詩(歌)
白鳥はかなしからずや空の靑海のあをにも染まずただよふ
幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ國ぞ今日も旅ゆく
いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや
1番の意味と考察
空の青にも海の青い色にも染まることなく 真っ白のままただよっている白い鳥のように、自分もまた この世の中で何物にも染まることなく 自分の考えで凛と生きていこうと思う牧水です。
白鳥に向かって「悲しからずや」、おまえは一人ぽっちでも悲しくはないのか、と問いかけていることで、牧水自身の心のさびさしが伺えます。
明治41年の新春、20代の若い牧水が恋人と一緒に、房総半島の最南端、安房根本の海岸の宿で過ごしていた時に書かれたものです。
横に恋人がいてなお、心の中には孤独感や寂しいと思う心があったのです。
人間の人生観を形成して行く重要な要因は、最初に好きになった人にあるといいます。
牧水の最初の恋愛の相手は園田小枝子という女性で、たいそう美人だったそうです。
牧水は結婚を考えましたが、できませんでした。
彼女はかなり複雑な生活をしてきた人で、牧水と出会った当時は単身で東京にでてきてはいましたが、すでに、妻であり母であり、牧水より年上でした。
牧水が結婚しようと言ってもはっきりした態度を示さない彼女に、牧水は悩みます。
でも彼女もまた、離婚が成立していないので、何も言い出せずにいたことを悩んでいたでしょう。
純情で、人を疑うことを知らなかった牧水は、彼女の態度に焦燥と苦悶にかき乱されていきます。
はじめから幸せのかたわらに悲哀のかげがつきまとった恋でした。
すぐ横に強く抱きとめている恋人がいるのに「白鳥は悲しからずや」と歌い「この寂しさに君は耐うるや」という孤独感を持っていたのです。
園田小枝子という女性とのことは、あまり詳しくはわかっていません。
当時、親しかった友人の北原白秋は、「若山君はある一線を画していて、その内部に踏み込ませないというところがあった」といい、佐藤緑葉も、「彼の最も重大だった問題をほとんど私に語ろうとしなかった」などと語っています。
牧水の処女歌集『海の聲』に収められた情熱あふれる歌から、その女性のことを思い描いてみましょう。
ああ接吻海そのままに日は行かず鳥翔ひながら死せ果てよいま
山動け海くつがえれ一すじの君がほつれ毛ゆるがせはせじ
君泣くか相むかひゐて言もなき春の灯かげのもりの静かさに
毒の香君に焚かせてもろともに死なばや春のかなしき夕べ
われ歌をうたへり今日も故わかぬかなしみどもにうち追われつつ
遠くよりさやさや雨のあゆみ來て過ぎゆく夜半を寝ざめてありけり
どの歌も胸が締め付けられるようで素敵ですが、中でも私の好きな歌は
山動け 海くつがえれ 一すじの君がほつれ毛 ゆるがせはせじ
(山よ動いてみろ、海よくつがえってみろ、君のたった一本のほつれた髪の毛さえゆるがせることなど絶対にない、
ぼくがしっかり抱きとめているのだから)
みじろがで わが手に眠れ あめつちになにごともなし 何のことなし
(身じろぎなどしないで、安心して僕の腕の中で眠りなさい、あめつちに、この世には何事もないのだよ、
何の心配もしなくていいのだよ)
男らしくて大好き。これぞ牧水です。
こんな風に抱きしめられていたいと思ってしまう(^^;)
「牧水の文学に、永く寂寥と悲傷の情緒がつきまとうのは、ほとんどこの人に起因するものと思われる」と、森脇一夫が『若山牧水 近代短歌・人と作品』の中に書いています。
色々あった後に結局は別れるのですが、しばらくたって彼女から子供ができたからと養育費を請求されたりします。
でも、ほんとに自分の子供なのかという次元でまで悩み、途端の苦しみを味わうことになるのですが、どんな恋であれ、恋はたくさんすることで本当の大人、心豊かな大人になるといいます。
この女性との出会いが <歌人 若山牧水> を形成するのに大きな役割をはたしたようです。
2番の意味と考察
どれほどの山や川を越えて行っても、寂しさ、のなくなる場所などありはしないと分かりながら、それでも「寂しさの果てなむ国」、寂しさのなくなる場所があるのだろうか…と旅をするのです。
明治40年、早稲田大学の学生だった時、夏休みに東京から故郷九州の宮崎へと帰省の途中、岡山で汽車を降り、中国山地を歩いていたときに生まれた歌です。
この時牧水には心ひかれる女性がいました。
さきほどお話しした小枝子という女性です。
旅の途中でいくつも彼女への思いを歌にしていますが、休みが明けて東京に戻ってからは、その彼女と燃え上がるように恋が始まり、昼も夜もほとばしるように彼女との恋の歌を詠み、牧水の短歌の世界が花開いていくのです。
恋心を持っていた22歳の若き青年が、どれだけの山河を越えたならさびしさの果てる国があるのだろうか、なんて歌を詠むのですよ、全く、物を書く人たちというのは若くして老成していて、繊細な心、孤独感が痛々しく思えます。
この歌は有名で、牧水自身が揮毫の旅をして回ったため、全国あちこちに歌碑があります。
牧水は天性、漂泊の歌人といわれるほど、旅を愛しました。
西行や芭蕉とならんで、日本の代表的旅人といわれるようですが、二千数百首におよぶ旅の歌とともに、独特の紀行文が旅人としての魅力を与えていると思われます。
飄然と旅に出かけたそうですが、日本趣味で、和服にぞうり脚絆姿で出かけるのが好きだったようです。
そして、もう一つ牧水は酒仙といわれるほどお酒を愛した人でした。
有名な歌に、
白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり
など、お酒を詠んだ歌は三百首もあるそうです。
3番の意味と考察
悲しみをぬぐい、自分自身を奮い立たせて「いざ行かむ」、いざ行こう、といってみたものの、「このさびしさに君は耐ふるや」、耐えられるか、と歌います。
表現のしようのないほどの哀しみ、孤独感を心に抱えていた牧水でした。
『白鳥の歌』の1番から3番までの歌は、2つの歌集から選ばれました。
「白鳥は…」と「幾山河…」は牧水の処女歌集『海の聲』から、「いざ行かむ…」は第二歌集『独り歌へる』からとったものです。
「藤原のり子の日本歌曲の会」が発行している<ゆめの絵楽譜>(ピース:一曲ずつの楽譜)の表紙絵です。
日本画家の畠中光享画伯に描いてもらったものです。
牧水の信念「自己即詩歌」
「歌を詠むのも細工師が指輪や箸をこしらへてゐるのとは違つて、自己そのものを直ちにわが詩歌なりと信じて私は詠んでゐる。自己即詩歌、私の信念はこれ以外に無い。」
と『独り歌へる』の序文に書いています。
牧水の信念である「自己即詩歌」は、いいかえると、生活即芸術という意味ですが、こういう考えで生きてゆくためには、当然、実生活のなかで矛盾と向き合うことになります。
その苦しみから牧水の歌の中に「かなし」や「さびし」が多く詠まれることになったのです。
曲も素晴らしい
古関裕而の曲がとてもシンプル。
牧水の孤独で哀しみに満ちた心のうちを、とてもよく歌い表していて、美しくて実に素晴らしい歌曲だと思いますが、実はこれは完全に流行歌として誕生したものです。
(流行歌として生まれた話は次項で)
短歌は言葉数が少ないので、作曲するととても短い歌になってしまうため、なかなか<名曲>と呼ばれるものは少ないのですけど、古関裕而は短歌に曲をつけるのが好きだったようで、この「白鳥の歌」は、素晴らしいできだと思います。名曲です。
自分をしっかりと見つめて生きていくうえでも、もっと若い人たちに歌ってほしい歌の一つです。
歌の誕生と考察
昭和22年、NHKの連続ラジオドラマ「音楽五人男」の主題歌として作曲され、主演していた藤山一郎が放送の最初に「白鳥はかなしからずや…」と1番の歌詞を歌っていました。(当初は1番だけでした)
「音楽五人男」は、それぞれ違う経歴を持つ5人の男が同じ音楽の道を志すという筋のドラマです。
この番組はとてもヒットして、その後、レコード化することになった時、1番だけでは短すぎるからと、同じような雰囲気のある「幾山河…」と「いざ行かむ…」の二首が選ばれました。
ただし、レコードにはいっている短歌三首は、いま歌われているのと同じですが順序がちがっています。
1番の「白鳥は悲しからずや」の後「いざ行かむ行きてまだ見ぬ」「幾山河越えさり行かば」と続きます。
今は2番と3番が入れ替わって歌われ、最初に書いた順序となっています。
いつから、なぜ、順が入れ替わったのかはわかっていません。
ちなみに、東宝で映画化された時の主題歌は「白鳥は…」ではなく、また別に作られました。
その歌も藤山一郎が歌い大ヒットした「夢淡き東京」(柳青める日つばめが銀座に飛ぶ日…)です。
同じ映画の中で歌われたのですから「夢淡き東京」と「白鳥の歌」は兄弟、という訳です。
古関裕而
古関裕而は、数多くの軍歌に始まり、戦後は荒廃した世の中に希望を抱かせるような歌を作曲し、劇作家の菊田一夫と組んで生み出した名曲の数々など、昭和史を見るような作曲活動をしました。
古いところでは、数多くの軍歌を書いています。
「露営の歌」(勝ってくるぞと勇ましく…) 昭和12年
「暁に祈る」(ああ あの顔で あの声で…) 昭和15年
「若鷲の歌」(若い血潮の予科練の…) 昭和18年
戦後は荒廃した世の中に希望を抱かせるような歌をたくさん作曲。
「とんがり帽子」 (緑の丘の赤い屋根…) 昭和22年
「長崎の鐘」 (こよなく晴れた青空を…) 昭和24年
「イヨマンテの夜」(イヨマンテ 燃えろかがり火…) 昭和25年
「君の名は」 (君の名はと尋ねし人あり…) 昭和28年
「高原列車は行く」(汽車の窓からハンケチ振れば…) 昭和29年 など。
そしてもう一つ忘れてはならないものが、スポーツ音楽。
現在も使われている
「NHKスポーツ放送のテーマ」 ← 聞いたら誰でも知ってる (^^)/
「全国高等学校野球大会の歌 栄冠は君に輝く」(雲はわき 光あふれて…)
そして 阪神ファンの方、注目っ(^^;)
阪神タイガースの応援歌 「六甲おろし」(六甲おろしに颯爽と蒼天翔ける日輪の…)
もこの人の作曲です。
古関の作品は、ほとんどが放送を通して広がったもので、数え上げるときりがないほど私たちの生活に潤いを与えてくれています。
その作風は、古関の温厚でまじめな人柄を感じさせる明るさと、さわやかさにあふれています。
歌の旅
牧水は、全国を旅していますから、あちこちに歌碑などが建てられています。
記念館は終焉の地となった静岡県の沼津に、記念文学館は生まれ育った宮崎県の日向市にあります。
自筆の文字を刻んだものも各地に数多くあります。
私は以前、歌の調べ物をし始めたばかりのころ、岩手県の北上へ行ったとき、北上駅前に「幾山河」の歌碑を見つけました。
<牧水自筆>、と書いてあったので、幾山河の歌はここでつくられたのか、と驚き、感動しました。
でも、家に帰って歌集の『海の聲』をみたら、歌の前に「中國を巡りて、十首の内」と書いてあり、とんだまちがいをするところでしたが、これも楽しい旅の思い出のひとつです。
古関は福島県の人です。
東京から東北新幹線、やまびこに乗って1時間40分ほどで福島駅に着きます。
駅をでると町はひっそりとしていて、空気が澄んでいて、ひときわきれいな気がしました。やはり東北地方なのです。汚れた都会の空気とは味がちがっています。
駅前からバスに乗り「日赤病院前」のバス停で降りて、少し歩くと、福島県民ホールに隣接して、古関裕而記念館が瀟洒な装いを見せています。
県民ホールは、クラシック音楽やオペラリサイタルの会場として名前の売れたホールで、付近は音楽発信ゾーンとしても、定着しているようです。
古関の記念館はそのゾーンの中心施設の一つで、近代的な映像設備や音響装置が整っていて、音楽愛好者だけでなく観光客たちもしばしば訪れます。
記念館をはいると、最初に目に飛び込んでくるは、大きなガラス張りの部屋。
どれくらいの広さがあるのでしょうか、驚くほどの広さです。
正面には巨大な映像スクリーンがあって、私が訪れたときは、東京オリンピックの開会式や競技の様子が、また、阪神甲子園球場で開かれた高校野球の名場面のもようが映し出されていました。
その画面に合わせて、東京オリンピックの時は勇壮な「オリンピックマーチ」が、甲子園球場の時は「栄冠は君に」の、古関メロディーが流れていて、映像と共に古関メロディーを楽しむことができるようになっているのです。
このほか館内には、古関が作曲をするときに使っていた書斎をそのまま再現した部屋がありました。
座卓が三つくっつけて並べてあり、いそがしいときなどは、それぞれの机の上に五線紙を置いて、一度に数曲の曲を書いたそうです。
あっちの机に座ったときはこの曲を、こっちの机のときは別の曲を、と、座るたびに頭を切り換えて作曲したなんて、さすが、すごいと感心しました。
また、自筆の楽譜や古関に関係のある本などを展示したコーナもありました。
作曲家・古関裕而の全貌が、目で見、耳で聞き、確かめられるように館内が構成されているのです。
私は、視聴コーナーで古関の曲の数々を聞いたのですが、藤山一郎と松田トシの歌う『白鳥の歌』を聞いたのは、このときがはじめてで、感激でした。
と同時に、あることを知ってびっくりしました。
というのは、歌の順番が違っていたのです。この話は先ほど書きましたけれど、「白鳥」「いざ行かむ」「幾山河」の順に歌われていたのです。
しかも2番「いざ行かむ」は松田トシの独唱、三番は二重唱になっていました。
そこで、展示コーナで『白鳥の歌』の原譜を探すと、展示ファイルのなかに自筆譜があり、ぜひコピーを、と頼んだところ、ほんとうはだめなんですけれど、といいながらも、係りの人はコピーさせてくださいました。これも、とても感激しました。
自筆譜はいま私たちが歌ってる順序です。
レコードは、録音の時に何かの理由で順序が入れ替わったのでしょう。
日本歌曲を歌っている私が舞台で古関の曲を歌うのは「白鳥の歌」「長崎の鐘」などわずかですが、記念館の見学は、親しみ深い曲の多い作曲家だけに心が躍りました。
約2時間、館内で古関の偉業にふれた後、古関裕而作曲集や自叙伝を買って、記念館を後にしました。
余談
牧水の情熱の歌を詠むと思い出す私の大好きな歌です。 藤原俊成の歌
恋せずば 人の心もなからまし もののあわれも それよりぞしる
(恋というものをしないと、人としての心が育たない、美しいと感じたり思いやる心を持ったり、あわれを感じる
ことは恋をすることでのみ知ることができる)
恋をたくさんすると心が豊かになれるのですね。(^^)
歌曲ってすてき
の。