詩
夏も近づく八十八夜、
野にも山にも若葉が茂る。
「あれに見えるは茶摘じゃないか。
あかねだすきに菅の笠。」
日和つづきの今日此頃を、
心のどかに摘みつつ歌う。
「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ。
摘まにゃ日本の茶にならぬ。」
詩の意味と考察
詩の意味は書かなくても、と思いますので、少しご説明を。
八十八夜とは、立春から数えて八十八日目の事で、この頃から霜がおりなくなるので、稲の種まきや茶摘みの目安とされてきました。
太陽暦では、5月1日か2日に当たります。
今年、2024年の八十八夜は5月1日(土)でした。
歌は、京都府綴喜郡宇治田原村の茶摘み唄(茶音頭)を元に作られたようで、茶摘み唄には、「向こうに見えるは茶摘みじゃないか。あかねだすきに菅の笠」「お茶を摘め摘め摘まねばならぬ。摘まにゃ田原の茶にならぬ」という歌詞があり、この歌詞の「向こう」を「あれ」に、「田原」を「日本」に、替えて作ったのではと言われています。
京都は、日本でも最高の茶の産地で、加工技術でも優れた地なので、その地に伝わる茶摘み歌が文部省唱歌に使われても不思議はなく「茶摘」の詩は宇治田原町の茶摘み歌を<本歌取り>したと思われます。
歌の誕生
明治45年3月の「尋常小学唱歌(三)」に入れられたもの。
当時、文部省は作詞者も作曲者も公表していないので、今なお誰が作ったかはわかりません。
朝日新聞より
「茶摘み歌が消えたのは大正に入って<茶鋏 (ちゃばさみ) >が導入されてから。第一次大戦で工場の女性労働力の需要が急増し、女性の日当が高くなったことが背景にある。たすき掛けの女性に代って、男がはさみで刈るようになった。
以後、歌われたのが「茶切り節」。♪「歌はちゃっきり節~ 男は次郎長」で始まり、30番まである。昭和2年、1927年にできた。
作詞の北原白秋は、茶鋏で刈る音を、ちゃっきり、と表現した。
次郎長の清水港は茶の積み出し港として栄えた。」
とありました。なかなか面白いお話しでしたので引用させていただきました。
お茶の雑学 1
同じ茶葉が、製法で緑茶にも紅茶にもなるのだそうです。
葉を発酵(酸化)させれば紅茶に。
させなければ緑茶に。
ウーロン茶はその中間の半発酵。
茶葉を湯に浸して飲む煎茶が一般に広がったのは江戸時代だそうです。
雑学 2
江戸時代、<御茶壺道中>という、幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて江戸まで運ぶ行事がありました。御茶壺道中は、将軍通行に匹敵するほど格式のあるもので、茶壺を持った使者が仰々しい行列を伴って通るときには、諸国の大名行列さえも道をあけ、庶民は顔を上げられなかったといいます。なので、御茶壺道中がくると、庶民は戸をぴしゃりと閉じたといいます。
童謡「ずいずいずっころばし」に歌われている 「茶壺におわれてトッピンシャン」 はこのことに由来しているのだそうで、ちょっと笑えます。
やっぱり歌曲ってすてき
の。