明治

18年(1885)

   1月25日、先祖代々柳川藩御用達の北原家の長男として生まれる。 

      (本当は次男として生まれたが、長男が生後間もなく死んだので、長男として育つ)

    北原家は「古問屋(ふつどいや)」または「油屋」の屋号を持ち、南筑後一円に

    魚を卸す海産物問屋で、酒の醸造・精米をも兼ねた地方有数の商家。   

    周囲の人から「トンカジョン」(良家の長男のこと)と呼ばれて育つ。

    幼年時代はきわめて腺病質で「びいどろ罎」とあだ名される。

 

『思い出』の「わが生いたち」の中に

「ほんのわずかな外気に当たるか、冷たい指先に触れられても、すぐ40度近くの高熱を呼び起

こしたほど、危険きわまる児であった。」

と記している。

 

裏方の総元締めを母親がしていたため、白秋は乳母によって育てられる。

したがって、母親と肌のふれあいはなかった。

当然、白秋はどこか充たされない心の渇きを覚えながら、成長していく。

自分の母親は本当の母親なんだろうかとの疑いに、ずいぶん苦しんだ。

詩文集『雀の生活』(大正9年刊)に、大正3年に白秋が両親、弟、妹たちと一緒に麻布の家で肩寄せ合うように貧しい生活をしていた頃のことが書かれている一節がある。

 

「…そうした時は思い切り子供げて親たちに甘えました。三つ子のようにボロボロ飯粒をこぼしたり、茶碗をひっくら返したり…中略…、それをまた母が「何という赤さんだねぇお前は」などと笑いながら一粒一粒拾って自分の口に入れたり、膝を拭いてくれたりしますと嬉しくてなりませんでした。」と。

 

この当時の白秋は30歳。

甘えのまねごとでも自然としてしまうところに、白秋の引きずっていた母性への渇きを見ることができる。

28年(1895)、矢留 (やどみ) 尋常小学校を主席で卒業。

30年(1897)、高等小学校を2年飛び級して、県立中学校伝習館に入学。

 

3年に進級する時から、成績が落ち始め落第。

この頃から文学に耽けりはじめる。 島崎藤村の『若菜集』を愛読。

16才の時級友と雑誌を作り、詩歌等書く。

雅号を白秋とする。    

34年(1901)、沖端の大火に類焼、「油屋」の酒倉に満ちていた新酒を焼き尽す。

35年(1902)、故意に勉強を怠り、成績が最後から2番になる。

 

父から文学書を読む事を禁じられる。

詩人として立つ決心をするが、父の圧迫もあり、神経衰弱になり阿蘇山麓に転地する。

37年(1904)、中学に復帰するが、卒業試験中に一日病欠。

    担任の数学教師が追試を許さず、教師と言い争い、憤然として退学する。

   3月、親友の中島鎮夫が露偵(ロシアのスパイ)の嫌疑を受けて自刃。

 

白秋は泣きながら駆け付け、戸板に乗せてタンポポの咲く野道を家まで運んだ。

 

『思い出』の中の詩

わが友は自刄したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より靜かに釣臺(つりだい)に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらはただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ。

友、時に年十九、名は中島鎭夫。

あかき血しほはたんぽぽの

ゆめの逕(こみち)にしたたるや、

君がかなしき釣臺(つりだい)

ひとり入日にゆられゆく…

 

あかき血しほはたんぽぽの
黄なる蕾を染めてゆく、
君がかなしき傷口に
春のにほひも沁み入らむ…

         (全七連の詩。三連以降省略)

 

「貴方は私の分も一緒に成功してくれ」と早熟の親友が書き残している。

この事件で白秋はいよいよ詩人として立つ決意を固くする。

          父の反対を押切って、上京。   

          早稲田大学英文科予科に入学。同級に若山牧水が居た。

38年(1905)

   1月、長篇詩「全都覚醒賦」が一等入選し『文庫』に転載されて詩壇の 

    注目を浴びる。

39年(1906)、与謝野寛の招きで新詩社に入る。

   与謝野晶子・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎らを知り、先進の上田敏・蒲原 

   有明・薄田泣菫らに認められる。

40年(1907)、五足の靴=5人連れ九州旅行。

 
故郷柳河を起点に、与謝野鉄幹・木下杢太郎・吉井勇・平野万里らと平戸・長崎・天草・島原への旅をした。南蛮情緒への旅といえる旅で、吉井勇は自分にとっても思想、芸術上の転機となった、といい、「この旅行は要するに切支丹遺跡探訪と云つたやうなもので、これに依つて最も文学的影響を受けたものは北原白秋と木下杢太郎の二人であつて …中略… 白秋の詩集『邪宗門』などはわが国南蛮文学の先蹤(せんしょう)をなすものと云つていいであらう…」と語っている。
     (先蹤とは先例の漢語的表現)

41年(1908)、画家の石井柏亭(はくてい)、詩人の木下杢太郎(もくたろう)らと芸術家の

    文学サロン的な集まり「パンの会」をおこす。

42年(1909)、雑誌『スバル』が創刊され、同人となる。

   3月、処女詩集『邪宗門』刊行。

 

『邪宗門』の扉に、父への献詞をしるす。

 

「父上、父上ははじめ望みたまわざりしかども、児はついにその生まれたるところにあこがれて、若き日をかくは歌いつづけそうらいぬ。もはやもはや咎(とが)め給はざるべし」と。

 

切支丹の世界に限りない魅力を感じ、それをあたかも極彩色に塗り上げた絵巻物のように、言葉で綴った。白秋好みの異国情緒を発散している。

この言語魔術は驚嘆のうちに迎えられた。

「誇張と架空ばかりで白秋詩には内容がない」という日夏耿之介 (こうのすけ) などの批判はあったものの、この一巻で詩壇の地位は固まったといっていい。

当時金沢に住んでいた21歳の室生犀星は、「大枚をはたいて買ったがちんぷんかんぷん解らない。が、解らないまま解る顔をして読んでいた」と「我が愛する詩人の伝記」の中に書いている。月給のすべてをなげうったと。

43年(1910)、青山原宿に移り住む。

 

隣家の松下長平の妻、俊子と白秋のお世話をしていたばあやがまず親しくなり、互いの身の上話などをしているうちに、俊子の不幸な境遇、夫の暴力で生傷が絶えない上、夫に混血の愛人がいて、同居を迫られていることなどを知り、この同情から愛情が生まれる。

この頃白秋は債権者の目を逃れるためたびたび転居しているので、ばあやが俊子と親しくならなければ、白秋と俊子の出会いはなかったであろう。後にこの俊子の夫から姦通罪で訴えられる。

白秋は北原家の長男であるので、破産した北原家の戸主、父の連帯保証人になっていたため、隠れるように生活していた。

44年(1911)

   2月、経済が行きづまり家具類を売って金をばあやに与えひまを出す。

   6月、第二詩集『思い出』上梓。白秋26歳

 

『思い出』は、生まれ育った九州柳川での日々をつづった序文「わが生ひたち」を載せ、小唄・民謡・童謡などによって柳河の風土や生活が描かれている。

出版記念会の席上で、評論家の上田敏が激賞。

その上「わが生ひたち」には「落涙した」とまで言い、「筑後柳河の詩人北原白秋を崇拝する」と結んだ。

一躍詩壇の寵児となった。

45年(1912)

   2月、母と妹家子が上京し冬には父も上京し、一家は債務を残したまま

    故郷柳川を棄てた。

   7月、福島俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ケ谷の未決監に拘置される。

 

後日、白秋は小人の罠にはまった、と書いているが、白秋の名声をあらかじめ計算に入れていた俊子の夫が、法的には離婚未だ成立せず、という一項を盾に、45年、白秋を姦通罪で訴えた。

弟鉄雄の奔走により、示談が成立し、2週間後に出所。

しかし、世間の激しい指弾を受け、それ以上に罪の意識に苦しみ、しばらくは狂気寸前の錯乱状態にあった。

この事件の後、今までの半ば趣味的な享楽情緒をかなぐり棄て、人間の真実を求めてさまよい歩く心の巡礼者のようになった。

雑誌『ザムボア』に「身を斬られるほど恥かしい」事件と記している。

大正

 2年(1913)1月2日、死のうと思って三浦岬に行く。

 

この時の心境を2月発行の『ザムボア』の「余録」に書いている。

「どんなに突きつめても死ねなかった、死ぬにはあまりに空が青く日光があまりに又眩しかった。しかして知己の人や素朴な赤鼻の留じいさんと雲雀を追っかけたり、裏の段々畑で枯草を焼いたり、おかしなトンガリ山に寝転びに行ったりしているうちに、いつのまにか昔の無邪気なトンカジョン時代の心持にかえった。死のうとまで突きつめた心ももう夢のように消えてしまったのである。」

  1月、処女歌集『桐の花』刊行。

 

挫折をバネに大きく育とうとしていた白秋は、それまでの頽廃的な気分や享楽的な情緒を捨て、人間の赤裸々な姿へと移行していった。

  4月、福島俊子と結婚。

 

三浦三崎で両親、弟、妹たちと共に生活をはじめる。

父と弟鉄雄は魚類仲買業を始めるが失敗、9月には帰京する。

白秋と俊子は翌年2月まで見桃寺(けんとうじ)に寄寓。

仏教思想に接近していく。

      7月、詩集『東京景物詩』刊行。(「片恋」所収)

 
「片恋」の詩に團伊玖磨が作曲して歌の題を「舟歌」に変えている。(ピンク音符あかしやの金と赤とが散るぞえな…)

    島村抱月の依頼で「城ケ島の雨」を作詞。ピンク音符雨はふるふる城ヶ島の磯に…)

 3年(1914)、妻俊子の病気(結核)療養のため小笠原父島に渡る。

 

この半年の島の生活は芸術境に大きな転換をもたらした。

結核患者が白眼視される小笠原での生活は苦しく、俊子は6月に帰る。

白秋は少し後まで残り、強烈な法悦に浸され、飛躍的な新境地を得た。

『地上巡礼』の「島から帰って」の一文

 

「私の霊は益洗礼され、私の肉体は益健康になった。海中にもよく潜った、山にもよく登った、しかして大きな蝦を突き、蛸を捕り、カヌーを走らせ、珊瑚を拾い、正覚坊とも遊び、黒坊や白人の子にもよく親しんだ。私はそこで大きなトンカジョンで通したのである。

…中略… 父島滞留の半年がどれほど私を赤裸々にし人間らしく大胆に純一に真実にさしてくれたか、それは私の近作を見てくださったらわかる事と思う。

何事も仇ではなかった。禍が禍ではなかった。

この1.2年間の甚大な心霊の苦しみが今こそ私に一点の白金光を与えてくれたのである。

沈下し尽くして、底から燦々と光りだした光明である。もう大丈夫だ。私は歓喜に目がくらみそうに覚える、燕麦にも後光がさす、人間が光らずにいられるはずがない。」

 

ここでの生活を歌った歌「びいでびいで」「夏の宵月」「仏草花」「関守」などが11年に発行される 民謡集『日本の笛』に所収されている。

平井康三郎が曲をつけ、詩集と同じ題『日本の笛』という組曲にしている。

  7月、帰京し、俊子と離婚。

 

本土に戻った白秋を待っていたのはいやしがたい両親と妻との不和。

「我深く妻を憐れめども妻のために道を棄て、己を棄つる能わず。真実二途なし。すなわち心を決して相別る。」(『雀の卵」)

 4年(1915)、弟と共に阿蘭陀書房(後のアルス)創立。芸術雑誌『アルス』創刊。

 5年(1916)、二度目の妻、江口章子(あやこ)と結婚。

    千葉県葛飾郡真間(現市川市真間)に移り住む。

    葛飾で窮乏生活に耐えながら住居も転々とする。

 7年(1918)

   3月、神奈川県小田原町(現小田原市)お花畑に転居。

    (このお花畑は、もと大久保藩の薬草園のあった所で、海岸よりのしずかな別荘地)

   7月、鈴木三重吉が雑誌『赤い鳥』を創刊するに当って童謡面を担当し、以後

    創作童謡に新分野を開く。

 

ここで多くの後進を育成したことは特筆。

余田準一・巽聖歌・小林純一・佐藤義美・まどみちお等々。

    章子の病気療養のため、小田原に移る。

 8年(1919)、小田原の伝肇寺 (でんじょうじ) のかたわらに、萱屋根の<木兎 (みみずく) 

    家>と書斎を建てる。

   9月、『白秋小唄集』(「城ヶ島の雨」所収)

  10月、『とんぼの眼玉』刊行。

 

このころから夫婦仲はよくなかったようで、白秋の日記に少し書かれている。

「1月14日、朝、章子病気とかにて起きず、少々不快になる。お互いにうちとけず、冷たきうどんに醤油をかけて食う。

…略… 11時半帰ると、章子不機嫌、いつものことながら神経の強いのには弱る。6時頃まで寝かされず、実に不快千万なり。今日も勉強せず。

1月15日、朝からチラチラと雪ふる日。相変わらず、不愉快、朝より章子との間わるし。

バケツに水を汲んできたが、手ぬぐいを取ってくれないので、癇癪を起こして水をあけてしまう。寒し。」

 

章子は病弱だったため、お寺の井戸のポンプから水をバケツに汲んで運ぶのは白秋の役目だった。章子は感情の起伏が激しく、ヒステリックな面があったようだ。

 9年(1920)、江口章子と離婚。

10年(1921)

   1月、山本鼎・片山伸と雑誌『芸術自由教育』を創刊。

   4月、佐藤菊子と結婚。2児を得て童謡の創作が旺盛になる。

    (「赤い鳥小鳥」・「あわて床屋」・「兎の電報」・「ちんちん千鳥」・「かやの木山の」・

     「からたちの花」・「ペチカ」「揺籃のうた」など)

 

三好達治は「僕は白秋では童謡が一番すぐれていると思う。一番永遠性のあるものだと思う。」と語っている。

    5月、『兎の電報』

    8月、歌集『雀の卵』

   12月、翻訳童謡集 『まざあ・ぐうす』を刊行。

 

菊子は、章子と正反対で、体も丈夫だったが、たとえ熱があって自分の体の具合が悪くても、白秋に水汲みになど行かせない、家事は自分で這いつくばってでもやりとげるような女性。

詩人白秋を敬うあつい心と、白秋の引きずっていた母性への渇きをすっぽりと包み温かく潤す、大いなる母性を持っていた。

白秋はわがまま、自己中心、感興のおもむくままの行動(いったん出かけると何日も帰らないことがあった)だったが、普通の家庭ではなく、「詩人の家庭」なのだから、自由でのびのびとして、創造性に満ちていることが大切で、そのためにはその折々の気分、感興が大切。だから、「機嫌がいい」という状態で仕事ができるように、と気配りをした。

11年(1922)

   4月、民謡集『日本の笛』刊行。

   9月、山田耕筰と雑誌『詩と音楽』を創刊。

12年(1923)

   6月、詩集『水墨集』刊行。(「落葉松」所収 ピンク音符からまつのはやしをすぎて…

13年(1924)

   4月、短歌雑誌『日光』を創刊。主宰。歌壇に新風を巻き起こす。

14年(1925)、童謡集『子供の村』刊行。

   8月、北海道樺太に旅行。

15年(1926)

   6月、童謡集『からたちの花』刊行

   9月、童謡集『象の子』刊行

昭和

   4年(1929)

   6月、童謡集『月と胡桃』刊行。

   8月、詩集『海豹と雲』刊行

 8年(1933)

   4月、鈴木三重吉と絶交し『赤い鳥』から手を引く。

12年(1937)

  10月、糖尿病、腎臓病による眼底出血による視力異常

15年(1940)

   8月、歌集『黒檜』

  10月、詩集『新頌』

17年(1942)

   2月、病状悪化で入院。

   4月、退院。

   7月、童謡集『朝の幼稚園』刊行。

    歌集『渓流唱』・『つるばみ』の編集終える→翌年刊行

  10月、ますます悪化

  11月2日早朝、死去。

 

 

24年(1949)、<城ヶ島の歌碑> 建立。

 

ブルー音符ブルー音符ブルー音符

藤田圭雄の『東京童謡散歩』によると、白秋の童謡は総数1300篇にもなり、その中で約400篇にメロディーがつけられ、しかもその中には一つの童謡(詩)に4人も5人も作曲されているものもある、という。

 3人以上が作曲している曲は30曲。(『揺篭のうた』他)

 4人以上の曲は9曲。(『あわて床屋』『砂山』他)

 5人以上の曲は5曲。

 6人以上の曲は2曲。(『ちんちん千鳥』他)

「落葉松」の歌などは、声を出して読むなと白秋が書いているにもかかわらず、9人が作曲しているとか。

 

とにかくこれほどに愛された詩人は世界中にも白秋一人であろうと思われます。

 

 

やっぱり歌曲ってすてき!

の。