古径(ふるみち)(わが)(むね)のごと

月光(げつくわう)(もと)(てら)され

春の暮、山のあなたに

(かげ)くらく(なが)につづけり。

 

いつの日か深くも(みち)

()みて車過ぎけむ

二すぢに(きし)めるわだち―

(あと)のみぞ黒くのこれる。

 

追憶(おもひで)」のああいたましき

あとを見よ、日々に()えつつ

ほろびゆく「愛」の胸には

悲愁(かなしび)」の小草(おぐさ)ぞしげれ。

 

(つき)(あお)(ゆうべ)となれば

またおもふ、山のふるみち。

              『三木露風詩集』より

 

 

  詩の意味と考察

三木露風の代表的な象徴詩で、とても美しい詩です。 

象徴詩ですので、かなり想像力を働かせて頂かないとイメージできないと思います。

1連目

まずは最後の連から、美しい月の夕べになると故郷の山の古い道を思い出すのです。

最初の連に戻って、その古道は、わが胸のようだというのです。

春の宵、ぼんやりした月の光に照らされて、山の道が遠くまで続いています。

春の宵のなま暖かい空気も一緒に想像して下さるといいかなと思います。

ほの暗く見えるその道は、自分の胸の中にしまいこんだ昔歩いてきた道のようなのです。

 

「あなた」は、遠い彼方のこと

2連目

いつの日だったか…、荷車の車輪に石がはさまって(「石喰みて」)、きしみながら通り過ぎて行った車があったのです。

その荷車が通り過ぎた後には、二本のわだち、車輪の跡が黒く、くっきりとついていました。

「黒くのこれる」という言葉から、とても重い荷物を乗せてゆっくり引いていったから、わだちが深くついたことが分かります。 

その深いわだちに月の光が当たるのですが、深いので黒い影となって見えるのです。 

浅いわだちだと、上から月の光が当たると黒い影になることはありませんから、よほど深い溝ができているのです。 

そしてそのわだちは、ちょうど自分の胸の中に残る思い出の道のようだというのですが、自分の思い出の道にも黒い影があるのです。

 

3連目

その思い出の痛ましいあとを見なさい、日々に壊れて行った道を。

そこには悲しみの色に染まった小さい草草、小草が茂るのが似合いだ、「茂れ」、と痛ましい心の中が描かれています。

緑の葉を茂らせた樹もなく、色のついた花もなく、悲しみ色だけの小さい草が似合いだというのが、悲しいことですね。

思い出の道に花が一つも咲いていない、そんなに苦しい日々だったのでしょうか…

 

「追憶」は、ルビがなければ、おもいで、とは読めないですが、この漢字をあてはめることで、ただの思い出ではなく、遠く過ぎ去った日々へのなつかしさがにじみ出る気がします。

「壊えつつ」も、ルビがないと、くえつつ、とは読めません。

そもそもこの字を、くえ、くえる、と読むのかが不思議ですが、この漢字の通り、壊れていくことです。「くえつつ」という言葉は耳で聞くとわかりませんが、漢字を見ればわかりますね、壊れながらほろびていくのです。

「悲愁」もまた同じように、ルビがないと、かなしび、とは読めませんが、この漢字のイメージでより深い悲しみに沈む気持ちがイメージできると思います。 

みなさまの思い出の道にはどんな草が茂っていますか?  

きれいな花がいっぱい咲いていますでしょうか? 

思い出というものは、時が過ぎて行くと、どんな思い出もみんな、なつかしくて、やさしい思い出に変わるものですよね・・・。

どんなに苦しいことがあったとしても、その時代、そのことがあったから今の自分があるのですから。

私はこの詩を読んだ時、悲しみ色に染まった草よ茂れ、の個所に胸が痛みました。

露風の思い出の道は、どんどん崩れ壊れて行った道で、緑色の草たちではなく、もちろん花などはなく、悲しび色に染まった小さい草草が似合う、と歌うのです。

なんて痛ましいことかしらと胸が詰まりました。

露風の生い立ちや年譜を読みますと、さして折れて曲がって辛い人生だったとは思えないのですが、心の中は、人にはわからないものですから、辛い思いがたくさんあって、傷ついた心を抱えていたのですね。

この詩でまた露風が好きになったのでした。

露風独特の感傷的に書かれた象徴詩、抒情詩です。

 

4連目

そして最後に、青く光る月の宵には故郷の山の道をまた思い出すという、美しい象徴詩です。

 

 

  詩の誕生

この詩は、露風の第二詩集、『廃園』 という詩集に入れられている詩ですが、この詩集によって露風は第一流の詩人と認められました。   

 

 

  曲の誕生

大中恩の「五つの抒情歌」【その1】の中の最初の歌です。

 

Ⅰ ふるみち     (三木露風 詩)

Ⅱ 思ひ出の山    (浜野ふじ子 詩)

Ⅲ しぐれに寄する抒情(佐藤春夫 詩)

Ⅳ おもかげ     (光井正子 詩)

Ⅴ ふるさとの    (三木露風 詩)

 

 

  詩の言葉が違う

詩の言葉と、作曲された譜面の中の歌詞、言葉に違いがあります。  

私は詩が大切だといつも思っていますので、作曲者が音符の下に言葉を書いているのが本来の詩と違っていた場合、たいていの場合は、詩を重視して詩の方の言葉に変えて歌うのですが、この歌に関しては、少し違います。

違いは二つありますが、最初の相違点は、一連目の「月光」です。

詩では <げつかう> とルビが振られていますが、作曲された譜面には <つきかげ>となっています。

ここは、♪げっこうの…♪ と歌うより、♪つきかげの…♪ と歌うほうがきれいなので、譜面通りに歌います。

意味としては同じ、月の光のことですから。

 

そして二つ目は、3連目の「小草ぞしげれ」の <しげ> ですが、作曲された譜面の中の言葉は <しげ> となっていますし、その上ご丁寧にもその歌曲集に載せられている詩も <しげる> としてあるのです。

<しげる>、と<しげれ>、では大きく意味が違ってきます。 

思い出の道を見て、自分の過去の道には小さい草が茂るのが似合いだ、悲しび色に染まった草よ、<しげれ!>と命令するように歌うのと、<しげる> だと、あ、草が茂っている…と客観的に言っている感じで、なんの感動もありません。

ですから、ここは露風の詩の、痛ましい思いで <しげれ> と歌うのが当然かと思いますので、変えて歌っています。

 

 

やっぱり歌曲ってすてき!

の。