藤村の年譜は書くと膨大になるので、歌に関しての、つまり <詩人としての藤村> にとどめておきます。
明治
5年3月25日、現長野県木曽郡山口村に生まれる。
島崎家は木曽街道馬篭宿の本陣・問屋・庄屋の3役を兼ねる旧家だった。
14年春、父兄のすすめで東京に遊学、長姉 その の嫁ぎ先に寄寓して泰明小学校に
通った。
19年、14歳、三田英学校に入学。
この年父発狂して、座敷牢の中に死す。
父正樹の生涯は『夜明け前』に描かれるように数奇を極め、草深い僻地に身をおいて国事を憂い、文明開化の時潮に痛憤して狂を発し、本陣の座敷牢で死んだ。
井上靖著の『日本の詩歌 島崎藤村』によると、
「藤村が幼少時代を木曽谷の奥深いところに位置する部落に過したことは、藤村という人間にも、その作品にも、生涯そこから足を洗うことのできぬ決定的なものを与えている。
藤村文学を藤村文学たらしめているものはこの風土的なもの以上に、家の問題、血の問題がある。
藤村の生家が本陣と庄屋を兼ねた旧家であったこと、父正樹が国学に造詣深い神道系統の理想主義者であり、その理想主義の破綻によって狂死したこと、三人の兄たちがいずれも実生活における失敗者であったこと、総じて島崎家を流れている宿命的なものは、藤村の人間と作品に表裏一体となって緊密に結びついている。」
と書かれている。
修学の完成を願う父兄の意志で帰郷葬送に参列することは許されなかった。
20年、15歳、明治学院普通学部一年に入学。
21年、16歳、芝高輪の台町教会で、キリスト教の洗礼を受ける。
23年、18歳、同窓に馬場孤蝶、戸川秋骨がいて、共に生涯の文学仲間となる。
この頃、陽気であった性格を一変、口数の少い内省的な少年となり、図書館にとじこもるようになりシェイクスピア、ダンテ、ゲーテ、バイロン等を耽読、日本の伝統文学にも興味を持った。
24年、19歳、明治学院を卒業、
25年、20歳、1月、翻訳「人生に寄す」を『女学雑誌』に発表。
以後同誌に翻訳、英詩紹介、詩等を載せた。北村透谷、星野天知、平田禿木等を知る。
この月末、明治女学校高等科文科の教師となる。
26年1月、教え子の佐藤輔子を愛して、前年就職したばかりの明治女学校を辞職、
教会の籍を脱し、関西東北への漂泊の旅に出た。
佐藤輔子には許婚者があり、所詮失恋に終らざるを得ないものであった。
輔子は卒業して郷里に帰って結婚したが、間もなく他界している。
10月帰京するが、この頃から数年間の消息は『春』に詳しい。
『春』は、そっくりそのまま体験が書かれているとは言えないにせよ、はっきりと自伝的作品と言えるもので、これ以後終生変らなかった藤村の作風の最初の形を見せている。
北村透谷・平田禿木・星野天知・戸川秋骨らと共に「文学界」を起こす。
27年4月、ふたたび明治女学校教師となる。
5月16日夜、北村透谷が芝公園の自宅で自殺し、衝撃を受けた。
5月末、長兄が水道鉄管事件に連坐して、未決監に入った。
この年、上田敏・樋口一葉を知る。
28年、23歳、相次ぐ身辺の打撃から、芸術上にも疑惑が生じて、もう一度勉強の
やり直しを思い立ち「大学選科に入る準備」を始める。
7月、母たちと本郷区湯島新花町二四に転居。
再び教師をやめる。
9月、郷里馬籠の大火のため生家が焼失した。
北村透谷の自殺事件と佐藤輔子に対する失恋事件以外に、長兄が事業に失敗して入獄するという事件もあって、この時期の藤村は次々に世俗的な荒波に襲われていた。
29年、25歳、仙台東北学院の教師となり仙台に赴任。
『若菜集』所収の詩篇を『文学界』に発表しはじめる。
この仙台の生活は1年足らずの短いものであったが、ここの生活において、詩人としての藤村の才能が何の前触れもなしに、突如花開き、『若菜集』に収められた詩篇が生み出された。
藤村は次のように仙台時代を回顧している。
「明治二十九年の秋、私は仙台へ行った。あの東北の古い静かな都会で私は一年ばかりを送った。私の生涯はそこへ行って初めて夜が明けたような気がした。私は仙台の客舎で書いた詩稿を毎月東京へ送って、その以前から友人同志で出していた雑誌『文学界』に載せた。それを集めて公にしたのが私の第一の集だ。『若菜集』は私の文学生涯にとっての処女作とも言うべきものだ。そのころの詩歌の領分は非常に狭い不自由なもので、自分らの思うような詩歌はまだまだ遠い先の方に待っているような気がしたが、ともかくも先蹤(せんしょう)を離れよう、詩歌というものをもっともっと自分らの心に近づけようと試みた。黙しがちな私の口唇はほどけて来た」
先蹤とは<先例>の意味の漢語的表現
藤村は、自分の生涯が初めて夜が明けたような気がしたと述べているが、本当に夜が明けたのは、詩の世界だった。
近代詩は藤村によって夜が明け、北原白秋によって真昼の賑わいを見せた、と言われている。
30年7月、25歳、一年で東北学院を辞職して帰京。
8月、処女詩集『若菜集』を春陽堂より刊行。
31年1月、26歳、「告別の辞」を『文学界』終刊号に発表。
4月、東京音楽学校選科ピアノ科に入学。助教授 橘糸重を知ったことによる。
6月、第二詩文集『一葉舟』を春陽堂より刊行。
12月、第三詩集『夏草』を春陽堂より刊行。
斎藤緑雨、高安月郊、蒲原有明等を知る。
32年4月、27歳、小諸義塾の国語、英語教師として長野県小諸町に赴任。
巌本善治のすすめで明治女学校の卒業生、函館市末広町の秦慶治の次女フユ
と結婚。小諸町馬場裏に新居を構えた。
この年、田山花袋、太田玉茗、柳田国男等を知る。
33年5月、28歳、長女みどり誕生。
8月、「千曲川のスケッチ」を執筆しはじめる。
34年8月、29歳、第四詩文集 『落梅集』 を春陽堂より刊行。
詩壇の第一人者として、土井晩翠とともに天下の人気を二分し、<藤晩二家>と言われた。
年末、柳田国男の訪問を受ける。
34年をもって<詩人藤村>は消え、35年に<小説家藤村>がスタート、次々と小説を発表し、小説家としての道を歩み始める。
「情人を愛するごとく、私は詩を愛し、情人に別るるごとく、私は詩に別れた」と言っている。
37年、32歳、この頃より『破戒』の執筆にかかる。
9月、合本『藤村詩集』を春陽堂より刊行。
『藤村詩抄』とは『若菜集』『一葉舟』『夏草』『落梅集』などの詩集から藤村自身が詩を選んでまとめたもの。
38年、小諸を辞して東京に帰り、39年に『破戒』を出版。
一躍小説家としての地位を確固不動のものにした。
『破戒』の一応の脱稿を契機として、居を小諸から東京に移した。
詩人として最後に書かれた詩「小諸なる古城のほとり」は、藤村の代表的作品であり、同時にまた近代抒情詩の絶唱である。
私の110曲には藤村の歌は「小諸なる…」と、「椰子の実」「惜別の歌」「初恋」の4曲のみ。
これほど美しい抒情詩がたくさん生まれたのに歌曲にならなかったことが残念です。詩人と作曲家は同時代に生きていないといい歌曲は生まれませんから、島崎藤村の時代に作曲家が存在しなかったことが本当に惜しまれます。
やっぱり歌曲ってすてき
の。