ひかりはいつも  かはらぬものを

ひかりはいつも  かはらぬものを

ことさらあきの  月のかげは

などか人に  ものを思はする

などかひとに  ものを思はする

あゝなくむしも  おなじこゝろか

あゝなく蟲も  おなじこゝろか

こゑの  かなしき

              『四季』より

 

 

  詩の意味

煌々と輝く月の光が野を照らし、風に揺れる一面の野草を白くうつしだしています。

光はいつも変わらないけれど、ことさら、特に、秋の月の光はなんて心に染みいる美しさがあるのだろうか・・・人の心の奥底にまで、しのびこんできそうな哀感のこもった人恋しさを感じさせる・・・。

啼いている虫の声もしみじみと美しく、虫も人と同じように、月の光の美しさに感動しているのだろうか・・・

生命のはかなさを感じているのだろうか・・・、と

哀感漂う歌です。

 

 

  詩の誕生

組曲『四季』を作ろうと決めた瀧は、各季節の「春」と「冬」の詩は、すぐに決まりましたが、「夏」と「秋」の詩の執筆者は、なかなか決まらなかったようです。

そこで瀧は、音楽学校時代の2年先輩の東くめ(久米子)に相談した結果、東が「夏」、瀧が「秋」の詩を担当することになりました。

でも、なかなかいい詩ができず、悩んだ末、家人に相談をしたようです。

瀧は、義兄 大吉の妻タミが詠んだ短歌を見せてもらい、その歌からヒントを得て「秋」の詩を書いた、といわれています。

タミが詠んだ句は、秋の夜の一情景を歌ったもので、次のような内容です。

   ブルー音符月ごとに月の光はかわらねどあはれ身にしむ秋の夜の月

瀧は、煌々と照り輝く秋の月を、まぶたに思い浮かべたのでしょうか・・・、それとも、秋の月がかもす寂しげな雰囲気に、心を揺さぶられたのでしょうか・・・。

一気に詩を書き上げ、武島羽衣(「花」の作詩者)に詩のよしあしをみてもらったともいわれています。

瀧が作った詩は、哀愁に満ちた秋の月の風情を、抒情豊かに、心にしみいるように歌いあげています。

大吉は父の兄の子なので、廉太郎とはいとこ。大吉の父が亡くなった後は、引き取られ、廉太郎とは兄弟のように育っている。

タミは父の妹の子なので、廉太郎とはいとこ。その大吉とタミが結婚したので、大吉を義兄だと思っていた廉太郎にはタミは姉のように思い、慕っていた。

 

 

組曲『四季』について

組曲『四季』とは、明治33年、瀧廉太郎が21歳のとき作曲した日本最初の歌曲で、合唱曲です。

題名の通り、春、夏、秋、冬から構成され、詩は、春の「花」は武島羽衣、夏の「納涼」は東くめ、秋の「月」は瀧本人、冬の「雪」は中村秋香が書きました。

作曲は全て瀧廉太郎。

この歌曲が、瀧によって作曲されるまで、歌は「唱歌」と呼ばれていましたが、これらの唱歌のほとんどは、外国の曲に日本語をあてはめたものでした。

なかには音楽的にややレベルの高い、「菊」(いまの「庭の千草」)などもありましたが、メロディは当然、外国のものでした。

こうした風潮に瀧は、日本人の作曲、作詩(作歌)による歌曲を作ろうと、組曲『四季』を完成させたのです。

『四季』は、音楽的に、従来にはみられない新しい形態をとり、芸術的香りも高く、瀧の最高傑作の一つといえます。

 

大変、意欲的に書かれた歌曲で、たびたび宣伝されたのですが、ところが、当時の人たちはそのよさが分からなかったのか、まったく反応がなかったようです。

また、その原因の一つに、演奏発表の場がなかったこともあげられています。

『四季』が最初に演奏されたのは、作曲から5か月後でした。

ドイツに留学することになった瀧の「送別記念演奏会」で、でした。

公式の記録では、「東京音楽学校学友会の女性会員の手で、『花』が演奏された」とあります。しかし、残念なことに、この演奏会のあと、瀧の生存中に演奏された形跡はありません。

この曲のすばらしさ、美しさが認められ、人々のこころに残る名曲となったのは、ずっとのちのことでした。

 

話は変わりますが、組曲『四季』は、日本最初の歌曲という画期的な面をもつだけでなく、印刷史の上からも、大きな意味をもっています。

というのは、この曲は菊倍判という大きさで印刷された楽譜ですが、菊倍判が日本で印刷されたのは、これがはじめてでした。

菊判は、たて21.8センチ、よこ15.2センチの大きさですから、それより、かなり大きい判だったようです。

現在のピアノの楽譜の大きさだった、といわれています。

表紙は、

「黄色で、月と千鳥と桜と波が銀色でえがかれている」

「春夏秋冬の美しい芸術歌曲をもるにふさわしいものであった」

といいます。

瀧は、この楽譜のはじめに「緒言」と題した文を書いていますが、その内容は、新しい歌曲の創造に熱意をかたむけた瀧の心情が、せつせつと語られています。

その全文です。

ブルー音符ブルー音符ブルー音符

 近来音楽は、著しき進歩、発達をなし、歌曲の作世に顕はれたるもの少しとせ 

 ず。然れども、是等多くは通常音楽の普及伝播を旨とせる学校唱歌にして、之よ

 り程度の高きものは極めて少し。其稍高尚なるものに至りては、皆西洋の歌曲を

 採り、之が歌詞に代ふるに我歌詞を以てし、単に字句を割当るに止まるが故に、

 多くは原曲の妙味を害ふに至る。中には頗る其原曲の声調に合へるものなきにし

 もあらずと雖も、素より変則の仕方なれば、これを以て完美したりと称し難き事

 は何人も承知する所なり。余は敢て其欠を補ふの任に当るに足らずと雖も、常に

 此事を遣憾とするが故に、これ迄研究せし結果、即我歌詞に基きて作曲したるも

 の、内二三を公にし、以て此道に資する所あらんとす。幸に先輩識者の是正を賜 

 はるあらば、余の幸栄之過ぎざるなり。

                        明治三十三年八月 瀧廉太郎

 

このなかで、瀧は、「我歌詞に基きて作曲」と書いていますが、この「我歌詞」の意味は、「日本語の詩に曲をつける」ことをさしていると考えられます。

ドイツ歌曲やイタリア歌曲と並ぶ日本歌曲の創造に着手したのです。

曲は、「春夏秋冬」の四部構成から成り立ち、春は「花」、夏は「納涼」、秋は「月」、冬は「雪」となっていることはすでに述べましたが、おのおの歌は、大変よくできていて、四つとも演奏形態が違っています。

むらさき音符「花」の旋律は二部合唱になっていて、ピアノの伴奏がついています。

むらさき音符「納涼」は独唱用でピアノ伴奏があります。

むらさき音符「月」は四部合唱で伴奏がありません。しっとりと秋の月を表現するために、無伴奏で、声だけの響きにしたのでしょう。

むらさき音符そして、最後の「雪」も四部合唱ですが、この曲にはピアノとオルガンの両方の伴奏が書かれています。

 

曲に伴奏がついている、というだけでも、いままでになかったことです。

また、合唱のように、音が複雑にからみあいハーモニーさせることは、当時の日本人ではだれも考えつかないことでした。瀧はそれをやりとげたのです。

さらに日本語の言葉のアクセントを考えて作曲するという、高度な技法もとりいれて作っています。

なかでも、「花」はその技法を十分に発揮した歌といえます。

日本語のアクセントは、強弱ではなく上下です。

その特質を十分に生かすために、1番から3番まで、メロディーをそれぞれ違えているのです。

ここに「花」の大きな特色があります。

この作曲法は、それまでの「唱歌」にはない斬新なものでした。

 

 

  山田耕筰の曲を考察

瀧の原曲「月」は、混声四部合唱で、伴奏はなく、声だけで演奏するように構成されています。

現在、よく歌われている「秋の月」は、瀧が作った曲そのものではなく、大正13年に、山田耕筰が独唱用に<編曲>されたものです。

山田が伴奏をつけて、歌いやすくしたおかげで、多くの人が歌うようになりました。

その意味での、山田の功績は大きいのですが、山田が編曲した譜面は、瀧が作曲したものとは違っていて、なかでも歌詩にその違いがみられます。

瀧が作った歌詩は、次のようなものです。

ブルー音符ブルー音符ブルー音符

ひかりはいつも  かはらぬものを

ことさらあきの  月のかげは

などか人に  ものを思はする

などかひとに  ものを思はする

あゝなくむしも  おなじこゝろか

あゝなく蟲(むし)も  おなじこゝろか

こゑの かなしき

 

山田の編曲した詩は次の通りです。(楽譜により漢字・平仮名が異なります)

ブルー音符ブルー音符ブルー音符

ひかりはいつも変わらぬものを

殊更秋の月の影は

などか人に物思わする

などか人に物思わする

ああ鳴く虫も同じ心か

ああ鳴く虫も同じ心か

声の悲しき

 

瀧の三節目の、「人にもの思わする」が、山田のは、も「人にもの思わする」と、「」が抜けています。

詩を読む限りは、たいした違いはない、と思われるかも知れませんが、メロディーに載せますと、大きな違いが出てくるのです。

この歌は8分の6拍子で、歌うときは、1小節を大きく2拍に感じて歌うのですが、そのリズムを感じる強い拍の上にくる言葉が、瀧のは「おもわする」の「お」で、「ーもーする」となります。

山田のは、「おもわする」の「も」が、一番強い音になり、「おーわーる」になります。

赤字で書いたところが、拍子のあたまです。

日本語は、平らで、強弱はないはずですから、山田のように、「も」があがるとは考えられません。

山田は、言葉のアクセントを重視する人、といわれていますから、山田にしては、不思議な作り方といえるでしよう。

 

このほかにも、瀧の作った曲と、山田が編曲したものとの違いは、調や、歌う速度の指示の違いがあります。

表現の仕方(フォルテ、ピアノとか、だんだん大きく、など歌わせ方を示したもの)も、ところどころで異なっています。

調は、瀧の作ったハ短調から、ロ短調に変えられています。

速度は、「アンダンテ(歩くような速さで)」から、「レント コン トゥリステッツァ(悲しみを持ってゆっくり)」に変えられています。

山田という人は、表現の指示などを、細かくていねいに書く人で、自ら「人からは偏狭といわれるくらいアクセントに注意を払って作曲している」と述べています。

こうしたことを考えると、山田がなぜ、無伴奏の曲に伴奏を付けるだけにとどまらず、歌詩や表現まで変えたのか、疑問の残る編曲の仕方といえるでしょう。

そして曲名も「月」から「秋の月」と変えています。

 

「荒城の月」も同じようにかなり手を入れ原曲を変えていますが、ここまで変えると、私はどちらも<編曲>とは言わず<改作>だと思っています。

 

 

  私は原曲版を

変えられた曲名は、「月」から「秋の月」なので、まだ許せる範囲かと諦めていますが、詩や曲想などは瀧の原曲版を私はいつも歌っています。

伴奏部分だけ山田のもので。

「先人には申し訳ないけれど少しく手を入れた」、と山田は書き残していますが、「荒城の月」といい、この「秋の月」といい、どういう理由で変えたかを聞きたいものです。

 

 

 

  瀧 廉太郎年譜 (1879~1903)

これからも、重要な人物は年譜を添えておきます。

瀧は日本で最初に歌曲というものを考え出し、作曲した、偉大な作曲家なので。

 

まずは廉太郎の祖父と父の話から

滝家初代 俊吉は紀州の人だったが、青年の頃江戸に出ていた時、乱暴者をしずめた振る舞いが日出藩(九州)の初代藩主 木下延俊に認められ、召し抱えられた。

滝廉太郎の祖父にあたる滝吉惇(よしあつ)は非常に実直な人柄で、家老職に抜擢され長くその職にあった。

5男2女をもうけ、その中の5男 吉弘が廉太郎の父。

吉弘の兄が27歳の若さで他界し、その嫡子 大吉が幼年であったため、吉弘が滝家の家督を相続し、11代の家名を継ぎ、栄吉と言う幼名を、その時 吉弘 と改名。

兄の子、大吉は吉弘の家にひきとられ、養育された。

明治維新で廃藩置県が行われ、日出藩が日出県と改り、16代藩主 木下俊まさが知事(知藩事)となり、吉弘は権大参事に任ぜられ、翌年大参事に昇任し政務にたずさわった。

明治5年(1872)、吉弘は意を決して上京、秋田県七等出仕を振出しに明治7年(1874)には大蔵省に勤めたが、まもなく内務省に転じ、大久保利通の秘書、のちに伊藤博文の秘書となる。 

この頃廉太郎生まれる。東京市芝区南佐久間町。

温厚な人柄を非常に愛され、信任が厚かった。

大久保が暗殺された後、伊藤博文の知遇を得、往復課長(?これがどんなものか不明)となったが程なく本省を出て神奈川県書記官を勤めた。

後、富山県書記官を最後に官職を止め、東京に帰り、日を送っていた。

友人の勧めで、明治22年3月大分県大分郡の郡長となる。

明治24年11月大分県直入郡郡長に転じ、明治28年9月まで満4年間竹田の官舎で過ごす。

 

ブルー音符ブルー音符ブルー音符廉太郎年譜ブルー音符ブルー音符ブルー音符

 

明治12年(1879)8月24日、東京市芝区南佐久間町、旧佐伯藩主 毛利高謙

      (たかあき)の江戸上屋敷の侍長屋で誕生。(今の港区新橋2丁目付近)

    当時父は内務省の一等属官で、明治の大政治家伊藤博文のもとで手腕を振

    るっていた。

19年5月、父が神奈川県少書記官を拝命したため横浜へ。

       横浜で小学校に入学したと思われる。

    8月29日付けで父は富山県書記官に任ぜられ横浜を去り富山へ。

20年5月、富山県師範学校男子部附属小学校(現富山大学教育学部附属

    小学校)尋常科一年に転入。富山では1年半を過ごす。

瀧の在富を記念して、独楽(こま)を手にした瀧廉太郎少年像が昭和53年に建立されている。

21年5月、父の転任のため東京へ戻る。

   しかし転任先はなくも辞令は「非職ヲ命ス」であった。

   麹町小学校尋常科第3学年に転入。

22年3月、父は大分県大分郡郡長に任命され家族は大分へ。

   廉太郎は年老いた祖母や病気の姉とともに東京に残る。

23年3月、祖母が他界。5月には胸を病んでいた姉が21歳で他界。

   4月、祖母の葬儀の後、廉太郎は大分の両親の元に帰る。    

   5月、大分県尋常師範学校付属小学校(現大分大学教育学部附属小学校)

        高等科第1年生に入学。

この学校は現在大分県庁のビルが建っている所にあって、それを記念するために『大分県教育発祥之地』の石碑が建てられている。

   この生活もまた1年半。

24年11月、大分県直入郡郡長を命じられて一家は山奥の竹田の町に移る。

この官舎は旧岡藩士岩瀬家の邸宅で、瀧たち家族8人が住んだ。その後、個人所有となり、老朽化が進み、平成2年竹田市が買いあげて解体復元、昔の面影そのままに現在は「瀧 廉太郎記念館」として残されている。

25年1月、直入郡高等小学2年生に転入。

   この時代、廉太郎の得意な芸はコマ回しとカルタとりだった。

   音楽学校時代、百人一首をするのに5人を向こうに回して必ず勝ったと言われ

   ている。

   テニスも得意だったようで、頭のよさ、すばしっこさが想像される。

   絵も相当巧かったと言われている。絵はあまり残っていない模様。

   ヴァイオリン・ハーモニカ・アコーディオン・尺八も非常に巧かった。

   成績は常に上位で、毎年学年末には「品行方正学術優秀」の賞状をもらって

   いた。

   彼の近視はこの時代からひどかったらしく、優等生は後に座る前例を破って

   最前列に席をとっていたと言う。

   大分県尋常師範学校を前年に卒業したばかりの新進教師、渡邊由男(後に

   後藤)が着任し、廉太郎を受け持つことに。

   しかも、当時県下でも数少ないオルガンがあった上に、その高等学校で唯一

   オルガンを弾ける先生とめぐり会った廉太郎は音楽の指導を受け始める。

   音楽への道を志したが、父の反対は大きかった。

   当時音楽は婦女子のすることで、男子一生の仕事に非らず、しかも家老の家柄

   の後継者がこのような道に進むなど、と反対したが、従兄の大吉は非常に理解

   があり、目も悪いのだし好きな道に進ませてやれと進めたので父も許可した。

   許可された後は後藤先生について正式にオルガンのの勉強を始めた。

27年4月、直入郡高等小学校卒業。

     5月、上京。麹町の大吉の家に身を寄せる。

       小山作之助(「夏は来ぬ」の作曲家)の主宰する芝唱歌会に入会、

       音楽学校の受験準備を行う。

   9月、高等師範学校音楽学校予科に仮入学する。

  12月、高等師範学校付属音楽学校予科に本入学。

明治24年、帝国議会で音楽学校の予算が議論に上り、その後音楽学校存廃論まで発展、論議議会にとどまらず、音楽学校関係者、教育者を巻き込んで、新聞雑誌など言論界にまで波及、2ヶ月に及ぶ大問題となったが、かろうじて学校の廃止は免れた。が、26年、日清間の緊張が高まってきたとき、戦費調達のための財政緊縮政策のあおりを受け、音楽学校は東京高等師範学校の付属となった。その後、32年に高等師範学校より独立、東京音楽学校と改称。
昭和24年6月、東京藝術大学開設。
東京音楽学校は、昭和27年3月に最後の卒業生を出し、自然廃校。

28年7月、予科終了。脚気療養のため大分に帰郷。

29年9月、本科専修部2年生。

31年7月、高等師範学校付属音楽学校本科専修部を首席で卒業。

      総代として謝辞を朗読。

     9月、研究科入学。

32年9月、研究科2年になり、音楽学校のピアノ授業嘱託となる。

    1ヶ月金10円を給与される。

33年、音楽学校、瀧を外国留学生として文部省に上申。

   6月、ピアノ及び作曲のため満3カ年間のドイツ留学を命ぜられる。

           「ピアノ及作曲研究ノ為満三年間の独国へ留学ヲ命ス」

   9月、研究科3年生。留学出発延期願を提出。

  10月、ピアノ曲「メヌエット」作曲。

      麹町区の博愛教会という聖公会の教会にて洗礼を受ける。

  11月1日、組曲『四季』を共益商社楽器店より出版。

明治34年3月、音楽学校蔵版『中学唱歌』出版される。

    (「荒城の月」・「箱根八里」・「豊太閤」が所収)

『明治音楽史考』   遠藤宏 著
瀧の作品は4曲選ばれたというが「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」の他の1曲が不明である。その内、「豊太閤」は瀧にあらずと語る人もいるが、あの曲風は彼の作曲と私は信ずる。      
『中学唱歌』披露音楽会は、瀧が出発後まもなくの34年5月19日(日)午後2時から上野の奏楽堂で催された。 
彼の作品は全曲歌われた。
34年6月4日皇后陛下の行啓を仰ぎ、御前演奏を行った。
「荒城の月」は時代が経つに従って非常に有名となり、日露戦争前後からの浪漫的時代の風潮と共に流行していった。
一高の寮歌「緑もぞこき柏葉の」が流行した時代と一緒である。

 同年 4月6日、ドイツに向けて横浜港を出発。

        5月18日、ベルリン着。

        6月、ライプチッヒ着。下宿屋に落ち着く。

   10月1日、ライプチッヒ王立音楽院を受験、合格。

       (ライプチッヒ王立音楽院はメンデルスゾーンの創立したもの)

        11月末、感冒にかかる。

   12月、王立音楽院を退学。

35年7月4日、ドイツ駐在公使、本国に瀧の帰国申請を行う。

    9月、帰国命令が発せられる。

    8月25日、「若狭丸」にてアントワープを出港。

        その日の内にロンドン郊外チルベリー・ドッグに到着。

        5日間の停泊中に土井晩翠の見舞いを受ける。

        最初で最後の出会いであった。

   10月17日、横浜港に帰着。大吉宅で療養。

   11月23日、大吉没。

   11月24日、大分に帰着、両親の元で療養。

   12月29日「荒磯の波」を作曲。

36年2月14日、ピアノ曲「憾」を作曲。

      6月29日、午後5時、死去。

 

 

 

   こぼれ話  ドイツ留学時の瀧廉太郎

瀧は、明治34年4月6日、ドイツに向けて横浜港を出発します。

上海、香港、シンガポール、コロンボ、アデン、スエズ、ポートサイドを経由して、5月14日、イタリアのジェノバに到着しました。

そこで一泊して、翌日、市内を見物したあと、汽車に乗り換えてドイツへ。

ベルリンに20日ほど滞在した後に、ライプチッヒに着きます。

ライプチッヒはバッハやメンデルスゾーン、シューマンといった人たちが活躍した町で、ゲーテやニーチェなど、世界的な文学者や哲学者のいた町としても知られています。

ヨーロッパの中心的な都市の一つでした。

ライプチッヒで瀧は、ゲバントハウスやライプチッヒ王立音楽院のすぐ近くに下宿をしました。ゲバントハウスでは毎週木曜日に、世界的なオーケストラの演奏が行われています。また、市の歌劇場では、毎日のようにオペラが上演されていました。

音楽は人びとの間で生活には欠かせない重要なものだったのです。

 

瀧は、ドイツで最初の本格的な音楽家養成のために作られた学校、ライプチッヒ王立音楽院を受験するためレッスンを始めます。受験日は4か月後。

まずはドイツ語、そしてドイツでも指折りのピアニストのタイヒミューラーという先生にピアノのレッスンをしてもらい、10月1日受験し、みごと合格します。

瀧が勉強したかった科目の一つは和声学でしたが、授業の内容はあまり難しくなく、日本で学んだ音楽の知識で十分理解できたようです。

 

ですから、授業中、退屈だったのか、汽車の絵の落書きをしたメモも残されています。これ以外の科目、ピアノなどはほかの生徒の技量が優れていたので、必死になって勉強したといいます。

ゲバントハウスでは、木曜日のコンサートは、音楽院の生徒は無料で聞くことができました。音楽院の中でも週に一度、音楽会があり、先生と生徒たちが一緒になって音楽の腕前を披露していたのですが、瀧はそれらの音楽会に欠かさず行き、聞いていたようです。

 

しかし、順調にいっていた音楽院での勉強も、2か月ほどたったある日、オペラの帰りに風邪をひいてしまいます。

瀧が日本に送った2回目の報告書には、「明治34年11月25日、感冒にかかり、引続き他症を発し」とあります。

この25日のオペラは「カルメン」。

午後7時開演で、全幕を見たとすると、終演は10時近くなります。

北海道の北端より、さらに北にあるライプチヒの冬は厳しく、九州で育ち、もともとあまり体が丈夫でなかった瀧は、すぐに風邪をひいたと思われます。

なれない異郷の地で、緊張の日々、そして、無理を重ねての勉強は体力の低下をまねいていたとみえて、病状はこじれ、12月2日、ついに入院をしました。

そして、半年以上、闘病生活が続くのですが、この間に瀧をいつ帰国させるか、間題になり始めます。

政府留学は、自分の都合で帰られないのです。

 

5月に入って、病気が小康状態になったこの機会にと、7月4日、ドイツ駐在公使の井上勝之助は、外務大臣の小村寿太郎に瀧の帰国申請ならびに、帰国費用の送金依頼を打電。小村は直ちに7月7日付けで、文部大臣の菊池大麓に相談し、7月9日、帰国命令がだされ、帰国することになります。

瀧の病名は肺結核。

当時、不治の病とおそれられていた病気です。

留学時の報告書に、「引続き他症を発し」とありますから、この頃からすでに症状が現れていたのかもしれません。

瀧が病名を知り、自分の命を知ったときがいつ頃なのか、はっきりわかっていません。

瀧は、家族が見守るなか、静かにその生涯を閉じたのでした。

志半ばで病に倒れた23年と10月の生涯は、あまりに短かすぎます。

留学せずに、日本で勉強を続けていたら、と惜しまれます。

 

 

晴れ追記1晴れ

「努力家で研究熱に燃えている彼は私立の音楽学校にも籍を置いて必死の勉強をしたようである。彼が病気にかかって入院するようになったのも、こうした無理が重なったことは事実である。」        『瀧 廉太郎傳』 宮瀬睦夫 著 より

 

晴れ追記2晴れ

「本来彼は病身ではなかった。相当運動もよくやっていた。

テニスが上手で、美術学校との対校仕合(ママ)などでは、フロックコートに白ズボンをはき、颯爽として出場し、フロックコートの裾を翻す所が、当時大変な人気であったそうだ。

散歩は大好きでよく歩いていた。決して病弱ではなかったのである。

不幸にして留学中病に冒されたのは、明治音楽史上眞に残念なことであった。

病床にあった瀧へ、留学中の学費として金百円が追給され、4月8日に本人宛送金されたのは、母校の厚い見舞金であった。」

                   『明治音楽史考』 遠藤宏 著より

 

 

 

 

歌曲ってすてきビックリマーク

の。