春の宵 さくらが咲くと

花ばかり さくら横ちよう

(おも)(いだ)す (こい)の昨日

君はもうこゝにゐないと

 

あゝ いつも 花の女王

ほゝえんだ 夢のふるさと

春の宵 さくらが咲くと

花ばかり さくら横ちよう

 

()ひ見るの時はなからう

「その後どう」「しばらくねえ」と

言つたつてはぢまらないと

心得て花でも見よう

春の宵 さくらが咲くと

花ばかり さくら横ちよう

             『綜合文化』より (本来はルビはない)

 

 

  詩の意味と考察

春の宵は、甘ったるい湿気を帯びた空気に包まれて暮れていきます。

ふと昔のことを思い出すのも、春の宵です。

満開のさくらを見上げていて恋人を思い出す詩ですが、少し不思議な雰囲気です。

「会い見るの時はなかろう」から「その後どう」、とひとり芝居が始まりますけど、

「はぢまらないと心得て」という言葉が詩には不似合いな気がします。

昔の恋を思い出して、「その後どう?しばらくねぇ、~なぁんて言っても始まらない」か…と、普通に独り言を言っているように解釈してもいいのですが、「心得て」がどうも腑に落ちません。不思議な感覚です。

「はぢまらない」、が <じ> ではなく <ぢ> で、上から4行目の「ここにゐないと」、の <い> も旧字体の <ゐ> ですから、これは文語体で書かれた詩だとわかります。でも、いくら文語体の詩だからとしてもやっぱり「心得て」はちょっと大げさだと感じます。

それで、これは、< はぢまらないと心得てぇぇ・・・>と見得を切るイメージで書かれたと解釈するのがいいと思います。

 

さくらは妖艶な魅力を持つ花です。

この詩は、梶井基次郎の小説の「桜の樹の下には」が下敷きになっていて、桜の下にいると桜の妖気にあてられ幻惑された、と解釈すると「はぢまらないと心得て」、と歌舞伎の見得を切ったのが理解できるかと。

春の宵の甘ったるい空気に包まれて、満開の桜の木の下、幻惑されてフト、別れた人の姿を見てひとり芝居をして見得を切った・・・そんな不思議な詩なのです。

 

 

  桜の樹の下には

梶井基次郎の『檸檬(れもん)(昭和6年、1931年刊行)に所収の散文詩的小篇「桜の樹の下には」の最初の部分を載せておきます。

 

「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!これは信じていいことなんだよ。

何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。

俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。

しかしいま、やつとわかるときが来た。

桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる。 これは信じていいことだ。」

 

 

  詩の誕生と考察

昭和23年『マチネポエティク詩集』という詩集が出版されます。

日本語に韻を踏んで詩を書こうという試みで出されたものです。

ただ、外国の詩にはよく韻が踏まれていますが、日本語はアクセントがありますから、なかなか上手く行かず、このマチネポエティクという、韻を踏む運動は、結局は、数年で自然消滅していきます。  

この詩がどんな風に韻が踏まれているのか、まずは詩を読んでみましょうか。

 

春の宵 さくらが咲く     花ばかり さくら横ちょ

想出す 恋の昨日(きの)  君はもうこゝにゐない

あゝ いつも 花の女王(お) ほゝえんだ夢のふるさ

春の宵 さくらが咲く     花ばかり さくら横ちょ

会い見るの時はなかろ    「その後どう」「しばらくねぇ」

言ったってはぢまらない    心得て花でも見よ

春の宵 さくらが咲く     花ばかり さくら横ちょ

 

と、最後の文字が「と」と「う」になっていますね。  

外国の詩は、韻を響かせて読むと、流れるようにきれいなのですが、日本語はアクセントの言葉ですから、韻を踏んでる所を強調して読んでもきれいじゃないですね。

普通の詩と思って読んだ方が心を感じ取れていいと思います。

   

この詩は加藤の淡い初恋の思いが歌われているようです。

あこがれの女性を爛漫の桜とだぶらせて書かれたのでしょうけど、一人芝居をさせるところなどに、加藤もやはり梶井基次郎の小説の影響があって、桜のなかに幻想的な不思議な力を感じていたのだろうと思われます。

 

 

  加藤周一

加藤周一は評論家で医学博士。

学生時代から文学に関心を寄せ、在学中に中村真一郎や福永武彦らと「マチネ・ポエティク」を結成し、韻律を持った日本語詩を発表していました。

 

2008年の12月にお亡くなりになりましたが、その時の新聞を読んで私はとても後悔をしました。

といいますのは、この歌に関してお聞きしたいことがあったのですが、とても難しいものばかりをお書きになっていらっしゃるし、お写真を見ても眼光鋭く恐そうだし、きっと恐い方なんだろうな、と勝手に思っていたのです。(怒られますね…(^^;)

だいたい東大の医学部を出られてお医者様でもいらっしゃるのですから、「初めまして…」とお便りするのがなんだかためらわれたのです。

でも、ある方が評伝としてこんな風に書いていました。  

「加藤さんて、こわい方ですか」と尋ねられると、こう答えたものだ。権威ぶったところなどなく、どんな人とも分けへだてなく話し、いつまでも好奇心を失わない気さくな人ですよ、と。

この記事を読んで、心底残念に思いました。

初めまして、お尋ねしたいことが…ってお手紙を書けばよかったな、と悔やまれたものでした。 顔で判断してはいけないと痛感!(^^;)

 

 

  さすが中田喜直

作曲した中田喜直はさすが文学青年でした。

ちゃんと詩の深い心を理解して、音楽の上でも <見得> を切らせています。

吹雪のように降ってくる桜の花があまりにすごくてすっかり幻惑され、幻覚を見たのです。

「花でもみよう」と歌った後、「おぉ おぉ おぉ・・・」と半音ずつ下がっていく箇所があるのですけれど、その部分を、

「この部分のところを、桜がはらはらと散るように歌う人がいるんだよね…、違うんだよ、ここは見得を切るのだよ」と私がレッスンに伺ったときにおっしゃっていました。

詩を深く感じることのできる素晴らしい作曲家だと思います。

 

 

  二つの「さくら横ちょう」

もう一人、別宮貞雄という作曲家が書いた「さくら横ちょう」というのも結構よく歌われます。

中田喜直のと比べると大きな違いがあります。

二人の作曲家の詩の解釈が違うのです。

中田の曲は、まだ明るさの残った宵、薄暮のころ、淡いピンク色のさくらの花びらがひらひらと散っている、というイメージです。

 

でも、別宮のはもっと更けてしまった宵、群青色の空になった頃、月明かりに映し出された桜の花が浮かび上がって見えるようなイメージで、もたっとした気だるい春の雰囲気がピアノに良く表われています。

 

ただ、大きく違うのは「心得て花でも見よう」の箇所の解釈です。

別宮は見得を切らず流れています。幻惑されたイメージはありません。

 

別宮の湿気を帯びたような音楽も捨てがたいものがありますが、詩の心をちゃんと表現したのは中田喜直の方だと思えます。

 

 

  歌の誕生

中田喜直は、三好達治の詩で<歌曲>というものにのめりこんで以来、詩に造詣が深くなって、いろんな詩人の詩に曲をつけていきます。

マチネポエティクの詩にも、意欲的に曲をつけ、『マチネポエティクによる四つの歌曲』として組曲を発表します。  

その組曲の二つ目に入れられた歌が「さくら横ちょう」です。

 

"マチネポエティク" による四つの歌曲

1 火の島             (福永武彦 詩)

2 さくら横ちょう (加藤周一 詩)

3 髪                   (原條あき子 詩)

4 真昼の乙女たち (中村真一郎 詩)

 

「藤原のり子の日本歌曲の会」が発行している<ゆめの絵楽譜>(ピース:一曲ずつの楽譜)の表紙絵です。

日本画家の畠中光享画伯に描いてもらったものです。

 

 

  お墓には桜

桜の花が醸し出す霊気のような、神秘的なものを感じられたことはありませんか。

お墓には桜があります。

死者を葬る場所に桜を植えるという何か理由があるのかどうかは知りませんが、たいていのお墓には桜が植えられています。梅の花はないのだそうです。

昔は土葬でしたからお墓の桜は見事に美しく咲くようです。

そういえば、赤穂浪士の切腹の場面も桜の木の下でした…。

咲いてはすぐに散る桜の花は、義のために命を捧げる武士の象徴で、武士には桜が似合います。

 

 

  花は桜

花というと <さくら> をイメージするようになったのは平安時代からだそうです。

奈良時代の頃は花と言えば梅をさしていたようで、万葉集には梅の歌が多く残されています。

平安時代になって、中国文化から国風文化に変るにつれて花と言えば桜に変っていったようです。

今は天気予報で桜前線が発表されて、日本中の人が桜の咲くのを今か今かと待つのですよ、こんな国ってほかにあるのでしょうか。ちょっと不思議な気がします。(^^)

 

 

  昔から日本人が愛してやまない桜の花

平安時代の歌人在原業平の有名な歌に 

ブルー音符世の中に絶えてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし」 があります。

この世にさくらがなければのんびりと春を楽しめるのに、桜のために、早く咲けと心待ちにし、咲いたら雨よ降るな風よ吹くなと心を痛め、全く落ち着かない、とさくらへの想いを逆説的に賛美しているのですが、本当にこの気持ち、私たちにもよく解りますね。

 

日本の春を歌うのに桜をなしには通れません。

古くは、瀧廉太郎の「花」ピンク音符春のうららの隅田川・・・)

野口雨情の「春の歌」ピンク音符桜の花の咲く頃は・・・)

中田喜直の「さくら横ちょう」

そして現代の歌では、森山直太朗さんの「さくら」ピンク音符僕らはきっと待ってる・・・)もとても素敵です。

 

 

  桜の森の満開の下

坂口安吾の説話風の小説に『桜の森の満開の下』というのがあります。

岩下志摩の主演で映画にもなったので、ご存知の方も多いかもしれません。 

桜の花が醸し出す妖気で、桜が満開のときに下を通れば気が狂ってしまうと信じていた男の孤独が、冷たい虚空がはりつめているような花吹雪の中に描かれているものですが、怖いような話です。

 

 

やっぱり歌曲ってすてき!

の。