今宵出船か お名残り惜しや

暗い波間に 雪が散る

船は見えねど 別れの小唄に

沖ぢや千鳥も 泣くぞいな

 

今鳴る汽笛は 出船の合図

無事で着いたら 便りをくりやれ

暗いさみしい 灯影のもとで

(なが)らに ()もうもの

 

 

 

  詩の意味と考察

今宵は旅立ち、本当に名残惜しいことだわ・・

暗い波間には雪が散っている・・

船は見えないけど、お別れに歌う小唄の調べに

沖では千鳥も泣くわ

 

今鳴る汽笛は船の出る合図

無事で着いたら便りを下さいね

暗いさみしい火影の下で

一人涙にくれて読みますもの

 

 

お名残惜しや:本当に名残惜しいなぁ(や、は言い切った後に添えるもの)

ぞいな:<ぞ>も<い>も終助詞で、<ぞ>で終わるより<ぞい>の方が柔らかい。

くりゃれ:くれるの命令形。(おくれ)

雪の舞いちる暗い海、木の電柱に裸電球がついているような港、その電球の灯りの下でただ向き合っているだけの男女二人。

着いたらお手紙下さいね・・って言うだけがやっとの女心、せつない感傷的な船の別れです。

詩と相まって日本女性の奥ゆかしさが感じられてとても素敵な歌だと思います。

 

奥ゆかしいと言えば、だいたい日本の女性は奥ゆかしくこまやかな心を持っていたはずなのに、最近の若い人は <奥ゆかしい> のかけらも見えません。

電車の中は化粧室。(いつの頃からか、おばさんまでお化粧したりして・・・)

堂々と袋を開けてパンやらお菓子やらほおばりながらスマホ。

人がいようと関係なしに大声で話して笑って、それもほとんど男の人のような言葉で可愛くない。(^^;)

そんな人たちを見て あー嫌だプンプン と感じる私は古い人間なのかなぁ、なんて思ってしまいます。

女性はどこか <可愛げ> がなくちゃって思うのですが・・・。

なんて、話が脱線。(^^;) 話を戻して、

 

うつむき加減の彼女に男の方はどんな言葉を言って出かけたのでしょうね・・・。

 

 

  詩の誕生

勝田が18歳の頃、石川啄木を慕って東北・北海道を旅した時に書かれたもの。

抒情小曲集『心のほころび』(1922年3月 国民書院出版)に所収。

 

『杉山長谷夫抒情曲集』の後記に書かれているものを抜粋すると、

 

「北の国々の旅に憧れて東京を発ったのは私が十九の頃だった。北上川畔の啄木の歌碑を訪ね、青森から北海道へ、更に帰途秋田へ廻って大館から十和田湖へ行く途中の「大滝温泉」の名もない宿で、私はこの『出船』を作った。吹雪の港の貧しい宿に、別れゆく人の面影を偲びつつ聴くドラの音とあの汽笛の切なさよ・・・勝田香月」

 

「出船の想い出から」という勝田自身の随筆からの抜粋、

 

「小樽と能代でヒントを得、「大滝温泉」でまとめた。「大滝温泉」には四日ほど滞在した。着いた日に旅費が心細くなって東京へ電報を打って送金してもらったが、その電報を打ったり金を受け取るため多分一つ先の駅の「十二所の郵便局」まで歩いて行ったことをおぼえている。

能代の港では一日歩き廻って構想を練った。日本海の暗い波間に粉雪のちらつく日だった。」

 

とあるように、粉雪のちらつく能代の港を一日歩き回って詩の構想を練り、大滝温泉で書いた、ということがわかります。

 

 

  能代港

東北の日本海側、秋田県に<なまはげ>で有名な男鹿(おが)半島がありますが、地図ではその少し上、北に能代があります。

能代港は、秋田県北部の米代川河口に位置し、古くから県北地域で産出する鉱物、米、秋田杉等の集積地として栄えた港、だそうです。

              (国土交通省 東北地方整備局 秋田港湾事務所の案内より)

 

  曲の誕生

作曲した杉山長谷夫はバイオリニスト。

この歌は、<流行り歌>としてヒットする事を意図して作られたようですが、格調高く、美しいメロディーです。

かつて、日本の大テナーで<だんな>と呼ばれていた藤原義江のおはこだった歌で、藤原義江の重要なレパートリーでした。

藤原義江がニューヨークでビクターレコードへ吹き込んだり、アメリカのNBCから放送したり、で一躍 <世界的名曲>となりました。

杉山はバイオリニストでしたから、前奏などは弦がむせぶようにイメージしたのでしょうか。

こういうせつなくも哀しい美しさを今の若い人達にもわかって頂きたいものです。

<悲しいけど美しい>というのは日本人好みのものですし、私も大好きな歌です。

 

 

  勝田香月

香月は明治32年(1899)3月3日、駿東郡沼津町本町に生まれました。

大正11年(1922)23歳の時「出船」を載せた詩集『心のほころび』を出版。

昭和4年(1929)29歳で東京市中野町会議員に当選、昭和22年まで区議会議員、副議長、議長を歴任。政治家として社会民主運動に貢献しました。

通信講座の草分けでもあるそうです。

昭和41年(1966)11月5日、67歳で死去。

 

   

「藤原のり子の日本歌曲の会」が発行している<ゆめの絵楽譜>(ピース:一曲ずつの楽譜)の表紙絵です。

日本画家の畠中光享画伯に描いてもらったものです。

情念のような赤がとても美しい!

   

この楽譜は特別バージョンで、裏面にまで画が続いています。

見開きで一枚の画です。

画像を回転することができません…アセアセ泣

見にくくてすみません ぐすん

顔を傾けてみてくださいね ニコニコ

 

 

やっぱり歌曲ってすてき!

の。