ある難民の話(2) Human in NY | スクラップブック

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Human in NY


普段はNYで出会った人と1枚の写真と、くすっと笑える話、生きるって大変だよなーとか思わせてくれる
短いインタビューを載せるHuman in NY.(とても影響力のあるサイトでヒラリークリントン等多くの有名人もコメントするサイトです。)

この夏、サイト運営者はパキスタン・イラン・イラク等で同じインタビューを行いました。
今回珍しく6話に及ぶ長編が投稿されました。

昨日は計3話が投稿され、このブログでも紹介しました。
先ほど、残りの3話も更新されましたので、続きを紹介します。
彼は彼の家族はあの後どうなったのでしょう。


前回のあらすじ。
出来れば先週のブログを読んでください。彼の苦悩が伝わります。
ある難民の話(1)
2014年4月 イラクで出会ったムハマドというクルド人の男の話。

シリアで戦争に巻き込まれイラクに,着の身着のままたどり着き、やさしい人に拾われます。
毎日18時間働き1万3000ユーロ(176万円)貯めます。
彼は言いました。
「2週間後、このお金を密航業者に渡してヨーロッパに行くんだ。
何もかも捨ててヨーロッパで生きるんだ!」
--- --- --
彼はヨーロッパに入国できませんでした。
密航直前、父の手術代・家族のISISからの逃亡費にお金を全て使ってしまい、
トルコ・イスタンブールに取り残されてしまったのです。

お父さん:「あの手術費はどうしたんだい?ヨーロッパに着いたのかい? 」

ムハマド:「無事着いたよ! 友達が手術費だしてくれたんだ!」

彼は初めて父親に嘘をつきました。





-- 2015年 ギリシャ コス島にて --

ムハマド:
父さんに嘘をついた後、嘘を現実にするために必死だった。
ある密輸業者に出会い、自分のいきさつを話したんだ。
親切な人で、「残っている金1000ユーロ(13万円)でギリシャまで連れて行ってあげるよ」と言ってくれたんだ。
「俺は他の密輸業者とは違うぜ!俺は神を恐れているし、子持ち出しな。問題なんて起きないさ。」
彼を信じたよ。

ある夜 奴は僕をガレージに呼びだしたんだ。

奴はバンの後ろに20人の人々と一緒に僕を押し込んだ。
そこにはガソリンタンクがあって、僕らは息が出来なかった。
みんな悲鳴をあげ、吐いたりした。

するとその密輸業者は銃を向け「だまれ!殺すぞ」と言った。
僕らは海岸に連れて行かれ、奴がボートを準備する間も、奴の相棒が僕らに銃を向けたままだった。
ボートはプラスティックで出来ていて、たった3mの長さしかなかった。
僕らがそのボートに乗るとボートは沈み始め、誰もがパニックになった。
13人はそのボートに怖くて乗れなかった。
「ボートに乗らなくても金は返さないぜ」
それを聞いて僕ら7人はボートに乗った。

奴は「島まで俺がガイドしてやる」と言ってた。
でも島まで数百メートルのところで、ボートから飛び降り泳いで帰っていった。
「そのまま、まっすぐだ」と残して。

波がどんどん高くなり、ボートに水が入ってきた。
あたりは真っ暗だった。
島なんて見えやしない。
あるのは海だけだった。

30分後ボートのモータが止まった。
あー俺達はここで死ぬんだと思った。

恐怖で何も考えられなくなった。
女性達は泣きはじめた。
誰も泳ぎ方を知らない。

僕は皆に「俺は泳げる!!3人ぐらいなら背負って泳げる」と嘘をついた。
雨が降り始め、ボートは円を描き始め、誰もが恐怖で言葉を失った。
それでも、一人の男がモーターと戦っていた。

数分後モーターが再び動き始めた!!

そこからどうやって海岸にたどり着いたか覚えていない。
覚えているのは、地面に何度もキスしたことだ。
今は海が大嫌いだ。
ほんと嫌いだよ。
海を泳ぐのも好きじゃない。
見るのも好きじゃない。
海に関するもの全部嫌いだ。




-- 2015年 ギリシャ コス島にて --


ムハマド:
たどり着いたのはサモトラキという島でした。
島にたどり着けたことに感謝しました。
「これで安全だ」
私達はそう思いました。

難民申請をしようと、近くにいた人に警察を呼んでもらうよう頼んだ。
「僕は英語が喋れるから僕が難民申請するよ」と、他の難民にそう話していた時だった。
警察のジープが猛スピードでやってきて、急ブレーキで止まった。

彼らは僕らを殺人者のように扱い、取調べを始めた。
銃を向けて「手をあげろ!」と大声を上げた。
「僕らは戦争からたった今逃げてきたんです。犯罪者じゃないです!」僕は説明した。
「だまれ!Malaka(ギリシャ語でならず者)! 」
マラカ。たぶん、一生この言葉を忘れらることは無いよ。
マラカ。マラカ。マラカ。
彼らは僕らをそう呼んだ。
彼らは僕らをそのまま牢屋にぶち込んだ。
濡れた服で体が冷えて、震えが止まらなかった。
眠ることさえできなかった。

3日間食べ物も水も与えられなかった。
「食事はいいです。でもせめて水をください。」警察にお願いした。
「黙れ!マラカ!」彼はそういった。
僕は彼の顔を一生忘れない。
歯並びが悪くて、僕らに何か話すとつばがかかった。
お水をくださいとお願いしている間彼がしたのは、のどが渇いた7人を見ることだけだった。

僕らは船でギリシャ本島に送還されることになり、命を救われた。
20日間そこで取調べを受け、その後僕らは北に向かった。
3週間歩き続けた。
食べるものなど無く、葉っぱを動物のようにむさぼった。
汚れた川の水を飲んだ。
足が腫れ上がり、靴を脱がなければならなかった。

アルバニアとギリシャの国境にたどり着いたとき、
アルバニアの警察が僕らに「難民か?」と尋ねた。
「Yes」
「力を貸そう」
彼は僕らに「日が落ちるまで木陰に隠れていろ」と言った。

僕は彼を信じなかった。
だけど走って逃げる体力なんてなかったんだ。
夜になると、彼は僕らを車に乗せて走り出した。

行き先は彼の家だった。
1週間も彼の家に泊めてくれた。
服を買ってくれ、毎夜食事をくれた。
「遠慮なんてするな。俺も戦争体験者だ。」
「お前達はもう俺の家族だ。ここはお前の家だ」


-- 2015年 ギリシャ コス島にて --

1ヵ月後、オーストリアにたどり着いた。
オーストリアに着いて最初に、パン屋に入った。
そこでフリンツ・ハンメルという男に会った。
彼は40年前、シリアに行った事があり、良くしてもらったと僕に話した。
彼は僕に服,食事,なんでもくれた。
父親のように親切にしてくれた。
彼は僕を 国際社会奉仕連合団体に連れて行って紹介してくれた。
彼らは「何か手助けできる?」と聞いてくれた。

協会も見つけた。
彼らは僕に住む場所を分け与えてくれた。

僕はこの国の言葉を覚えようと自分に誓った。
1日17時間ドイツ語の勉強をした。
児童書を読みまくった。
TVも見た。
出来るだけ多くのオーストリア人に会おうとした。

7ヶ月後
僕の境遇がオーストリアから決められる時が来た。
上手く喋れたと思う。
「面接官にドイツ語でもいいですか?」と尋ねた。
「もうドイツ語をマスターしてるのかい?」面接官はひどく感心し、驚いていた。
面接はたったの10分で終わった。

彼は僕のシリアのIDカードを指差して言った。


「ムハマド、このIDカードはもう要らないよ。 君はもうオーストリア人だ。」




ムハマドさんの動き。サモトラキ島へはどこから渡ったのかは不明です。



◆感想
こんなに長い文章を読んでくださってありがとうございます。
前回のブログを読んだ方はあれ?話が違う?と思ったかもしれません。
僕がすっかりだまされてしまっていたからです。

毎回記事の最後に”ギリシャ コス島より”とあえて書くことで、
彼はまだ、8月の時点ではギリシャ・コス等にいたんだと読者を勘違いさせ、ハラハラさせていたのです。

全て終わった後にわざわざギリシャでインタビューしたんですかね。(笑)
だまされました。

「ムハマドさん軽率すぎるぞ!」という行動が多いです。
でも、無謀を超えないと、ありえなかったのかもしれません。
ギリシャ・トルコの間の海岸では多くの難民の水死体が流れ着くことがこの夏は多かったようですが、
このようなことが、おそらくもっとひどいことが起きていたのでしょう。
胸が痛くなります。

あと7ヶ月でドイツ語覚えて会話できちゃうムハマドさん。
努力だけでなく、才能豊かな人だと思いたいです。
努力だけで、覚えたのなら、やっとブロークン英語ができるようになった自分がミジメになってしまいます(笑)

◆今日の面白画像
「妹達の顔(笑)」

長男「昨日赤い鳥を捕まえようとしたんだけど逃げられたばっかりだったんだ。」
「でも、見てくれやっと捕まえたんだ。ジャジャーーーン!」