夏がくれば 思い出す はるかな尾瀬 遠い空

霧の中に うかびくる やさしい影 野の小径

水芭蕉の花が 咲いている 石楠花色に たそがれる

はるかな尾瀬 遠い空

          

夏がくれば 思い出す はるかな尾瀬 野の旅よ

花の中に そよそよと ゆれゆれる 浮き島よ

水芭蕉の花が 匂っている 夢みて匂っている 水のほとり

まなこつぶれば なつかしい

はるかな尾瀬 遠い空

 

 

 

  詩の意味と考察

水芭蕉の花は匂いませんし、夢みるように揺れる花でもありませんけれど、詩人江間章子の頭の中ではやさしく揺れているのです。 

想像の世界のたまものです。

 

「その情景から漂うものを、匂う、と表現していいのが詩の自由です」と、本人の江間章子も書いていましたけれど、詩とは写真のように、見えているものをそのまま表現することではないのです。

詩人の感性を通して、自然を見て、想像して、書いたものです。

そこが詩の素晴らしいところです。 

ですから、私たちも私たちなりに想像して、その詩をイメージしていきましょう。

 

昔訪れた尾瀬沼を思い出したのです。

霧でぼやけて見えます。 

少しずつ霧が薄れてきて、影が浮かんでくると、それは沼に通された木でできた一本の道…「野の小道」です。

そして、もっと霧が晴れて思い出がはっきりしてくると、水芭蕉の花が見わたす限りに咲いている沼です。

その花は夢みて咲いているように揺れているのです。

湿地帯は下が水です。

花は土からまっすぐ直立している花ですから揺れませんけれど、下の水に映った花がゆらゆらと揺れて見えるのです。

その木の道に立っていると、360度 見わたす限り 水芭蕉の花です。

その花たちが、地上の花は淡い色、乳白色で、水に映った花は地上の花の色よりもっと優しいほんのりした色合いでゆらゆらと揺れているのです。

 

そして、夕方、石楠花(しゃくなげ)の花の色のように、きれいに赤い色にあたり一面が染まっていく・・・、という風景です。

 

そして2番は、花の中にそよそよと揺れているのはちいさな島です。

「浮島」とありますが、湿地帯の中に草が生い茂って固まっている所、それが島のように見えるのです。

その柔らかい草草が揺れています。

目を閉じたら、懐かしい尾瀬の思い出です。

 

 

  詩と曲の誕生

NHKラジオ歌謡の担当者が、戦後のすっかり荒れた日本に、夢と希望を与える詩を書いて欲しいと江間章子に頼み、その詩を見て、NHKのディレクターが中田喜直に作曲を頼んだそうです。

昭和24年6月13日から1週間、「NHKラジオ歌謡」として石井好子によって歌われ、大ヒットしたものです。

戦後を代表する抒情歌となりました。

 

 

  二人とも尾瀬を知らなかった ?!

尾瀬とは、福島県、群馬県、新潟県にまたがる日光国立公園の中、日本最大の高原湿地 尾瀬ケ原の中にある沼、尾瀬沼のことです。

 

詩を書いた江間章子は、岩手県の花輪街道沿いの小さな村で育ち、そこには木々の間に水芭蕉が咲いていたと言うのですが、尾瀬のことは当時知らずに書いたようです。

後に尾瀬に行き、一面の水芭蕉を見て驚いたという話が残されています。

 

曲を書いた中田喜直もまた当時は尾瀬を知らず、イメージをふくらませて書いたようです。

詩を読んで「何と無くスーッと曲が出来た」そうですが、その曲を聞いた母上が、「ちょっとおそまつじゃないの?」と言ったので、書き直したとか。

ちなみに、母上とは「早春賦」の歌を作曲した中田章の奥さん。

親子で有名な作曲家なのです。

ボツになった最初のその譜面は残っていないそうですけど、スーッと書いた曲ってどんなだったんでしょうね、見たかったですね・・・。

 

そして、尾瀬もまたこの歌のおかげで、それまでは知る人も少なかった尾瀬が一躍有名になったといいます。

 

 

 

  蛇足

この歌は、大ヒットしたので、中田はいろんな所からよく取材を受けました。

最初の内は本人も嬉々として喋っていても、何度も何度もおんなじことばかり喋らされていると辟易(へきえき)してくるわけです。   

皆さまの中にもラジオとかテレビで、同じ話を何回か聞かれたことがあるかもしれません・・・

たとえば、

〇昭和24年に、NHKが、戦後荒廃している日本の人たちに「夢と希望を与える

 歌」を作りたくて、詩人の江間章子に詩を頼み、その詩を中田に持っていって作曲

 を頼んだとか。

〇中田は、その詩を読んですぐにパーァッと作ってみたら、横にいたお母さんが、

 「それちょっとおそまつじゃないの」と言ったので丁寧に作り直したって話とか。

〇学生時代から一年先輩の、シャンソンを歌う石井好子さんに憧れていたので、石井

 さんに頼んで歌ってもらったとか。

〇作曲する時は、尾瀬ってどこにあるかも知らなかったとか。

等々…。

 

ある時、江間章子を招いての中田喜直特集の番組が、ラジオであったのです。

その中で、「夏の思い出」の話題になって、またしても同じ話になっていきました。

なんだか中田さん機嫌よくない感じだなぁ・・・と思いながら私は聞いていたのですけど、アナウンサーが、「夏の思い出の歌を歌われますか?」と質問したのです。

江間さんは「歌いません」とおっしゃって、中田さんも即座に「僕も歌わない」と、とっても素っ気なく答えられました。

そしてその後、「聞く人は初めてかもしれないけどね、僕たち喋る方は、もう何度も何度も同じことを言うのだから、嫌になるね・・・」とおっしゃったのです。

たぶん、あの言葉はNHKとの打ち合わせにはなかった台詞だと思うのです。

だって、あわてて、アナウンサーが「あ、私もそうでしょうか・・・」とおずおずと聞いていましたから。

中田さんは返事もなさらず、最後までわりかしと不機嫌風でぶっきらぼうな喋り方でした。

中田さんはとても子供っぽいところのある方で、素直に感情が出る人なのです。

だから、機嫌がいいとか悪いとか、だいたい声でわかるのです。

というのは、昔、私が日本の歌曲を専門に歌っていこうと決めたとき、中田喜直と平井康三郎の門を叩いたので、お二人の先生のことは少ーしだけはわかるのです。

 

ここからは、全くの余談!

こんなことをすっぱ抜いていいのかなとも思いますけど・・・(^^;)

 

中田先生はほんとに子供のようにマイペースというか、奔放な方だった気がします。

私はレッスンとか待ち合わせとかで何回かすっぽかさせて・・・。

先生はほんとに申し訳なさそうに「次回必ず埋め合わせするからね」なーんて言って埋め合わせしてもらったことがない!

とプンプンして三宅先生に話したら(三宅春恵、大年のソプラノ歌手で、東京二期会を作った大御所。中田さんは三宅先生に声楽を習い、結婚式に仲人までしてもらい、中田の作品の初演を数多くしてもらっていて、中田にとっては大恩人と言える人。私は長年三宅先生門下にいた。)「のり子さんダメダメ、私でさえすっぽかすのよ」、と話してくださいました。

      (二人ともに私の先生で、ややこしいのでここからは敬称なしで書きます)

 

それは、中田の記念コンサートが企画されたとき、「そんな大事なコンサートだったら、私歌うわ」と三宅。「あ、先生が歌ってくれるなら僕がピアノ弾くよ」と中田。で、いつ合わせようかとなり、日にちと時間を決めたそうです。

約束した音合わせの日、三宅が六本木の中田のマンションの前まで来ると中田がマンションの玄関にしゃがみこんで靴の紐を結んでいたとか。

「何してるの?」と三宅が言うと、「ボク今からマラソンに行くとこ」「何言ってるのよ、今から合わせでしょ」と三宅が言ったのに悪びれることもなく、でもボク行かなきゃならないから…じゃ、と走って行っちゃったそうです。

三宅は、全く失礼しちゃうわ!と怒って横浜の自宅まで戻ったら、夜電話がかかってきて、ほんとにごめんなさいと誤ったとか。

それも「おかあちゃん(こうおっしゃったと思う…)に怒られた」からとかで、「全く、怒られなきゃ謝ってこないのよ」と三宅もプンプン。

ほんとにわがままな子供のようです。

恩師の三宅に対してもこれだから、私などは仕方ない、訳です。(^^;)

でも、なぜか憎めない性格の中田なのです。

有名な先生だから許せるのではなく、人間的に子供のような素直さが魅力なのかもしれません。

そういえば、石川啄木もあちこちに借金しまくったり、いろいろ問題ありの性格なのに多くの人から愛されていました。

彼もまたどこか人間臭い魅力があったのでしょうね・・・。

 

ちなみに中田喜直は、2000年(平成12)の5月3日に亡くなられました。

 

 

 

歌曲ってすてき!

の。