

よって補完しようとしました。そうした戦略の中で、

 

優れた性能を持つ戦闘機の開発は不可欠でした。

 

その目的で開発されたのが、皆様もよく知っている零式艦上

 

戦闘機、いわゆる「零戦」です。

 

太平洋戦争も初めの頃は優位に戦闘を進めていましたが、

 

中盤に差しかかると、アメリカ軍は高出力エンジンを搭載

 

し、重武装を施した新型機を次々と戦場に投入しました。

 

その結果、速度や火力の面で劣る零戦では、もはや対抗する

 

ことが困難となっていきました。

 

日本には、零戦の機体に搭載可能な小型で出力の高い

 

エンジンを開発する技術力がなく、やむなく細かな改良に

 

よって対応するしかありませんでした。

 

そんな中で出てきたのが、五二型です。

 

1943年から投入され防弾性能と速力を引き上げました。

 

結果、それまでの二二型と比較して最高速度が時速565㎞

 

(25㎞増加)となったのですが、水平面での旋回性能は

 

以前より悪くなりました。

 

三菱重工、中島飛行機の両方で生産されましたが、

 

レイテ沖海戦以降は特攻機として使用されることも

 

多くなったといいます。

 

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今回は、ホー・チ・ミンついて書いてみます。

 

ホー・チ・ミンは、ベトナムのゲアン省ナムダン県の

 

生まれでベトナム独立運動の指導者です。

 

小さい頃は父親の影響で論語の素読をしていたといいます。

 

フエに移り住んでからフランス語を身に着けるが、抗税運動

 

に加わったため宗主国のフランスにマークされ、

 

学んでいた学校を退学することになります。

 

1911年には船員としてヨーロッパへ渡り、1919年の

 

ヴェルサイユ講和会議では、ベトナムのフランスからの

 

独立を訴えます。その後、パリでマルクス主義グループに

 

加わり、「グエン・アイ・クォック」の名で1920年の

 

フランス共産党創立大会に参加します。さらに、コミンテル

 

ンの指示を受けてモスクワから広東に渡り、1925年には

 

広東でベトナム青年革命同志会を設立します。

 

1945年8月14日、ベトナムでは武装蜂起が起こり、

 

独立運動が本格化します。同年8月28日にはハノイに

 

臨時の革命政府が樹立され、ホー・チ・ミンが主席に就任。

 

これにより、阮朝最後の皇帝バオ・ダイが退位し、八月革命

 

は成功を収めます。

 

続いて、1945年9月2日にはホー・チ・ミンが

 

ベトナム民主共和国の独立を宣言し、大統領に就任。

 

社会主義を掲げる新政権が誕生します。

 

これに対し、旧宗主国のフランスは植民地支配の再開を

 

目指し、1946年にバオ・ダイを主席とする臨時政府

 

(ベトナム共和国)を設立。これを認めないベトナム民主共

 

和国との間で武力衝突が起こり、インドシナ戦争が勃発

 

します。戦争は長期化したが、1954年5月7日に

 

ディエンビエンフーの戦いでベトナム側がフランス軍を

 

破り、勝利を収めます。

 

このようにベトナム革命を指導した人物としてホー・チ・

 

ミンはベトナム人の心に刻まれています。

 

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今回は、ファン・ボイ・チャウついて書いてみます。

 

ファン・ボイ・チャウは、1867年12月26日、

 

ベトナム北部ゲアン省で生まれます。

 

この当時、ベトナムはフランスの植民地となっていました。

 

そのためファン・ボイ・チャウは若いころから反仏独立運動

 

に加わります。1904年維新会を結成し1905年に

 

来日します。来日中に犬養毅等と出会い、人材を育てること

 

の重要性の話を聞きベトナムの若者を日本に留学させる

 

東遊運動を興します。この状況を危惧したのはフランス。

 

フランスは日仏条約を持ち出し日本政府に働きかけ

 

ファン・ボイ・チャウを国外退去にさせます。

 

その後、中国に行き、ベトナム光復会結成するものの

 

ベトナム解放には特に効果は発揮できませんでした。

 

第一次世界大戦でフランスが戦勝国側になったため

 

フランスへの抵抗は行き詰まります。

 

1925年には中国上海でフランスの官憲により身柄を

 

拘束されベトナムフエで軟禁生活を送ります。

 

ここで完全に政治生命は絶たれ1940年72歳で

 

なくなります。

 

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暑さ寒さも彼岸までと言いますが、その言葉通り

 

暑さも多少和らいできたかと思います。

 

ところで、iPhone 17が9月19日に発売となりました。

 

そんなに興味はなかったのですが、最近の人たちは

 

iPhoneをよく持っているように思います。

 

私はアンドロイドの安いもので事足りているのですが、

 

iPhoneの購入でも検討してみようかと思っています。

 

こんにちは!

 

今回は、クオン・デついて書いてみます。

 

クオン・デは、1882年2月28日、ベトナム中部の都市

 

であるフエ市で生まれます。

 

クオン・デは、ベトナムの独立運動家で、ベトナム皇帝

 

ザーロン帝の末裔です。フランスによる支配下にあった

 

ベトナムの独立を目指し、越南維新会を設立しました。

 

1906年、密かに日本に渡り、その後、中国、ドイツ、

 

イギリスなどで活動を展開。1915年には再び日本を

 

訪れ、新宿の中村屋に滞在し、玄洋社などの支援を

 

受けながら日本軍の仏印進駐に協力しました。

 

戦後、フランスから入国を拒否され、帰国できずに

 

1951年、東京で亡くなりました。

 

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今回は、ウー・オッタマついて書いてみます。

 

ウー・オッタマは、ミャンマー西部のアラカン地方

 

シットゥエで生まれます。

 

16歳で僧侶になるための儀式、得度を行います。

 

インド、ヨーロッパ、日本などを訪れ1918年に帰国。

 

1910年に日本に訪れた際は、浄土宗本願寺を訪ね、

 

東京へ徒歩で戻っていた時、名古屋でかなり有名な松坂屋の

 

伊藤宅で葬儀をやっていて伊藤家に滞在することに

 

なります。当主の次郎左右衛門バックアップの下

 

日本に滞在すること3年間。東京大学で仏教哲学などを

 

教えながら、その間、中国の孫文とも出会い、

 

独立運動への刺激を受けます。

 

1918年帰国後は政治運動を支援したため、逮捕、投獄を

 

頻繁に繰り返します。

 

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今回は、寄与分について書いてみます。

 

被相続人の財産を大きく増やしたなど多大な貢献があった

 

者に対しては、寄与分というものを与えて他の相続人より

 

多くの財産を相続させることができる場合があります。

 

被相続人の財産の維持や増加に対して特別の寄与をした者が

 

ある場合、相続分とは別個に寄与した分を相続財産から

 

マイナスして寄与者に与えます。これが寄与分です。

 

寄与分が認められるのは相続人であること、特別の寄与で

 

あることが重要な点となります。例えば両親の扶養義務など

 

は一般的に期待される範囲内とみなされますので寄与分には

 

なりません。

 

また寄与の方法に関して3つのパターンが民法に示されて

 

います。

 

1.被相続人の事業に関する労務の提供又は財産の給付

 

2.被相続人の療養看護

 

3.その他の方法

 

寄与分は基本、相続人同士の話し合いで決定し、

 

決まらない場合は寄与者の請求で家庭裁判所に決めてもらう

 

ことになります。

 

以上、寄与分ついて書いてみました。

 

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9月になりました。少しは涼しくなってもよさそうですが

 

そうはならないのでしょう。

 

こんにちは!

 

今回は、アウンサンついて書いてみます。

 

アウンサンは、1915年生まれのイギリスの植民地で

 

あったビルマナッマウ出身です。

 

日本のテレビのニュースでもよく登場するアウンサン

 

スーチーはアウンサンの長女です。

 

スーチーは置いておいて、アウンサンは、1933年

 

ラングーン大学へ入学。1938年には全ビルマ学生連合と

 

ラングーン大学学生会の委員長に選出されます。

 

その後、タキン党書記長等に就任。反英独立闘争を

 

起こします。そのためかイギリス官憲から逮捕状が出たため

 

アモイへ亡命。一時は日本の箱根大涌谷に滞在したことも

 

あったそうです。太平洋戦争が始まった時は

 

ビルマ独立義勇軍を創設し日本軍とともに戦いビルマの

 

イギリス軍を追い払います。

 

しかしインパール作戦で日本軍が失敗すると

 

このまま日本軍と一緒に戦うことは不利になると考え

 

イギリス軍に寝返ります。日本軍と戦い勝利はしたものの

 

英国はビルマの独立を認めず約束を破ります。

 

そのため英国からの独立の準備を進めていた最中、

 

暗殺されます。

 

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