詩(短歌)

山吹の岸に乱るる谷川にヤマメ育つとふ甲斐の国原

ほととぎす啼く音聞きつつ山深き谷川の瀬々人は渡るか

 

 

 

  詩の意味と考察

一番

まっ黄色の花をいっぱいつけた山吹の花が谷川の岸に咲き乱れている。

その澄んだ谷川の水の中でヤマメが今育っている、という甲斐の国原。

 

「ヤマメ」は清流にしか住まないお魚。

「育つとふ」の「とふ」は文語体で、<とう>と読んで、<という>の意味です。

「甲斐」は甲斐地方のことで、信州八ヶ岳の麓の風景を詠んだもの。

「国原」という言葉が素晴らしい。

<海原>はよく使われるけど、国原という言葉はほとんど使われていないので。

・・・ずうっとどこまでも緑の木々の広がりを感じさせられます。

明るい新緑の山、5月の風が木々の間を吹きわたる風景が想像できるかと思います。

二番

その国原の中を、ホトトギスの鳴く声を聞きながら、人は谷川の瀬々を渡り、山歩きを楽しんでいるだろうか。

 

「ほととぎす」は夏を告げる鳥と言われ、古くから日本人の好む鳥。

「瀬」というのは、流れが急なところを 瀬、といいます。

でも、この短歌からは、楽しそうに渡っている様子が浮かびます。  

「瀬」の前に「山深き」、とあることから山の深い所の川、つまり、上流だとわかります。

上流だと川幅は狭くて浅いでしょうから、流れが早くても、渡れるのです。 

ゆっくり歩いて渡って、山歩きを楽しんでいる様子が思い描けると思います。                       

 

  詩(短歌)の誕生

「山吹の・・・」の歌は、昭和8年 『歌と観照』 6月号に、「ヤマメの歌」として発表されました。

 

 

  歌の誕生

昭和10年(1935年)作曲されたもの。

『平井康三郎歌曲集』の後書きの文章

「「平城山」「甲斐の峡」「九十九里浜」の3曲は、北見さんの依頼で作曲された三部作である・・・。甲州八ケ岳の初夏の風景、清流を思わせるピアノの動きにのってあかるく歌ってゆく。」と、書かれています。

 

 

  もっと広めたい素敵な歌

甲斐の峡は、北見志保子の短歌も明るくて好きですが、何より平井康三郎の曲が素晴らしく、さわやかな5月の風や、清流を想像させるピアノ伴奏のメロディーが美しい曲です。

日本の初夏の歌の中にも、こんなに明るくて爽やかな歌があるんだとうれしくなる歌です。

「藤原のり子の日本歌曲の会」が発行している<ゆめの絵楽譜>(ピース:一曲ずつの楽譜)の表紙絵です。

日本画家の畠中光享画伯に描いてもらったものです。

 

 

  3部作として歌われているのを聞いたことがない

『平井康三郎歌曲集』の後書きに書かれているように、本来は3部作らしいのですが、今出版されている抒情歌全集とか日本歌曲のどれを探してみても、<組曲>だとして載った本はありません。

だいたい『平井康三郎歌曲集』にすら、組曲とは書いてないのです。

なのに、平井康三郎は組曲であることにとてもこだわっているのです。

 

実は昔、日本歌曲を専門にするぞと思い立ったときに、中田喜直と平井康三郎、二人の作曲家の門をたたいて、東京のお宅までレッスンに行っていた頃があるのです。(二人の作品がとても好きでしたから)その頃はこの歌を歌ったわけではないので、何もお聞きせずにいたのですが、何年か経て、私がこの楽譜を作ることにした時、ちょっと相談することがあってお電話したのです。

そうしたら先生が電話の向こうでとてもお怒りになるのです。

「甲斐の峡はね、組曲なんだから、出版するなら3曲一緒にしないとだめだよ…」って。

「平城山」と「甲斐の峡」と「九十九里浜」の3曲のことですけど、先生の本にだって3部作とか組曲って書いてないじゃないですか、なんてとても先生に向かって言えず、しゅんとなって聞きたいことも聞けずに電話を切ったのでした…。

虫の居所が悪かったのかなぁ~、ということにして後は黙ってこの歌だけ制作したのです… アセアセ

 

何年か後に、「平城山」の楽譜を制作したのですけど、「九十九里浜」にはまだ至っていませんあせるあせる

組曲としては出版できず、ちょっとだけ申し訳なかったかなと思っています。

その後もコンサートでよくこの歌を歌うのですが、歌う度に3曲歌わずにごめんなさい…と心の中で謝っています。

 

 

  平井先生の思い出

先生の思い出と言えば、レッスンというよりは私の歌を聴いて頂いて歌い終わるとすぐにおしゃべりになってしまうのでしたが、突然こんな歌があるんだよ、と若山牧水の「酒の歌」を歌いだされたりするのです…。とてもご自身気に入っていらっしゃるようで…。

当時は大阪にも時々いらしていたのですが、あるとき、突然電話がかかってきて、「藤原さん、今日は空いてますか? 神戸の○○でボクの曲を歌ってくれるコンサートがあるんだけど、来られませんか?」なんてお電話をいただいてあわてて用意して出かけたり。

明治生まれらしい頑固さを持った、どこか可愛いい先生でした。

律儀で、真面目でいらして、ていねいなお付き合いが、普通に出来る先生でした。

<普通に出来る>、って変な言い方ですけれど、だいたい芸術家と言われる方は、どこか大変なところがありますから…。(^^;)

 

先生の歌は、コンサートで、プログラムに1曲も入らないというコンサートはないくらい、好きな歌がたくさんあります。

日本のシューベルトと言われていると、どこかで聞いたことがあるのですが、ほんとにメロディーがわかりやすく、流れていて、美しいのが特徴だと思います。

 

2002年11月30日にお亡くなりになりました。

 

 

やっぱり歌曲ってすてき!

の。