一

からまつの林を過ぎて、

からまつをしみじみと見き。

からまつはさびしかりけり。

たびゆくはさびしかりけり。

   二

からまつの林を出でて、

からまつの林に入りぬ。

からまつの林に入りて、

また細く道はつづけり。

   三

からまつの林の奥も

わが通る道はありけり。

霧雨のかかる道なり。

山風のかよふ道なり。

   四

からまつの林の道は

われのみか、ひともかよひぬ。

ほそぼそと通ふ道なり。

さびさびといそぐ道なり。

   五

からまつの林を過ぎて、

ゆゑしらず歩みひそめつ。

からまつはさびしかりけり。

からまつとささやきにけり。

   六

からまつの林を出でて、

浅間嶺(あさまね)にけぶり立つ見つ。

浅間嶺にけぶり立つ見つ。

からまつのまたそのうへに。

   七

からまつの林の雨は

さびしけどいよよしづけし。

かんこ鳥鳴けるのみなる。

からまつの濡るるのみなる。

   八

世の中よ、あはれなりけり。

常なけどうれしかりけり。

山川に山がはの音、

からまつにからまつのかぜ。

 

 

 

  詩の意味と考察

最後の連までは、静かな落葉松林の中を旅しているさまと、人生の哀感を重ね合わせてしみじみと歌い上げています。

 

七連

からまつの雨はさびしいけどいよいよ静かになっていく。ただ閑古鳥が鳴いているだけ。からまつが濡れているだけ。 と歌っています。

 

「いよよ」 は、いよいよ、の雅語的表現、雅な言葉です。

「かんこ鳥」 は、「かっこう」の別称で、かっこうは郭公、閑古鳥、呼子鳥、とも書きます。

その鳴き声は格別もの悲しい印象に聞こえることが多いようで、有名な俳人、松尾芭蕉も閑古鳥のこんな歌を詠んでいます。

   憂き我を寂しがらせよ閑古鳥

客が来なくて繁盛していない店などを <閑古鳥がなく> などと表現しますが、この詩の中では、郭公の鳴き声をイメージして、さびれたさま、もの悲しいさまを表しています。

八連

世の中は「あわれなりけり」、すばらしい。そして 「常なけど」、いつも平坦な毎日じゃなくはかないけれど、うれしい、素晴らしい、というのです。 

人は生きていると世の中の無常からさまざまな悲しみや苦しみ、そして喜びも味わうけれど、山にある川には山川独特の音があり、落葉松には他の林とは違った、落葉松に吹く風があるように、すべてのものはあるがまま自然にあるのであって、人には十人十色の道がある。

自分には自分だけの人生がある。

自分は喜びもたくさん味わったけれど、苦しいことも一杯あった。

死のうと思うほどの苦しみも味わった、でも、これでいいのだ、今この世にあることが、生きていることが、何より喜びなのだ。 

と歌って締めくくるのです。 

 

山川は<やまがわ>と読んで下さい。山にある川のことです。

<やまかわ>と読むと、山と川になりますから。

最後の連を除いて、すべて「からまつの林…」と始まっています。

最後の連が白秋の心でもっとも前面に出したかった内容。

いろいろな詩や歌などに四通八達の活躍をした白秋が静寂の境地に達した素晴らしい詩で、最終連のもつ意味は大きいと思われます。

 

 

 

  詩壇復帰のきっかけになった詩

この詩は白秋が <詩の世界> に戻った最初の詩です。

第一詩集を出して、詩人としての地位が確立、詩壇では第一人者と言われていた白秋が、人妻とのスキャンダルな事件のせいで監獄に入れられ、詩人としての地位は地に落ち、その上生家が破産して大家族を抱えて、追い詰められ、自ら死のうと思うほどに苦しみました。

死のうと思って、三浦三崎に行った時、あまりの青空のあたたかさに助けられ、ここで、もう一度生きてみようと決心。

そんな時、白秋の義理の弟(妹家子が嫁いだ先)にあたる、画家の山本鼎(かなえ)が主催する「芸術教育夏期講習会」が軽井沢の星野温泉で開かれることになり、白秋は勧められて、作曲家の弘田龍太郎らとともに講師として、軽井沢に出かけました。

大正10年8月のことです。

 

初めて信州を訪れた白秋は、浅間山の噴煙に驚き、静かに風が渡ったり霧に包まれたりしている落葉松林を生まれて初めて見て、感動したといいます。

南国に育った白秋には、どこまでも続く軽井沢の落葉松林は大変に美しくすがすがしく目に移ったようです。

そして書き上げた詩が、この「落葉松」です。 

白秋36歳、人生のどん底を見た人がやっと立ち直って書いた詩です。

「この詩作によって再び詩にかえった」と叙述しています。

これで<詩人>としての白秋が復活したのでしたが、こんな背景を知ることで、最後の連の「常なけど嬉しかりけり」、が より 理解できるかなと思います。

 

画家、山本鼎は雑誌『芸術自由教育』を創刊していて、その運動の一環として山本のアトリエのあった星野温泉で講習会を開きました。

白秋は夏期講習会の講師として参加したのですが、他に内村鑑三や島崎藤村らも講師陣の中にいました。

 

 

  詩の誕生

大正10年11月号の 『明星』 で、七連の詩として発表。

その後、大正12年6月に、白秋の第六詩集『水墨集』に収められました。

発表当初は七連の詩でしたが、『水墨集』に収められる時、八連を書き足しました。

芸術教育夏期講習会の講師をつとめるために行った軽井沢で見た落葉松林の感動を、10月のある日、突然<感興がわいて>作られたといいます。

 

その結果、この詩の構成は、一連から七連までは落葉松の静寂さをしみじみと歌い、旅愁と人生の哀感をだぶらせながら、奥にかすかな希望も暗示し、八連目で、この世の無常と生あることの喜びを前面に押出して、この作品を締めくくることになり、この最終連の役割は非常に大きいものとなっています。

この詩を書いた後、再び詩を書くようになります。

 

 

 

  白秋、予想外のこと

『水墨集』の中で、本人が注を書き述べているのですが、

「読者よ、これらは声に出して歌うべき きわもの にあらず、ただ韻(ひびき)を韻とし、匂いを匂いとせよ。」と。

つまり、声に出して読まないで、心の中でひびきを感じ、かすかな匂いを感じ、薄墨で描き上げたような詩を感じてもらいたい、と言いたかったのだと思います。

ところが、皮肉な事に、音楽著作権協会に登録されているだけでも、この詩に2桁の人が作曲しているといいます。

 
 きわもの: 一時的な流行を当て込んで売出す品物。入用の季節の間際に売りだす品物。

 

  曲の誕生と考察

深町純が高校生のとき作曲したもので(高校2年、17歳の時のようです)どこにも発表せず、本棚に埋もれていました。

彼とは大学時代からの長いお付き合いで、学生の頃は天才とか変人とか色々言われていましたが、とても純粋な心の人でした。

その彼の家で、音楽談義のさなか「昔こんなのを作ったよ」と見せてもらった古く色褪せた紙の譜面が、「落葉松」でした。

どんな曲?と私が聞くと、ピアノを弾いて歌って聞かせてくれました。

体中に寒気が走り、即座に「この歌私に頂戴」と言って持ち帰り、それ以来私の大好きな持ち歌になっています。

ある方から、この歌をコンサートでもっと歌って欲しいとリクエストを頂いたのですが、そのお手紙には、私が歌わなくなったらこの歌も忘れられていくことでしょうから、こんないい歌、もっとたくさん歌って下さいとありました。

なんとかして多くの方の耳に届けられるよう、考えなくてはと思っています。

 

彼は、シューベルトの「冬の旅」のような感じに仕上げたいと意図したようですが、その通り、実によく白秋の詩の心が表現されていると思います。

ただ、白秋の最も大事な最後の連、<今この世にあることが大変な喜び>と、歌う最終連にメロディーがつけられなかったことが私は初めの頃はとても残念でした。

当時17歳という若い作曲家の卵の深町さんにはこの部分、白秋の心はわからなかったのかなぁ~、なんて思ったりもしていました。

でも今は、白秋が書いているように、心の中で味わうために、あえてメロディーにはしなかったのがよかった、と思っています。

 

 

  楽譜のない歌曲

先ほど書いたように、日本歌曲の歌を広めていくために新しい歌曲を作っていこうという話しになった時に、彼が昔作曲したものを思い出し、書棚から出してきた譜面でしたから、何十年も前のもの。

紙も茶色く変色したような古めかしい手書きの楽譜です。

何度か舞台で歌っているうちに、いつか必ず私の「歌曲の会」からの楽譜として出版しようと思っていましたが、突然のように彼が亡くなられたものですから、出版することが出来なくなってしまいました。

持ち帰った原本通りに歌っていれば、今からでも世に出すこともあり得るのですが、歌いながら彼と相談してはあれこれと変えた部分があるので、それを本人に最終の確認もせずには出せないのです。

私が歌って、もっと多くの方に聞いて頂けるようにしないと、と思っていますが…。

 

 

  曲名を平かなの<からまつ>に

私のコンサートの最後にいつも歌う、野上彰の「落葉松」と同じ題名で、毎回ややこしいものですから深町さんにお願いして「からまつ」と平仮名表示に変更しました。

白秋の詩の題は漢字の<落葉松>ですが、詩の中は「からまつの林を過ぎて…」と平仮名で始まることですし、かえってこの方がわかりやすかったと思っています。

深町さんが存命中に了承の上変えられてよかったです。

 

 

  ほんとのいい歌とは

白秋の志として非個性・無名性がありました。

「民謡とか童謡というものはその歌詞が一般民衆のものとなった以上、その作者は忘れられてその歌謡だけが民衆のものとなる。そうして作者の名が忘れられれば忘れられるほど、ほんとうの民謡として光あるものである」と述べています。

「からたちの花」のように芸術的な歌と思われているものは<白秋の詩>として周知のことでしょうけれど、たとえば「城ヶ島の雨」(ピンク音符雨は降る降る…)が白秋の作品だとご存じでしょうか?

「ちゃっきり節」(ピンク音符歌はちゃっきりぶ~し~男は次郎長…)とか「赤い鳥小鳥」

ピンク音符赤い鳥小鳥なぜなぜ赤い…)が白秋のものだなんて知らない人のほうが多いのではないでしょうか。

でも、それでこそ、本当のいい歌なんだと白秋は言っています。真実だと思います。

有名な人の詩だからいいのではなくて、心にしみるいい歌だ、と人々の心の中に残って欲しいと考えていた白秋でした。

 

 

  深町純

作曲家で、編曲家で、シンセサイザー奏者。

詳しくはネットで見て下さればたくさん出ています。

ここでは私との付き合いの話を。

 

私は、初めてのリサイタルの時から、伴奏はピアノだけではなくいろんな楽器と共演してきました。

お琴は1台ずつキーが決まっていて(柱(じ)をたてて音の高さを決めるので、違う調の曲を演奏するにはその柱の位置を変えなくてはならないけど、舞台で柱を動かすのは音が出る上時間もかかるので、何台もお琴を舞台袖において置かなくてはならない)大変でしたし、ハープは運搬も音合わせの場所も大変。室内楽の人たちとは人数が多い分音合わせの日を決めるのが大変。日本舞踊の先生にも入ってもらったことがあるのですけど、衣装にかつらさんに、と大変でしたし…、と楽器や人が増えれば増えるほどいろんな面で大変だったのです。

それで、風景を表すのにエレクトーンだときれいかなと何年間も入れていたのですけど、シンセサイザーの方がもっとクリアですてきだとピアニストの助言で、弾いて下さる人を探すことに。

でも、シンセという楽器、これまた大変な楽器で、一人ではできないのだとか。

まずはシンセの音を作る人が要る。

編曲の譜面を書いてくれる人が要る。

演奏する人が要る。

と一つの楽器のために3人が必要になるというのです。

それで困り果ててるときにフト、大学時代からの友人の深町さんのことを思い出して相談してみたら、ボクが行ってあげるよ、と二つ返事(^^)/

彼曰く、「クラシックの人たちはシンセという楽器を、オーケストラを雇うにはお金がかかるから、シンセだといろんな音が出るんでしょ?一台でオケができちゃうんでしょ?と頼んでくる。失礼だよね。シンセサイザーという楽器なんだよ、便利屋のように使われたくないよ」と。

それで「クラシックにシンセを入れていきたいし、日本歌曲という世界に入るのも新しいことだし、一緒に活動してあげるよ、ボクなら編曲、音、演奏一人でやれるよ」となったのです。私は万々歳。(^^)

それ以来、十何年とお付き合いしてきたのに、2010年、11月のコンサートの後、またね、と元気よく別れたその10日後、突然亡くなられました。

人生ってこんな風に突然の別れというのもあるのですね。

もっともっと感謝しておけば良かった…。

でも、その後姉がシンセを勉強して弾いてくれるようになったので、私は深町さんが「お姉さんとやって行けよ」、と言って下さったのかも知れないと思えるのです。

癌を患っていた姉が一緒の舞台に立ってくれるようになったのですから。

その後姉との別れが来るまで、何年もの間幸せな舞台をさせてもらえたのは、言い方を変えたら深町さんのおかげでもあるのかな、と思えるのです。

 

 

やっぱり歌曲ってすてき!

の。