荒 城 月

      第一章

   春高楼の花の宴

     めぐる盃かげさして

       千代の松が枝わけいでし

         むかしの光 いまいづこ

      第二章

   秋陣營の霜の色

     鳴きゆく雁の數見せて

       植うるつるぎに照りそひし

         むかしの光 いまいづこ

      第三章

   今荒城のよはの月

     替らぬ光たがためぞ

       垣に残るはたゝかつら

         松に歌ふはたゝあらし

      第四章

   天上影は替らねど

     榮枯は移る世の姿

       寫さんとてか今もなほ

         鳴呼荒城のよはの月

 

 

  詩の意味と考察

第一章

花見の宴が高楼で盛大に行われて、さぞかし華やかであったであろうと偲びます。

「めぐる盃」は朱塗りの大きな盃が<めぐる>のですから、たくさんの武士たちがそこに集っていたことを想像させます。 

その盃に注がれたお酒に「かげさして」です。 

かげは光のことですから、盃の中に月の光が映っているのです。 

その月光は、千代の松が枝、千年も続いた立派な松の枝から差し込んでいるのです。

美しいですね。

 

第二章

陣営に集まっている武士たちはみんな甲冑(かっちゅう)に身を包んでいます。

甲冑は動くとカシャッと音がしますが、この詩からはそんな音を感じさせない雰囲気があります。

誰も身じろぎ一つしないで戦いの始まりを待つ静けさが感じられます。

空を見上げると月が煌々と光り、飛びゆく雁の数が数えられるほど冴え渡っているのです。

そして「植うる剣」をどう解釈するかが一番の悩みどころですが、たとえばつわ者たちが勢ぞろいして白刃を共に抜き、時の声をあげた、とするとかなりな動きやざわめきがあるはずですが、この詩にはそのざわめきは感じられません。

先ほど書いたように静まり返った静寂が感じられる詩です。

 

土井晩翠の育った仙台に晩翠のことを調べる顕彰会があるのですが、そこが発行している本によりますと、城の中に入り込んで来る敵のために、落とし穴を掘り、敵が落ちると刺さって死ぬように穴の下に剣(つるぎ)を逆さまに刺しておくのだそうです。

それが地面の下の方で不気味に青白く光っている、という風景だそうです。

確かに、戦いの始まる前の不気味な静けさ、というのが感じられて凄味があります。

 

そして、一章・二章合わせて、饗宴の場にも陣営の場にも、月は煌々と照りはえていたであろうか…と栄えた頃の姿を想像しているのです。

 

第三章

晩翠の故郷、仙台にある青葉城を目の前にして、城は明治になって壊されてしまったけれど、垣に残っているかつらだけは昔のままだと、感慨を歌っています。

晩翠は「3番は目の前の城の実況中継です」と後に話していますが、青葉城には松はありません。 

ですから「垣に残るはたゞかつら」は実況中継ですが、その後の「松に歌うはたゞあらし」は詩人晩翠の想像の世界です。

 

第四章

スケールが大きくなって「天上影はかわらねど」と歌いますが、大空ではなく「天上」という言葉に世界中を包むスケールが感じられます。 

影は光のことですから、夜空から月の光が地上の全てを包むように、光が満ち満ちているのです。 

そして地上で繰り広げられる栄枯盛衰の物語をずっと見てきて、これからも変わらず見下ろしていくことであろう、と壮大に歌うのです。

 

ブルー音符ブルー音符ブルー音符

詩人の高村光太郎が 

「一面優美、一面悲涼の感があって簡潔で要を得たみごとな出来栄えと思われます。名作の名に恥じません」

と述べているように、本当に素晴らしく、感無量の思いを引き起こさせる詩だと思います。  

明治になって没落した武士の象徴である<城>に深い思いをこめ、世の無常感を見事に歌っています。  

 

 

  『中学唱歌』 に入れられた歌

「荒城の月」は、瀧が22歳、まだ研究生の時に作曲されたもので『中学唱歌』という本の中に入れられています。

この本は、懸賞募集したものを集めて作られていて、明治34年3月、瀧が通っていた東京音楽学校が、中学校用の教科書として出版したものです。

下のような楽譜です。

横11㎝、縦15㎝、厚み1cmの長方形で、表紙はえび茶色をしています。

本文は二つに分けられていて、1ページから59ページまで歌詞が掲載され、後半分に譜面を集めて載せているのですが、59ページの次は60ページ、とはならず、また1ページになって47ページまでという少し変わった本になっています。

最初に載せた詩は、この『中学唱歌』に載っているそのままをうつしています。

 

東京音楽学校は明治32年に東京師範学校から独立したばかりでしたので、初めての仕事として、この『中学唱歌』の制作には力を入れたようです。

当時の曲は、スコットランドなど北欧の民謡曲などに日本の歌詞を当てはめたものが多かったことから、音楽学校が中心になって、<詩>と<曲>を一般から懸賞募集したり、あるいは、有名だった土井晩翠、島崎藤村などに「新しい日本の詩を書いてほしい」と依頼するなど、広範囲の人たちの作品を求めました。

一般に公募された<曲>は、1人3曲以内で、当選者には、1曲につき5円の賞金が与えられたといわれます。

専門家の百余編と、一般公募の百余編の合わせて二百編余が集まり、その中から38編が選定されて、『中学唱歌』の名前で出版されたのです。

 

『中学唱歌』には、序にあたる「例言」をかかげて、そのいきさつを次のように述べています。

  本校さきに是種の唱歌集編纂の必要を認むるや、広く世の文学家、教育者、

  並びに音楽家に委嘱して作歌・作曲せしめ、歳月を経て一百有余種を得たり

  しが、尚その足らざるを補はむが為に、更に同一の方法によりあまねく材料

  を内外に求め、新に又一百有余種を集め得たり。ここに於て選定委員を設け、

  前後合わせて得たるものゝ中、現今中学校生徒の実状に参照して、最も適切

  なるべきもの三十八種を精選せしめたるが則ち本編なり

 

『中学唱歌』に掲載された38曲のうち瀧の作品は3曲で、このなかの1曲が「荒城の月」です。

 

瀧は、ほかにも「箱根八里」と「豊太閤」を応募したのですが、3曲すべてが採用され、15円の賞金を手にしました。

当時、小学校教員の初任給は、月額10円から13円だったようですから、かなりの大金だったわけです。

 

ただ、瀧の応募曲数が3曲だったという話には異論もあって、明治唱歌の研究書の『明治音楽史考』では、瀧の作品はこの3曲だけではなく、もう1曲選ばれた、としていますが、「一人3種(曲)」という規定があったため、3曲だけ提出した、という説もあります。

いずれにしても、賞金をもらった瀧は大喜びで、早速、友人たちにおしるこをごちそうしたり、下宿で世話になっている義姉(叔父大吉の妻タミ)に、木の盥(たらい)を、大分の母には丸髷(まるまげ)の髱(つと)を、妹には白牲丹の髪飾りを贈った、といわれています。

彼のやさしい人柄がしのばれるお話です。

 

『中学唱歌』が出版されたその一週間後の4月6日に瀧はドイツへ留学のため出発します。

あわただしい中で初版本を手にした瀧は、感無量の面もちだった、といいます。

 

 

  詩の誕生

詩は、「荒城月」となって載っています。

曲は、「荒城の月」となっています。

土井晩翠が明治31年東京音楽学校から依頼されて作詞した詩を、瀧が作曲に応募するため題材をさがしていた時見つけて作曲したといわれていますが、土井の評伝の『土井晩翠 -栄光とその生涯』には、瀧が土井に作詩を依頼した、という興味深い話が載っています。

それは、

  滝廉太郎が東京音楽学校の本科生であったころ、高知県から林八枝(のちの晩翠

  夫人)が明治26年に東京音楽学校予科(ピアノ科)に入学して瀧を知った。

  同じころ仙台の東北学院中学の英語教師を辞して東京に帰った島崎藤村もまた東

  京音楽学校のピアノ選科に通ってお互いに知り合った。

  このとき藤村は東京音楽学校の『中学唱歌』の編集委員を兼ねていた。

  晩翠は瀧を通じて、新編『中学唱歌』の課題曲「古城の月」の作詞を当てられ 

  た。これに応じて「荒城の月」と表題を改めた。

  直接依頼者は島崎藤村であるが、間接的には瀧廉太郎と親しい林八枝の実兄

  林並樹が東大英文科で晩翠の一年下級である事なども「荒城の月」が生まれ

  出る結び目である。

という主旨の内容です。

瀧が、学校でピアノを教えていた林八枝という女性の兄が、東京大学で晩翠の後輩にあたる縁から、晩翠に「古城の月」の詩の依頼をした、というのです。

しかも、課題曲であったとも書いています。

 

瀧が、晩翠の詩に作曲したくて依頼したのか、学校の掲示板に貼られていた晩翠の詩に感動して作曲したのか、真相が知りたいところです。

 

ちなみに余談ですが、八枝は、東大教授の国文学者、芳賀矢一の媒酌で晩翠と結婚しています。

また、島崎藤村は『若菜集』を出した次の年の明治31年に、ピアノが勉強したくて東京音楽学校選科に入学しています。

 

 

  モデルのお城は三つ

〇会津若松城(鶴ケ城)

土井晩翠は詩を書くときに、まずまぶたに思い浮かべたのは会津若松(福島県)の鶴ケ城だった、と回想しています。

戊辰戦争で白虎隊の少年たちが自刃した悲劇で有名な城ですが、城は武士にとっての象徴で、その城を守るために武士は戦うのです。

会津若松城が燃えている…、城が落ちた、と思い込んだ白虎隊の若い少年戦士たちが、小高い山の上で全員自刃したり、お互い刺し違えたりして果てたという悲しいお話に感動した晩翠は、その心をこの詩に込めました。

晩翠が仙台にある今の東北大学の前身、旧制の第二高等学校の時に訪れた城です。

 

〇青葉城

晩翠の育った仙台には明治になって取り壊された仙台青葉城があります。

「垣に残るはただかつら……」というくだりは、青葉城の荒廃した城跡を目の前にした姿そのまま、実況中継です、と書いています。

 

〇竹田城(岡城)

瀧廉太郎がこの詩を読んで、想い浮かべたのは、子供の頃過ごした九州の竹田にある竹田城あるいは岡城と呼ばれている城です。 

瀧家は、豊後(大分県)の、別府湾に面した城下町、日出(ひじ)の人です。

日出は、おさかなの「城下鰈(しろしたかれい)」で、知られているところです。

日出城はいまは石垣だけが残っています。

瀧家は代々、日出城の家老で、祖父や先祖の墓が城近くの寺にあったことから、瀧は父親に連れられて、よく墓参りに行ったといわれています。

竹田城(岡城)も天守閣など建物はなく、今は石垣だけが残る荒城です。

戦国期以来、摂津(大阪)中川氏七万石の城で、JR豊後竹田の駅から東の山上に築かれた、「月見櫓」のある三層の城でした。

この荒れた城の風景は、瀧の心の奥深くに、もの哀しいもののふの栄華の跡として、印象づけられていたようです。

とくに岡城跡は、瀧が「荒城の月」を作曲する時に、まぶたに描いた城、といわれています。

岡城は大変な山城です。 

高い山の頂上を削って台地にしたのを想像してください。  

とても急な石垣の階段を上って天守閣が建っていた跡につくと、さえぎるものが何もなく、見渡す限り空。町はずっと下です。

九州の空は暖かく、抜けるように青いのです。そこに寝転がったりしたらもう空の中にいるようです。

廉太郎はこのお城が好きで、よく友達と登っては尺八を吹いたりして遊んだと言います。 

その思い出をメロディーにしました。

 

ブルー音符ブルー音符ブルー音符

このように、瀧も晩翠も、幼さないころから、城を身近に見て育ったのです。

二人が荒廃した城に見たものは、「荒城の月」の曲と詩から想像の翼を広げる以外に方法はありませんが、これらの城にいえることは、いずれも、明治時代になるまでは、天守閣など建物が空にそびえる堂々たる城だったことです。

ところが、明治になって日本の近代化とともに、城がこわされたのです。

ですから、晩翠の詩にも、瀧の曲にも、かつて華やかだった武士時代への郷愁と、武士がなくなり、時代が変化したものわびしさが漂っています。

歌詩の、「天上影は替らねど栄枯は移る世の姿」などは、没落した武士の象徴である「城」に思いを深くこめ、世の無常感を見事に歌っています。

瀧も武士階級の出身ですから、晩翠の詩を見た時、城の荒廃に胸を痛め、哀傷や挽歌の気持ちを抱いて、作曲したにちがいありません。

 

 

  曲について考察

『中学唱歌』はすべてメロディだけが載せられている本で、当然「荒城の月」もメロディーラインだけです。

この写真のように、昔の楽譜はカタカナとひらかなとを交互に書いて、わかりやすくしていたようです。

ただひらかなの方は旧字体があったりで読みにくいでしょうけど。

 

後に、その伴奏のついてない「荒城の月」の歌に、伴奏部分をつけた方が歌いやすいだろうと作曲家の山田耕筰が考え伴奏のある譜面を作ったのでしたが、瀧が書いたものから色々変えてしまっています。

現在、多くの人が歌ったり、耳にしている歌は、ほとんどが山田耕筰の編曲したものです。

 

瀧の作曲したものは、「4分の4拍子」で、8分音符で書かれ、全部で8小節です。

テンポは「アンダンテ(ゆっくり歩くような速さで)」となっています。

 

ところが、山田は、拍子は同じでも、8分音符を倍の4分音符に変えて、瀧の曲にはなかった前奏と後奏をつけて、全部で24小節にしています。

 

そして、テンポは「レント(おそく)」にし、曲想表示も「ドロローソ エ カンタービレ(悲しく歌うように)」を加えて、重々しく変えています。

調子も、瀧のロ短調からニ短調へと高くし、一番の「花の宴」の「え」の音からシャープ(半音上)を取り除いています。

「千代の松が枝」のところは、瀧のは「千代の」が全部8分音符、「まつがえ」の「つ」が付点音符になっています。つまり、「ちよのまつーがえ」になります。

それに比べて、山田のは「千代の」の「ち」が付点音符、「まつがえ」の方は全部4分音符に、「ちーよのまつがえ」と、変えています。

 

歌い方として、瀧は歌い出しにメゾフォルテ(やや強く)と指定しているのですが、山田はピアノ(弱く)で歌い出し、メゾフォルテ(やや強く)からフォルテ(強く)へ、そして「昔の光」からはピアノ、最後はピアニッシモ(ごく弱く)で終わるように、と細かく指示を書いています。

 

このようにあちこち変えていますが、演奏しての最大の違いは、テンポだと思えます。

ほとんど倍に近い速度の違いがあり、イメージが随分ちがってきます。

ですから、瀧の曲を歌うときは、大らかに、でもしみじみと、栄枯盛衰は世のならい、と悟った上での前向きの姿勢で歌うのが大事になります。

山田の方は、倍以上のゆっくりさですから、瀧の生きていた明治の頃をしのんで、明治は遠くなりにけりとばかりに、懐古の心でゆっくりゆっくり歌わせています。

 

ブルー音符ブルー音符ブルー音符

<山田耕筰編曲>と言われますが、私は変えられてしまった <改作> だと思っています。

『人物叢書 瀧廉太郎』の中に「彼のことであるから伴奏を付した楽譜を残したことであろうと思われるが現存していないのは残念である。」の一文がありました。

本当に、メモ書きでも伴奏譜が残されていたなら、山田のイメージ違いの曲が広まらなくてよかったのにと惜しまれます。

メロディーだけでも原曲が残っている以上、瀧の心を感じて、さらりとしたテンポで歌うべきだと思います。

「藤原のり子の日本歌曲の会」が発行している<ゆめの絵楽譜>(ピース:一曲ずつの楽譜)の表紙絵です。

日本画家の畠中光享画伯に描いてもらったものです。

 

  歌の旅

岡城には一度は行かれるといいと思います。特に歌う人は是非お勧めです。

勧める訳は、この岡城に限らず、歌の故郷には一度は足を運んでみると、まず空気だったり風景だったり、詩人が育ち、詩を書いた、メロディーを書いた、その心を感じることができます。

ただ譜面だけを見て歌うのとは大きく心が変ります。

歌に対する姿勢が変ります。

歌の故郷を調べにほとんど日本のあちこちを訪ねましたが、旅して回ったおかげで、本ではわからなかったいろんなことを勉強しました。

中でも、九州の竹田の旅が一番影響を受けて、その後の歌う姿勢が大きく変わりました。

 

岡城への旅

JR豊肥本線の豊後竹田(ぶんごたけた)駅に降りると、ホームの駅名の案内板に「荒城の月」の絵があり、メロディーが流れていて、列車を降りたとたん「ああ、竹田にきたのだなぁ」と、感慨。

バスに乗って駅から東の方へ。約5分で岡城の前に着きました。

岡城のお城に向かう道、急な坂道が始まる所に<史跡岡城阯>と彫りこんだ、見上げるような大きな岩がありました。

古い写真で申し訳ないですが、イメージがわかるかと載せておきます。

その碑を左に見てから、まるで山登りのようなつま先あがりの急な坂道を登りきると、まわりには空をさえぎるものが何一つなく、見渡す限り空。

町はずっと下です。

そこからの見晴らしの、なんとすばらしこと。雄大このうえもありません。

四方に九州の山々が、紺色の優美な峰を重ねています。

その景色のよさは、ひと言ではいいあらわせません。感動で胸がいっぱいでした。

東西に延びる細長い台地の上に建てられた山城なので、城壁の下が断崖絶壁になっていて、四囲のすべてが見通せるのです。

九州の空は暖かく、抜けるように青く、あまりの雄大さに心洗われる思いで、

深呼吸…。

下を見ると、大木のてっぺんばかりが見えるのです。

まさしく難攻不落の城という感じです。

瀧はこのお城が好きで、よく友達と登っては尺八を吹いて聞かせたり寝転がって遊んだと言います。

そこに寝転がったりしたらきっともう空の中にいるようかと思えます。

しばらく歩くと、二の丸跡です。

そこに瀧廉太郎の像が建っています。

腰を掛けて何か考えているような銅像です。

この城跡で、瀧が、心の豊かさを育んだのだ、と考えたとき、はっと気づきました。

「荒城の月」は、山田耕筰のようなテンポでは絶対にありえない、と。

深く青い空、雄大な風景、眼下に見下ろす大きな自然、豪快で暖かい九州の人たちの心、どれを考えても、テンポは2小節で一息(春高楼の花の宴、まで)、さらりと歌うべきだと思います。

美しい景色の城跡だけを歌ってはいけない気がします。

瀧は、「荒城の月」をもっと深い意味をこめて作曲したと考えます。

 

それは、もう一つ大きな理由があって、瀧家は九州の日出藩の家老の家柄だったのですが、父親の代で廃藩置県が行われ、藩が終わり、父親は東京の中央政府、明治政府に勤めるようになりました。

あちこち転勤させられている父親の後姿から、武士階級のなくなった哀感を感じとっていました。 

でも、若い廉太郎には、栄枯盛衰は世の常のことだと思っていましたから、そういう意味でも、さらりと歌う、ねばらない、イメージがあったと思われます。

 

城を降りて、今度は、駅近くにある「瀧廉太郎記念館」へ足をのばしました。

瀧が竹田時代に住んでいた家が記念館になっているのです。

もとは勘定奉行の屋敷だったのですが、その後、郡長が住むための官舎になり、瀧の父親が郡長になったので、一家は明治24年から4年間、住んでいた家です。

戦後は、瀧の熱烈なファンが買い取りましたが、老朽化が進み、平成2年(1990)に竹田市が買い上げて解体、復元し、4年(1992)4月に記念館としてオープンしました。

土壁の上にかわらを葺いた塀と、構えの立派な門があります。

建物は、木造平屋で、ほぼ当時のままに復元されています。

瀧の竹田時代の資料などがそろった記念館です。

私は、駆け足で見学に訪れたのですが、家の中へはいると、一気に明治時代の、瀧が住んでいたころに引き戻されたような気がしました。

瀧を理解する上で、重要な建物です。

 

ほんのしばらくの間でしたが、城跡を歩き、記念館を見学し、瀧の心に触れることができた気がしました。

これまで、楽譜の上で理解していた「荒城の月」が、身近な、よく分かる曲になった岡城散策でした。

 

鶴ケ城への旅

鶴ケ城は広い敷地を持つ城で、昭和40年に再建され、会津市民の憩いの場になっていますので、岡城に比べて、整備され、城内も荒れた感じがありません。

観光客も多いせいでしょうか、城に足を踏み入れても、どこか現代風で、荒城の月のイメージがわいてきません。

けれども、戊辰戦争にまつわる悲劇の数々の物語を思い起こしますと、この城が抱いている哀しみが、一気に胸にわきあがってきます。

たくさんの観光客が記念撮影をしていましたが、私の目には、父や母、恋人と別れて戦い、そして、悲運にも敗走しなければならなくった紅顔の少年の雄々しくもありながら、どこか悲しい姿が浮かびあがってきました。

この城は、少年たちの血にまみれ、そして、深い悲哀の底に沈んでいるのです。

そして、明治になると今度は、城自身が打ち壊されるという、悲しみに遭遇しなければならなくなったのです。

鶴ケ城は、いまもそんな面影を全身にたたえた城でした。

 

青葉城への旅

青葉城は、仙台市内や広瀬川を見下す青葉山に城跡があります。

いまは仙台市民のよい散策の場になってますが、城壁には蔦がからまっていて、独特のおもむきをただよわせていました。

この城も見晴らしがよく、みはるかす仙台の町中に、白く、時には鈍色の輝きをきらめかせながら、広瀬川がゆっくりと流れています。

城の周りを川が流れています。

戦略的な考えからこのような場所に作られた城ですが、景色にも優れた城でした。

この城も、やはり悲しい歴史を背負っているのですが、晩翠は、荒れた城の上にあがる月と、かつての武士の栄華の跡と、いまは木々の葉をざわめかせて通りすぎる風の音に、心ゆさぶられ、詩のイメージをふくらませたのではないでしょうか。

 

ブルー音符ブルー音符ブルー音符

瀧と晩翠は、これらの城に過ぎ去った武士時代の栄光と悲哀を見たのでしょうが、はからずも、二人のイメージは合致したのです。

そして、できあがったのが「荒城の月」でした。

名曲とは、頭の中だけで、できあがるのではなく、こうした風景と物語があって生まれるのだ、としみじみと感じた<荒城の月の旅>でした。

 

 

  蛇足ですが…

話は少しそれますが、歌を教える、という意味は、<歌う>ということの心への影響があります、たとえば楽しくなるとか、感動するとかです。

そして<歌う>ということ以外にも大きな影響を与える要素があるのです。

それはその詩からよみとれる詩人の心、作曲家の心、そして時代背景などを<知る>ことです。

 

この歌に関して言いましたら、この詩は土井晩翠の詩ですが、晩翠は白虎隊で有名な会津若松城をまず頭に思い描いたと言います。

そして自分の生まれ育った仙台の青葉城をも歌い込みました。

一方作曲した瀧は自分が慣れ親しんだ土地、九州竹田のお城、岡城をイメージしましたが、何より明治維新で武士階級がなくなった哀感を荒れ果てた城を歌うことで表現したかったのではないかと思われます。

岡城も今は城壁だけが残るお城です。

ですから、この歌の中には3つのお城への思いが込められています。

でもその3つがバラバラにはならず完全に曲と共に融合されています。  

なんて、たとえばこんな話をするだけで、たった1曲の歌から学ぶことってたくさんあると思うのです。

晩翠や瀧のこと、歴史的な話、武士階級がなくなった哀感を込めた話等々…

教室の中で、音楽の授業だからといってただ歌う、というだけではない、<知ることの楽しさ>を味わえると思うのです。  

大切な歌は伝え残していきたいものです。

 

あまりに長くなりましたので、瀧の年譜は別仕立てにしました。

 

 

やっぱり歌曲ってすてき!

の。