日本で最初の歌曲を作り、歌曲の基礎となった大事な人なので、年譜を載せておきます。

読んでいくだけで廉太郎の歩んだ道が見えてきますから、眺めてください。

 

まずは、背景を知るうえで、廉太郎の父親の話から。

 

瀧家初代俊吉は紀州の人であったが、青年の頃江戸に出ていた時、乱暴者をしずめた振る舞いが日出藩の初代藩主木下延俊に認められ、召し抱えられる事になった。

瀧廉太郎の祖父にあたる瀧吉惇(よしあつ)は非常に実直な人柄で、家老職に抜擢され長くその職にあった。

5男2女をもうけたがその中の5男が廉太郎の父、吉弘。

吉弘の兄が27才の若さで他界し、その嫡子大吉が幼年であったため、瀧家の家督を相続し11代の家名を継いだ。

大吉は吉弘の家にひきとられ、養育された。

明治維新で廃藩置県が行われ、日出藩が日出県と改った。

16代藩主木下俊愿(としまさ)が知事(知藩事)となり、吉弘は権大参事に任ぜられ、翌年大参事に昇任し政務にたずさわった。

明治5年(1872)吉弘は意を決して上京、秋田県七等出仕を振出しに明治7年(1874)には大蔵省に勤めたが、まもなく内務省に転じ、大久保利通の秘書、のちに伊藤博文の秘書となる。 

この頃廉太郎生まれる。

温厚な人柄を非常に愛され、信任が厚かった。

大久保が暗殺された後、伊藤博文の知遇を得、往復課長(文書処理に関する業務が集約された課の長)となったが程なく本省を出て神奈川県書記官を勤めた。

後、富山県書記官を最後に官職を止め、東京に帰り日を送っていた。

友人の勧めで、明治22年3月大分県大分郡の郡長となる。

明治24年11月大分県直入郡郡長に転じ、

明治28年9月まで満4年間竹田の官舎で過ごす。

 

 

  瀧 廉太郎 年譜  (1879~1903)

明治

12年8月24日、東京市芝区南佐久間町、旧佐伯藩主毛利高謙(たかあき)の江戸上屋

     敷の侍長屋で誕生。(今の港区新橋二丁目六番地付近。)

     当時父は内務省の一等属官で、明治の大政治家、伊藤博文のもとで手腕を

     振るっていた。

19年5月、横浜で小学校に入学したと思われる。

   8月29日付けで父は富山県書記官に任ぜられ横浜を去り富山へ。

20年5月、富山県師範学校男子部附属小学校(現富山大学教育学部附属小学校)

     尋常科一年生に転入。

 

昭和53年に瀧の在富を記念して独楽(こま)を手にした瀧廉太郎少年像が建立されている。

21年5月、父の転任のため東京へ戻る。

     しかし転任先はなく、辞令は「非職ヲ命ス」であった。

     麹町上二番町二番地に落ち着き、麹町小学校尋常科第三学年に転入。

22年3月14日付けで、父が大分県の大分郡長に任命され、家族は大分へ。

     廉太郎は年老いた祖母や病気の姉とともに東京に残る。

23年3月に祖母、5月には胸を病んでいた姉、リエが21歳で他界。

     祖母の葬儀の後、4月になって廉太郎は大分の両親の元に帰る。

   5月、大分県尋常師範学校附属小学校(現大分大学教育学部附属小学校)

     高等科一年生に入学。

 

この学校は、現在大分県庁のビルが建っている所にあって、それを記念するために「大分県教育発祥之地」の石碑が建っている。ここでの生活は一年半だった。

24年11月27日付けで、父が大分県直入郡長を命じられたことから、一家は山奥

     の竹田の町に移る。

 

ここでの官舎は、旧岡藩士岩瀬家の邸宅で、ここに8人が住んだ。

その後、個人所有となり、老朽化が進み、平成2年竹田市が買いあげて解体復元、昔の面影そのままに現在は、「瀧廉太郎記念館」として残されている。

25年1月、直入郡高等小学校二年生に転入。

26年5月、大分県尋常師範学校を前年に卒業したばかりの新進の青年教師、

     後藤由男が着任し、廉太郎を受け持つ。

 

このころ、廉太郎は、こま回しとカルタ取りが得意だった。

独楽の綱渡りを見せては友人達の目を見張らせたという。

たび重なる転校で、これまで親しい友人に恵まれなかった廉太郎だったが、竹田では多くの友人を得た。

廉太郎の竹田時代のエピソードの多くは、この友人達によって、語り伝えられたものという。

絵も相当巧かったと言われている。絵はあまり残っていない模様。

ヴァイオリン・ハーモニカ・アコーディオン・尺八も非常に巧かった。

成績は常に上位で、毎年学年末には「品行方正学術優秀」の賞状をもらっていた。

近視がこの時代からひどかったらしく、優等生は教室の後に座る前例を破って、最前に席をとっていたという。

音楽への道を志したが、父の反対は大きかった。

武士中心の伝統的な教育の中で育った吉弘は、廉太郎が音楽の道に進むことを当然反対した。

当時音楽は婦女子のすることで、男子一生の仕事に非らず、しかも家老の家柄の後継者がこのような道に進むなど、と反対したが、従兄の大吉は非常に理解があり、目も悪いのだし(極度の近視眼で、このころはまだ眼鏡をしていなかったが、学校では教室の最前列に座り、石盤に顔をこすりつけるようにして文字を書いていたという)好きな道に進ませてやれと勧めたので父も許可した。

音楽師になり損ねたら役者になるという廉太郎の固い決意を知り、大吉の説得もあり身体理由も加わって、許された。

廉太郎の通っていた小学校は、当時県下でも数少ないオルガンがあった上に、その高等小学校で唯一オルガンを弾ける先生とめぐり会った廉太郎は、父に許可された後は後藤先生について、正式にオルガンの勉強を始めた。

ブルー音符ブルー音符

音楽師って言葉がとても新鮮!

<音楽家>も<声楽家>という言葉も私は嫌い。大家でもあるまいに<家>という言葉はおごっているようでとても嫌で、私はいつも声楽家とは言わず<歌うたいです>とか<ソプラノ歌手です>と言ってました。

27年4月、直入郡高等小学校卒業。

   5月、上京。麹町の大吉の家に身を寄せる。

     小山作之助の主宰する「芝唱歌会」に入会し音楽学校の受験準備をする。

 

当時東京では洋楽の愛好者が非常な勢いで多くなりつつあった。

音楽塾も多くでき、<何々唱歌会>と称していた。

その主な塾に、当時東京音楽学校教官、小山作之助が明治20年以来東京芝区愛宕町で開いていた「芝唱歌会」があり、神田区裏猿楽町尚絅(しょうけい)小学校内に明治19年以来、鳥居忱、上眞行、辻則承、奥好義らが教えた「音楽唱歌会」、神田今川小路で鳥居忱が開いた「東京唱歌会」、牛込神楽坂の「唱歌会」等があった。

その中で「芝唱歌会」が最も有名で、明治40年ころまで続き、勢力があった。

小山作之助は瀧の天分をみとめ、懇切に指導した。

小山は「夏は来ぬピンク音符卯の花の匂う…)」や「敵は幾万ピンク音符敵は幾万ありとても…)」などの作曲で有名。

   9月、高等師範学校附属音楽学校予科に仮入学する。

 

24年、帝国議会で音楽学校の予算が議題に上り、その後音楽学校存廃論にまで発展、論議議会にとどまらず、音楽学校関係者、教育者を巻き込んで、新聞雑誌など言論界にまで波及、二ヶ月に及ぶ大問題となったが、かろうじて学校の廃止は免れた。

しかし26年、日清間の緊張が高まってきたとき、戦費調達のための財政緊縮政策のあおりを受け、音楽学校は、東京高等師範学校の附属となった。

その後32年に高等師範学校より独立、東京音楽学校と改称。

昭和24年6月、東京芸術大学開設。

東京音楽学校は昭和27年3月、最後の卒業生を出し、自然廃校。

  12月、本入学となる。

28年7月、予科終了。脚気療養のため大分に帰郷。

   9月、本科専修部へ進む。

 

音楽学校時代、百人一首をするのに、5人を向こうに回して必ず勝ったと言われている。

テニスも得意だったようで、頭のよさ、すばしっこさが想像される。

28年頃はテニスが輸入され、音楽学校内でも流行し、廉太郎は熱中した。

器用な上に熱心であったから腕はめきめきと上達して、校庭の花形となった。

幸田幸もその内に仲間入りし、「どうして球を打つのか、またどういう規則なのか、いたってあやふやなもので、ラケットを羽子板と心得、球は羽根のつもりでふわりふわりとやったものです」と当時を回想している。  (幸田幸は幸田露伴の妹で、結婚して後に安藤幸になる。バイオリニスト)

瀧は後にはフロックコートを着たままテニスをやり、女生徒は日本髪に着物で、袴などは勿論なく、帯はお太鼓に締めて、ラケットを握ったのであるから、今から考えれば奇妙な風景が展開されたのである。

「学校の学科は勉強すればできるのが当前である。勉強しないでできるのが天才である」などと遊ぶことの自己弁護をしながら熱中した。

「ただ、困ったことに昼休みはまだいいとして、放課後に瀧さんたち男子生徒とテニスする事は、男女七歳にして席を同じうせず式な規則がまだあるので、普通には御法度になっていることだった。そこで一策を案じ、姉を仲間に入れて残した。つまり、教授の姉が監督するという名目を作って、夕刻球が見えなくなるまで安心して遊びました。」と幸田幸は追懐している。

  (幸田の姉は幸田延(のぶ)で6年半の留学を終え帰国し、ピアノ教授になり、瀧廉太郎・三浦環・本居長世・

   山田耕筰などを育てた。)

29年9月、専修部2年生。

31年7月、高等師範学校付属音楽学校本科専修部を首席で卒業、

     総代として謝辞を朗読。

   9月、研究科入学。

32年9月、研究科2年になり、音楽学校ピアノ授業嘱託となる。

33年3月、音楽学校、瀧を外国留学生として文部省に上申。

   6月、ドイツ留学の命が下る

     「ピアノ及作曲研究ノ為満三年間の独国ヘ留学ヲ命ス」

   9月、研究科三年生。留学出発延期願を提出。

 

外国にこれが日本の歌だと誇れるものを持っていこうと考えて組曲『四季』を作曲し始める。

  10月、ピアノ曲「メヌエット」作曲。

     麹町区の博愛教会という聖公会の教会にて洗礼を受ける。

 

当時は文学に携わる人たちも音楽に関係する人たちも、西洋のものを理解、勉強するためには、まず精神的なもの、宗教から、と入信する人が多かった。

  11月、組曲『四季』を共益商社楽器店より出版。

        (「花」「納涼」「月」「雪」の4曲所収)

34年3月、音楽学校蔵版『中学唱歌』出版される。

        (「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」所収)

   3月31日、学友会主催の留学送別会・演奏会が開かれる。

 

演奏会で、「花」「荒城の月」「箱根八里」が演奏され、自らもピアノを独奏する。

   4月6日、日本の音楽家3人目としてドイツに向けて横浜港を出発。

   5月18日、ベルリン着。

   6月、ライプチッヒ着。フェルディナンド・ローデ通りの下宿屋に落ちつく。

  10月1日、ライプチッヒ王立音楽院を受験し、合格。

  11月末、オペラを見に行き感冒にかかり、病状はこじれてなかなか快方に向か

               わなかった。 (ライプチッヒは北海道より北にあたり、極めて寒い)

     肺結核に侵されていることがわかりライプチッヒ大学付属病院に入院。

     翌年3月まで休学の手続きを取る。

35年7月4日、ドイツ駐在公使、本国に瀧の帰国申請を行う。

         9日、帰国命令が発せられる。

   8月24日、「若狭丸」にてアントワープを出港。

     その日のうちにロンドン郊外チルベリー・ドッグに到着。

 

5日間の停泊中に、土井晩翠の見舞いを受ける。最初で最後の出会いであった。

  10月17日、横浜港に帰着。大吉宅で療養。

  11月21日、廉太郎のよき理解者だった大吉が突然脳溢血で倒れ、23日他界

      する。妻タミは廉太郎の体を心配し、葬儀にも列席させず、大分の父母

      のもとに出発させた。

  11月24日、大分に帰着、両親の元で療養。

  12月29日、「荒磯の波」を作曲。

36年2月14日、絶筆となったピアノ曲「憾(うらみ)」を作曲。

   6月29日、午後5時、死去。廉太郎23歳10か月。

 

結核に感染していたことから、多くの作品は死後に焼却処分されたという。

毎年6月29日の命日には追悼祭が、秋には記念音楽祭が開催されている。

 

墓は大分市の万寿寺にある。

37年には東京音楽学校の同窓会有志を代表して田村虎蔵が「嗚呼天才之音楽家瀧廉太郎君之碑」を墓側に建てた。

田村は「青葉の笛(ピンク音符一の谷の軍破れ…)」「一寸法師ピンク音符ユビニタリナイ…)」「きんたろうピンク音符マサカリカツイデ…)」「大国さまピンク音符おおきなふくろをかたに…)」「はなさかじじいピンク音符うらのはたけで…)」など多くの童謡を作曲している。当時は音楽学校の教授をしていた。

 

 

  『明治音楽史考』より

 「本来彼は病身ではなかった。相当運動もよくやっていた。テニスが上手で、美術学校との対校仕合(ママ)などでは、フロックコートに白ズボンをはき、颯爽として出場し、フロックコートの裾を翻す所が、当時大変な人気であったそうだ。散歩は大好きでよく歩いていた。決して病弱ではなかったのである。不幸にして留学中病に冒されたのは、明治音楽史上眞に残念なことであった。

病床にあった瀧へ、留学中の学費として金百円が追給され、4月8日に本人宛送金されたのは、母校の厚い見舞金であった。」

 

と『明治音楽史考』には書かれています。

 

 

ブルー音符ブルー音符ブルー音符

本当に、留学などせずに日本で作曲を続けてくれていたらどれほどにか歌曲の世界に貢献しただろうと惜しまれます。

「荒城の月」にしても「花」「月(後に山田耕筰によって秋の月と題が変えられたピンク音符光はいつも変わらぬものを…)」「お正月ピンク音符もういくつ寝ると…)」などどれを見ても未だに歌って時代の違和感のない素晴らしい歌かと思います。

100年以上も前の歌が色褪せることのなく感動できるなんて、瀧の才能が突出していたことを物語っています。

 

 

やっぱり歌曲ってすてき!

の。