詩
月の円さよ
今宵の明さ
護謨の葉越しの
燈の青さ
島は宵月
宵からおじゃれ
かわい独木舟で
早よおじゃれ
今は宵月
夜ふけておじゃれ
浜はタマナの
花ざかり
忍び忍ばれ
夜ふけて来たが
今ぢゃ宵月 昼の虹
歌曲集『日本の笛』より
詩の意味と考察
1連
月のまろさ、漢字がありますから、分かると思いますが、まぁるくて明るいのです。ゴムの木の葉越しに灯りがチラチラと見える情景です。
「燈の青さ」ですが、この燈火の燈という字はともしびの灯りのことですから、「ゴムの葉越し」に見える明かりは何の「燈」なのかが問題ですが、私は最初、当時の小笠原には港というような立派なものはまだなかったと思いますので、船がつく所にかがり火か何かががたいてあるのかなと思ったのです。
でも、考えたら、そんな浜辺にはゴムの木は生えてないでしょうから、これはきっと島の中にいっぱい茂っているゴムの木のことだと思いました。
そうすれば、燈は家の明かりになりますね。
当然、当時は電気は来ていませんから、ランプの明かりです。
ゴムの葉越しに家々のランプの明かりが見えて、見上げると真ん丸なお月さま、ってイメージでしょうか。
そして次の「燈の青さ」の青ですけど、青は緑と解釈すれば、はっぱの色が透けて見えて青いと思えばいいのでしょうけれど、ちょっと色々調べていましたら、白秋が小笠原のことを書いたものがあって、その中にこんな文章を見つけました。
ゴムの木に関してです。
「その厚い油ぎった葉は原色の青だ」
「ただでさえ光沢の強い色々の樹が、夏になっていよいよ油ぎってきた。ゴムやモモタマの豊麗で、分厚で、肉太な樹の葉の色の深さったらないのだ」
とありました。
要するに、肉付きが豊かで、厚みがあるゴムの葉は、とても濃くて、深くて、原色の青だ、ってことです。
その濃い青い葉にランプの明かりが透けて、「燈の青さ」、になるのでしょうか。
2連
島は今、宵の月。
宵、は日が沈んで間もないころのことですから、まだ明かりが残っています。
そんな頃、「宵からおじゃれ」、おいでませって言ってるのです。
宵になったら、かわいいカヌーに乗って早く会いに来て、早くいらっしゃい、と待っている情景です。
3連
次は夜更けてから「おじゃれ」です。
浜べにはタマナの花が満開、って言うのですが、このタマナ、キャベツじゃないんですよ、浜辺にキャベツは植えません。(^^;)
キャベツのことをタマナとも言いますけれど、この詩のタマナは、南国にしかない木で、テリハボクと呼ばれる木のことです。
照る葉っぱの木で、テリハボク。小笠原ではタマナと呼ぶそうです。
つるっと光った葉っぱの間に白い花を咲かせますが、潮に強い木らしく、防風林として海岸近くに生えていたり、木材はカヌーにしたりするそうです。
白秋が小笠原のことを書いた文章があるのですが、その中に
「7月になって、また島中のタマナの白い細花が咲き盛った。香水の原料になる花だと言うが、全くその花の満開する頃には島中が香水の島になってしまう。」
とありましたから、そんないい匂いの中で会いたいのでしょうね…。
ちなみに、夜の方が花の匂いは増します。
夜は空気が重くなりますから、匂いが空へ上がって行かないで、下の方に漂っているのです。だから、夜は花の匂いがぐんと濃くなるのです。
その匂いの中、「夜ふけておじゃれ」です。
4連
夜更け「忍び忍ばれ」と人目を避けて会っていた二人でしたが、気がつくと、あらぁ~もう昼。
会った時は宵の月だったのに、昼の虹になってしまってて…という色っぽい、可愛い歌です。
この詩少しずつ時間が動いているのがわかりますか。
1連は月が出た頃、
2連は宵の頃になりまだ明るさがあります。カヌーに乗ってきてというのですから。
3連で夜更けて、香水のような匂いがむんむんとする頃会いたいっていうのです。
そして最後、4連は夜ふけてから来たのにお昼になっちゃった、という詩ですが、これはさすがに南国の歌です。
大らかな色っぽさが感じられて私は好きな歌です。
詩の誕生
北原白秋が小笠原の父島に渡った時に生まれた詩です。
当時の白秋の妻、俊子が結核だったため、病気療養に島に渡ったのでした。
妻の方は嫌気がさしてさっさと帰ってしまったのに反して、白秋は小笠原がとても気に入って一人残ってしばらく島で生活して、詩や随筆をたくさん書きました。
やっぱり歌曲ってすてき
の。