雨はふるふる、城ヶ島の磯に、

利休(りきゅう)(ねずみ)の雨がふる。

雨は眞珠か、夜明の霧か、

それともわたしの忍び泣き。

舟はゆくゆく通り矢のはなを

濡れて帆上げたぬしの舟。

ええ、舟は()でやる、櫓は唄でやる、

唄は船頭さんの心意氣。

雨はふるふる、日はうす曇る。

舟はゆくゆく、帆がかすむ。

 

 

  詩の意味と考察

雰囲気を感じて下さればいいと思いますが、少しだけ言葉の説明を。

 

「利休鼠」とは、緑色を帯びた灰色のこと。

     多くの本に「利鼠」となっているのがあって、そのため千利休と関係あるように説明がな

     されていたりしますが、間違いです。

「通り矢」は、地名。

「はな」は、先端のこと。

「櫓」とは、船尾に取り付けて左右に少しひねりを加えながら動かすことで揚力が生まれ、推進

  力を生み出すもの。櫓の水につかった部分は、片面がふくらんでいて、翼型のような形状の

  ため、櫂(かい=ボートのオール)よりも推進効率が高い。  

ある新聞の調査によりますと、この歌は、

「夜釣りに出かける夫を思う女心を歌った哀切の詩で、女房たちが一夜の別れを惜しんだ<帆船のぬし>はいまでは南太平洋の漁場をめざし波をけちらして数か月のマグロ漁に向かう。」

と書かれていましたが…。

 

 

  詩の誕生と考察

詩は大正8年9月1日刊行の『白秋小唄集』に所収されています。

三浦三崎で生きなおそうとしていた時に書かれたものですが、その当時の説明を。

 

詩を書いた当時、白秋は悲痛と屈辱のどん底にいました。

その訳は、彼の作品『おかる勘平』が風俗を乱すとのことで発禁処分をうけた上に、彼自身も隣家の新聞記者夫人 松下俊子が、家庭内の相談をするため白秋の家に足を運んでいたことから、その夫から姦通罪で告訴され、2週間市ケ谷の未決監に拘束されました。

白秋の弟たちが奔走して示談金を作り大正元年8月に示談が成立、無罪放免にはなったものの、当時の道徳からすれば、社会の激しい非難を浴び、処女詩集『邪宗門』や第二詩集『思い出』で得た名声はすっかり地に落ちます。

 

そしてその年の冬、九州柳川の実家が、10年程前の火事の打撃によって破産し、家をたたんで郷里を捨てて上京、母も姉も白秋の家に同居するようになった上に、弟の出版会社の方も思わしくなくなり、と、悪いことが重なり、白秋は大所帯を背負うことになったのです。

 

三浦三崎には死のうと思って行ったようですが、あまりの明るさあたたかさに、ここで生きてみようと思いなおし、家族全員、先ほどの新聞記者の妻だった俊子も離婚してきて白秋の元に来ていましたから、全員大家族で、三崎に移り住みます。

 

大正2年5月、城ケ島をのぞむ通り矢にほど近い向ケ崎の異人館に居を定めました。

父と弟らが魚の仲買業を始めますがすぐに失敗。父たちは東京に引き上げますが、白秋と俊子は残り、三浦半島南端の二町(ふたまち)()にある(けん)桃寺(とうじ)という古寺の離れで間借生活を始めます。(大正3年2月、小笠原に渡るまでそこに在住。)

 

そんな折、メロディーをつけて歌うための詩を書いて欲しいと依頼を受けたのでしたが、なかなか書けずに困っていた時、知り合いの漁師に船に乗せてもらって、霧のような細い雨にかすむ通り矢の鼻、城ケ島を見ながら揺られていると、この詩が口をついて出たと言います。

 

「松下俊子が家庭内の相談をするため白秋の家に足を運んでいたことから、その夫から姦通罪で告訴され…」 と書きましたが、この話には別の説もあり、足を運んでいる内に恋に落ちたとする説もあり、俊子の旦那が一癖もので、自分の妻がちょくちょく相談しに行っている相手が、今大評判の詩人だと知って、白秋からお金を巻き上げようとたくらんで訴えた、との説もあります。 

男女間のことは当の本人でなくては真相はわからないことが多いですから、本当のところはわかりません。

「白秋年譜」を参照してくださるといいかと。

10×14cmの小さい本で、固い箱型に入っています

左が箱 右が繻子でおおわれてる本

昔の本はほんとうに装丁がきれい!

 

 

  曲の誕生

大正2年10月30日の <芸術座音楽会第一回演奏会>のために梁田(やなだ)(ただし)によって作曲されました。

 

芸術座音楽会とは、島村抱月(ほうげつ)が主宰する <芸術座> が、演劇界のみならず音楽界にも清新の気を入れようと音楽会を企画。

 

当時、抱月の相談役に、相馬(そうま)御風(ぎょふう)ら気鋭の学者やジャーナリストらがいたようで、白秋への作詞依頼は相馬の意見によったもののようです。

そして作曲は、梁田を推薦したのは、おそらく中山晋平だったのではないかと思われています。

中山は、抱月の書生をしつつ東京音楽学校で音楽を勉強していて、抱月の片腕的存在でしたから。中山と梁田は学校時代からの友人でした。

 

 

  芸術座とは

島村抱月が主宰した団体の名前。

それまで所属していた坪内逍遥(しょうよう)の <文芸協会> の文芸趣味から脱皮して、演劇のみならず、音楽・文学・美術・詩・哲学を含めた、総合的な 芸術 の世界を展開してみようと考えて立ち上げたもので、<文芸協会>が4つほどの団体に分裂した中の一つ。

 

 

  文芸協会

まずは、時代背景から。

明治の30年代終り頃、歌舞伎も大衆性を少しずつ失い、オッペケペー節の川上音二郎は、明治演劇の世界の風雲児として華やかに活躍していました。

でも、その新派劇も明治の後期には分裂していき、新しいものを生み出す動きが始まります。

坪内逍遥や森鴎外、尾崎紅葉、幸田露伴という錚々たるメンバーが新しい戯曲や演劇に関心を寄せ始めていた頃、島村抱月が4年にわたるイギリスドイツの留学から帰国し、それを待ちかねて抱月を招き入れ、坪内逍遥が <文芸協会> を発足。

理想の演劇を実現するには俳優を養成することが大事だと、演劇研究所を設立、女優を育てることにします。

 
それまでの日本の演劇は歌舞伎でみるようにすべて演者は男性。
抱月は外国のように女性の役は女性が演ずるべきと考え、女優になる人を育てるために公募します。

俳優養成のための試験に合格した松井須磨子が日本で最初の女優と言われています。

演劇研究所の第一回試演会は「ハムレット」で、 須磨子が演じたのはオフィーリア。

その後、帝劇で「ハムレット」公演。

9月に私演場で「人形の家」をした後、44年11月に、帝劇でも上演。

この時の須磨子のノラの役が評判になり一躍スターになります。抱月は演出。

夫と家を捨てて自立する女性を表現した「人形の家」は当時は考えられないほどショッキングなもので、公演は社会的反響を巻き起こしていきます。

この年の新春は大逆事件で明けていて、管野(かんの)須賀子(すがこ)が話題に。

 

大逆事件とは明治天皇の暗殺を計画した容疑で、多くの社会主義者・無政府主義者が逮捕処刑された事件。天皇・皇族に危害を加える犯罪、大逆罪として異例の速さで幸徳秋水や菅野須賀子らの処刑が行われた。

この事件がもとで明治から昭和にかけて社会主義に対する弾圧が一層厳しくなっていった。

5月には、新しい女の旗手として 平塚らいてふ らにより 『青鞜(せいとう)』が発刊され、与謝野晶子の女性賛歌が巻頭におかれるという時代背景にあって、ノラを演じたことで、女性解放のさきがけのような時代の女として、須磨子は脚光を浴びるようになりました。

明治45年の 『青鞜』 の1月号で「ノラ」の特集が組まれ、「人形の家からの脱出」とか「ノラになる」という言葉が流行します。

この「人形の家」の稽古中に、抱月と須磨子の恋愛感情が芽生えたようで、文芸協会の中で諸問題を抱えてはいたものの、協会が崩壊するきっかけは、家族のある抱月と須磨子のスキャンダルでした。

坪内逍遥は男女間の問題に厳しい人で、二人を文芸協会から脱退させます。

抱月がいなくなっても、と強気だった逍遥ですが、やはり抱月あっての文芸協会、解散しか方法はなく、4つほどの団体に分裂。

 

抱月は早稲田の若手や芸術家グループに支持され、<芸術座>を組織、新しい演劇運動へと再出発することになりました。

<芸術座>の旗揚げは大正2年(1913)

 

抱月と須磨子の恋愛問題が発覚して、坪内逍遙に追い出された抱月が立ち上げた<芸術座>の旗揚げ公演は、二人のスキャンダルへの興味から大入りだったようです。

 

  もう一度<芸術座>にもどって

大正3年1月、旗揚げ公演に続いて、芸術座の第2回公演を行い、3月に第3回公演。

その時の演目がトルストイの「復活」。

思想性を抜いて、カチューシャと青年士官との哀しい恋物語に仕立てました。

劇の中に<劇中歌>を入れるという従来なら考えられない発想は、抱月の意図した大衆路線で、大当たりします。

劇中歌「カチューシャの唄ピンク音符カチューシャかわいや別れのつらさ・・・)」は、島村家の書生だった中山晋平が作曲したのですが、この「復活」を全国で公演。

そして朝鮮、満州、台湾、へも出かけるほど大ヒットで、明治末に出来ていた蓄音器が倒産寸前にあった所、このカチューシャの唄によって救われた、と言われたほどでした。

6月に入って竹久夢二の装丁の楽譜も売りだされ、3万部売れたと言います。

 

大正7年10月、須磨子は舞台稽古を前にしてスペイン風邪にかかり、その看病をつとめた抱月に風邪が移り、11月4日、舞台の初日を前に、抱月死去。

抱月亡き後、須磨子は座主となりますが、劇団員達がもっていた須磨子への反感があらわとなり、抱月・須磨子の作り上げた芸術座はこの時点で終りです。

 

 

  蛇足

抱月の亡くなった翌年の大正8年1月5日早朝、芸術倶楽部の小道具部屋で須磨子縊死。

女優髷に結い、大島の晴れ着、紋付の羽織、繻珍の丸帯、抱月からもらった指輪と時計をはめての最後だったようです。

そして3人に宛てて遺書があり、どの遺書にもくり返し抱月と同じ墓に入れて欲しいと書いています。

「何卒なにとぞ墓だけを一緒にしていただけますよう幾重にもお願い申し上げます」と。

でもその願いは聞き入れられず、須磨子は故郷松代の生家を見下ろす山の中腹に一人で眠っています。

 

 

  本題に戻って <芸術座音楽会第一回演奏会> の話

大正2年10月30日、東京数寄屋橋の有楽座(今はその時の建物はなし)で行われた演奏会で、作曲者本人が歌い(当時の歌の題は「舟唄」)大好評だったようです。

 

詩は最初に書いたようになかなか出来ず、芸術座と白秋と梁田の三者間を結ぶ役割に奔走した岩崎太郎の回想文の記述を載せてみます。

 

「<芸術座音楽会第一回演奏会> に梁田君に自作自演奏をしてもらおうと、当時神奈川県三浦三崎の向ケ崎の異人館に居られた白秋氏に、相馬御風氏が作詞を頼む手紙を書き、それをわざわざ持って行ったのがこの僕です。

それは、大正2年の5月か6月のことで、なかなか作詞ができないので度々催促に出かけました。

(当時東京から三崎へ行く行程は、東京―横須賀間は汽車、そこからガタ馬車で三浦半島の西南を横断して、途中衣笠を通過して西南海岸の林に達し、そこから南下して三崎に達した。この行程は20キロの計算になるが、昔のガタ馬車では大旅行の感があっただろうと岩崎の未発表原稿に基づいて、富永次郎が記述している。)

やっと、原稿をもらって、大急ぎで帰ってきて梁田君に手渡したのが、会の3日前の27日でした。 -中略- 

作曲にとりかかったのが29日の午後9時から徹夜して30日の午後3時に完成。

それからピアノ伴奏を書いて、松平君(ピアノの松平信博)に渡し、わずか1、2度、会の前に合わしたばかりです。...」

と書いています。

 

白秋がなかなか詩を書きあげられずにいたことがよくわかります。

 

発表当時は少し難しいのであまり歌われなかったようですが、1917年、奥田良三のレコードが好評で一般に流行、藤原義江も得意として歌っていました。

 

 

  プログラムに記載の文

音楽会第一回演奏会のプログラムの中に記載された文があまりに大層意欲的な文なので載せてみます。

 

第一回演奏会のプログラムより  (御風 執筆 抱月 校閲)

 ・我等は我等の中心生命に何等かの力ある響を伝ふる音楽を要求す。

 ・我等は我等自身の中心的生活の音楽的表現を要求す。

 ・我等の求むる音楽家は単なる技術家にあらず、最も厳密なる意味における芸術家

   なり。

 ・我等の求むる音楽は 単に我等の聴覚に快きに止まらず 深く我等の生命に響き入る

   音楽たらざるべからず。

 

ブルー音符ブルー音符ブルー音符

すごいですね。

音楽に対してここまで要求するとは。

歌を歌って舞台を創っているものとして、身が引き締まります。

 

 

 

やっぱり歌曲ってすてき!

の。