極意と人間(著:高岡英夫) | のりきよのブログ

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歴史、気功、美容と健康、体外離脱、などといった興味のある話題について適当に書き記しております。

 

はしがき

P2

人の意識は視聴覚的意識から身体意識の方向に極まること、脆弱で混沌とした状態から強力に構造が形成される方向に極まること、および人にとって無益・害悪をもたらすものから有益・優れた能力をもたらす方向に極まることの、都合3つの次元に極まることで「極意」となり得る。

 

序章:ディレクト・システムの時代が始まる

 

脳を支配する関係化の構造こそDS

P53

コンピューターの作曲した曲には、実に共通した特徴があった。それはいずれの曲も、真に人を感動させる何物をも持っていなかったことである。そしてそれは、ちょうど平凡な作曲家が作り上げた曲と、正に共通する特徴なのであった。

一方、48、49ページのシューマンが作曲した「詩人の恋」全16曲のDS図を見て欲しい。そこには、シューマンが1曲ごとに、自分の全身体と全環境に格別の"身体意識"を張りめぐらすことで、自分の身体の臓器や器官や細胞のダイナミズム或いは環境とそれらが取り結び織りなす複雑精緻にして雄大なるダイナミズムを格別に支配し切ると同時に、それらのダイナミズムによって支配し返されるという関係が、見事な構造として示されている。

 

脳活動を任せ切る素直さと無心

P55

56、57ページのDS図を御覧いただきたい。人気漫画『ゴルゴ13』の主人公、すなわちゴルゴ13の人DS図である。

(中略)

実在した武道家・武術家・格闘家・戦闘家と比べても、ゴルゴ13に勝る者は歴史上極めて少数の者に限られるレベルである。

ではどうしてこれだけの内容を持ったDSが、成立してしまったのか。戦闘家として現実にはゴルゴ13程の能力を全く持たないであろう作家"さいとう・たかお"の一体何処に、何故にこうしたDSが構造化されてしまったのか。

優れた漫画家というものは、現実の格闘家と違って身体運動を制御する脳機構ではなく、筋書きのあるドラマを構想し絵を選び言葉を選ぶ脳機構とDSが統合することに長けた人間なのである。登場人物のDSが高度な内容を持てば持つ程、確固たる構造を持てば持つ程、そのDSは強力に漫画家の脳活動を支配し、DS独自の主体的な行動を取り始める。登場人物が"一人歩き"を始めるのである。そこには漫画家が頭で考えるアイディアの到底及ばぬ、登場人物固有のDSに由来する必然的な登場人物の思考・感情・判断・行動・運動の論理というものが、厳に存在するのである。

この瞬間漫画家には、狭い自己のイマジネーションやアイディアに固執するのではなく、登場人物達のDS群が出会い、絡み合い、織り成す、"無意識の世界の群舞"に身を任せ、脳活動を任せ切る"素直さ"が、必要なのである。このDSの群舞に脳活動を任せ切る素直さとは、実は古来武術の世界で言われ続けてきた、正に「無心」そのものなのである。

無心」とは、ただ意識が何物にも囚われない状態などというだけのことでは、決してないのである。無意識の世界に自己を解き放ち、DSの飛躍と乱舞に、全ての脳活動を任せ切る状態、これこそが「無心」の真の内容である。

(中略)

想像してみて欲しい。宮本武蔵が二剣を振う刹那と、さいとう・たかおが『ゴルゴ13』を、水木しげるが『ゲゲゲの鬼太郎』を、藤子・F・不二雄が『ドラえもん』を創作し、アインシュタインが相対性理論を創造し、モーツァルトが四十番を作曲する時間とが、いずれも各々の選りすぐったDSの乱舞に、脳を任せ切る時間であるということを…。

 

「センター」一つで全てが説明できる

P86

動物から人への進化、即ち完全直立二足歩行化を最高に合理的に進行するには、何が必要であった。逆に言えば、最も少ない条件を与えることで、全てが次々に進行していくような条件とは何か。

この問いの答こそ「センター」である。

 

イチローのセンターが意味すること

P96

イチローのセンターが素晴らしいものであることは、『意識のかたち』を始め各所において、再三語ってきたところである。そのセンターは地球を貫き、太陽系を遙かに越え、銀河系全体を貫通する程の規模を有している。

(中略)

ここまでのDSが形成されると、普通人とは全く異なる能力・感情・認識・人格が現出されてくる。感受性は普通人より遙かに強く繊細であるにも拘わらず、普通人がクドクドと気にし気に病むような雑多な煩わしい事々を、全くと言って良い程、気にすることがない。あらゆる分野の本当の達人の特徴である「完全に気がついているが全く気にならない」境地が、高度に形成されてくるのである。

こうした段階のDSを有する者にとっては、今日までに存在する実に多くのメンタルトレーニングやメンタルマネージメントの方法は、今さら必要のないものと言える。

 

「子供は皆天才」は正しかった

P118

120ページをご覧いただきたい。筆者の子供の保育園時代の写真に写る、仲間の一人のDS図である。一歳三ヶ月くらいの時点である。上からも下からも見事なセンターが立ち、側軸、開側芯、腰船、ベスト、アーダー、巨大な中丹田、強力なパームとスライサーと、正しく壮大精妙と言える構造ではないか。この構造の見事さは、正に各界の超一流の天才、名人に匹敵するものである。

(中略)

一歳児を30例余り調べて判明したことは、一歳児が多少の個性の異なりを示しながらも、全体としてかなり近似しており、その内容とレベルは共通して人類史に残るクラスの各界の超一流人、即ち掛け値なしの天才に相当する、という事実である。

 

何が起こったのか?

P121

122、123ページをご覧いただきたい。先ほど登場してもらった筆者の子供の保育園時代の同窓生の、成長した姿である。

(中略)

これが驚愕の泣きたくなるほどの事実なのである。もう一度両図をジックリと見比べていただきたい。あの天才性を示したディレクターの全てが、一つ残らず影も形もなくなり、今やスティフルクラムの辛さ、哀れさを示す貧相なディレクターのみが、僅かに見出されるばかりである。

 

人は何故にDSを喪失するのか

P126

実に多くの読者から、感想をいただいた。

(中略)

大いなる希望を訴える感想の中に、一歳児の見事なるDS喪失のメカニズムを何よりも早く知らせて欲しいという真剣な訴えが、これも数多く目を引いた。人は何故天才性を失うのか?

この大問題の答は、少々難しい言い方を許していただけるなら、たった一言で済ますことができる。その答えは「記号化」である。ここで言う「記号」とは、日常使用する概念の"記号"ではない。日常の概念では、標識や符合の類を"記号"と言うが、ここでは自然に対立する概念としての文化総体を産出する機能構造である所のコードとして「記号」という概念を使っているのである。

少々専門的になって恐縮であるが、この記号概念はスイスの生んだ19世紀末の天才言語学者、フェルディナン・ド・ソシュールのそれに近い。ソシュールは「自然」の対立概念として「文化」を位置づけ、「自然」を越えた次元に「文化」を創出する所に、人間の人間たる特質を見出そうとした。そして人間活動の中で「自然性」を僅かでも越えた一切の「文化性」に言語と同様の論理構造を持った機能的体系、即ち「記号」というものを見出したのである。

ソシュールが直接言っている訳ではないが、筆者の考えでは動き・姿勢・所作・物腰等々の一切が、ここで言う「記号」なのである。一つの言語体系(日本語なら日本語という言語体系)が一人の子供が言語習得をする数年間というタイム・スパンにおいて、全く一定の極めて硬く拘束的な規範性を持っているように、身体運動の一切についても同様の厳格な記号体系が存在するのである。つまり"立ち方"を例にとれば、ビシッ、キチッとしていなければいけない、決してユラユラ、ヌラヌラしていてはいけない…、等々といった、極めて微妙な運動成文にまで、記号体系の拘束的な規範性が及んでいるということである。

即ち赤ん坊は完全にゼロの所から、何をどう学習しても良いという完全なる自由状態の中から、生まれ落ちた時代環境の特殊性に従って全く拘束的な言語~身体運動の一切にわたる記号体系を選択不能という形で、押しつけられるのである。

(中略)

周囲の大人達がフリーならばフリーに、スティフならばスティフに染まるように位置づけられて、赤ん坊は一歳という時を過ごすのである。

 

 

弥生時代人のディレクト・システム

P132

 

 

 

合気の練体と意拳の站椿

P132

合気の練体、意拳の站椿とは、ずばりDSのトレーニングなのである。そればかりではない。西野流呼吸法の各ドリルも黒田道場の型も、その目指すところはDSトレーニングなのである。そればかりではない。この世に存在する格別の優れた練習法、学習法は、全てDSトレーニングなのである。全ての優れた練習法、学習法は、スティフなDSを解体し、フリーなDSを構築することを企図した"メソッド"以外の何物でもないのである。

 

P271

真面目に身体錬磨に取り組むことをいとわないのが武道・武術・スポーツを志した者の、言わば特性である。この真面目さは無くてはならない必須不可欠のものであると同時に、己を拘束するスティフの呪縛ともなっていることに、是非気づいて欲しい。身体運動家を志したなら、身体の鍛錬に真剣になるのは当たり前。問題は、同時に(いささかも鍛錬をゆるがせにすることなく)如何に身も心もユルユルにゆるむか、ということなのだ。

 

心のゆるは細胞の笑いそのもの

P272

塩田剛三氏もそうであったが、佐川幸義翁や王薌齋などの上級の達人を見ると、全身の細胞が常に笑っている。この細胞が更に笑い転げると、相手が吹き飛び転げ回っている。達人とは全くおかしな人たちなのだ。全身の細胞という細胞が、笑い続けているのだから。「ゆる」をやるということは、固まってかたくなになってしまった全身細胞の笑いを取り戻すことと言い換えてもよい。そのためには、滑稽なジョークやバカバカしいような駄洒落を考えたり飛ばしたり、皆で「プフーッ」、一人で「クスリ」しながら、真面目に拘束背柱のゆる、背骨やあばらの一本一本を、「あ~バラバラ」とゆすり、ゆれ、ゆるめてあげることだ。