コリドー街に「蛙たち」というシャンソンの店があって、ずいぶん昔に

とある人に連れられて行ったことがあります。

後にも先にも、進んでシャンソンに興味を持って、聞くに行くことも

なかったので、そのことはすっかり忘れていたのですが、ある日、

コリドー街を通った時に、「蛙たち」がまだ店をやっているとわかって、

とても驚きました。


蛙たちには、何人かの男女の歌い手がいて、ステージが終わると、

女性歌手がホステスとしてお客のテーブルに付いて、お酒や話の

相手をしてくれます。男性は、もっぱらバーテンダーやウェイターと

いった役割で、ホステスから声がかかると、各テーブルにお酒や

おつまみを運んでくれます。


そのウェイターの中に、森田さんという初老の男性がいました。

黙ってお酒やおつまみをテーブルに運んでは、用がない時はカウン

ターの奥にひっそりと立っている。物静かでシャンソン好きな、人の

いい雑用係のおじいさんという感じの人でした。


何回目かのステージが終わり、フロアのあちこちで、お客と歌い手

たちの話が盛り上がり出した頃、シルクハットとステッキを持った初老の

男性が一人でステージに登場し、歌いはじめました。


歌は「ジジ・ラモローゾ」。戦争時代の女の失恋の歌。


歌い始めの時は、お愛想の拍手があったものの、そのあとは、各テー

ブルとも、話が盛り上がっていて、誰も聞いている様子はありません


老シャンソニエは、誰が聞いていなくてもお構いなしに、シルクハットを

被ったまま、ステッキを使い、軽くステップを踏みながら歌い続けます。


歌の合間の語りになった時、老シャンソニエは、眉間にしわを寄せ、遠くを

じっと見つめたまま、語り出しました。

周りを見ると、皆楽しそうに、隣りの人と話を続けています。

語りの間、そしてその後も、私はずっと老シャンソニエの表情を見ていま

した。

 「ジジ、歌ってよ、ジジ

  歌って、みんなのために

  あんたに何もいえなかった私のために」


やがて、歌は終わり、お愛想の拍手の中、老シャンソニエは、シルク

ハットを脱いで一礼をし、微笑みを浮かべながら、カウンターの方に去って

行きました。


私は体の中の底が抜けてしまったような感じがして、こう思いました。

この人は、いままでずっと一人で歌ってきて、これからもずっと一人で歌い

続けていくのだなと。これが彼の生き方なのだなと。


それから10年以上も経って、森田さんのことも忘れていたのに、蛙たちの

看板を見たら、あの頃を思い出して、少し胸が痛くなりました。

もうあの老シャンソニエはいないだろうけれど、かつての記憶の中に戻って

いって、今はもう街では耳にすることもないシャンソンを聞きに行くのも

悪くはないかなと。



この前、北海道産の「つぶの磯焼」というのを食べました。

醤油を貝の中に入れて焼いているせいか、潮の香がぷーんと

して、なんか遠い海を香りで感じているように思いました。


つぶ貝と一緒に飲んだのは、新潟の銘酒、鶴の友。

鶴の友は、新潟の酒の中でも、昔から個性的な酒づくりをする

酒蔵の銘酒です。醸造用アルコールが入った本醸造なのですが、

純米に負けず、きりりとしていて、とてもおいしいお酒です。


つぶ貝を食べた後、貝殻を耳にあてて、何か聞こえるかなと思ったら、

何も聞こえませんでした。つぶ貝では海の響きを懐かしむことはでき

ないのでしょうか。それとも、つぶ貝は寡黙なままで何も語らない貝

なのでしょうか。

貝を食べた後は、お酒の酔いも手伝って、不思議に、海の香りが

そこここに漂っていて、遠くどこかに連れ去られるような感じになりました。

つぶ貝とお酒がちょっと遠くに連れて行ってくれたのかもしれません。


― 私の耳は貝の耳。海の響きを懐かしむ。


それにしても、つぶちゃんは変な人。



生れ変ったような
朝をむかえたい
その日かぎり
死んでも惜しくないような

                      

壺井 繁治 『朝の歌』 から


特に生死を意識するわけではないけれど、

特にそれほど意気込んでいるわけではないけれど、

今日一日のことだけを思って考えてみたわけではないけれど、


まず、今日の仕事をがんばってみる


モスクワの朝は暗く、厳しい

その寒さの中での決意


誰にでもあるような決意だけれど、

固有のこだわりをもって、自らを奮い立たす


今日、集まってくる多くの人たちが笑顔と喜びをもって一日を

終えることができるように


自分もそれが納得できるように

明日からの力とすることができるように


がんばってきます