父の遺影はいつも、笑ってる。
天国で大好きな酒を、好きなだけ呑んでる事だろう。


クラクション 7

昭和14年2月10日
九州は福岡、9人兄妹の4男として、父はこの世に生まれた。

家が農家だった事もあり、幼少の頃より、家の手伝いをしながら学校に通っていました。

小学生だった父は、おじいちゃんに集金を頼まれたそうだ。
見つからないだろうと、集金袋から50円を盗み、ウサギを買ったそうです。

卯年生まれだったからなのかな?

家に持ち帰る事が出来ず、裏山で飼っている所をおじいちゃんに見つかり、こっぴどく怒られたらしい。

ヤンチャだった父は、毎日喧嘩に明け暮れ、ひどい時には末っ子の妹をおんぶしながら、戦ってたそうです。
「それでも、お父さんは負けへんかったで」と自慢気に話していた。

そんな父も定時制の高校に通い始めました。
その頃には父をボスとする一派を作り、敵対する一派と抗争を繰り広げていたらしい。

貴方は893ですか?

3年のある夜、屋台でおでんをつまみに呑んでた時、敵対一派の奴に背後から、日本刀で首スジを斬られたそうです。
何時も懐に「ドス」を持ち歩いていた父だったが、切れた父は横にあったレンガで相手の顔をグチャグチャになるまで殴ったそうです。

未成年の飲酒は固く禁じられています。
銃刀法違反です。
傷害罪です。

昭和32年の春
18歳になった父は無事?卒業した。

その年父は、布団一枚、一万円札一枚を握りしめ、大阪に移り住む事になりました。

その当時は、お金も無く、仕事も無く、
一日牛乳一杯と食パン一枚で凌いでいたらしい。

その頃の大阪は893組織が盛んで、父も893になるか迷った事があったそうです。
しかし、カタギの一匹狼というスタイル(どんなスタイルや!)で893さん達と抗争していた。

それは、カタギとは言えない。

目立っていた父は、一人でいる所を4人組に狙われ、コテンパンにやられた。
普通ならおとなしくなるはずが、父は違っていました。
仕返しにいったのです。

相手が一人でいる所を狙い、4人に倍返ししたそうです。

そんな生き方だった父も、トラックの運転手の仕事につき、本当のカタギとなりました。

それから数年が過ぎ、父は母と出逢いました。

昭和43年11月3日
二人は結婚しました。

一人から二人家族になりました。

母の話によると、当時の父は、会社の人と喧嘩(口喧嘩)ばかりし、仕事をいくつも変わったようです。
その頃の苦労話しは、母からよく聞かされました。

子宝に恵まれなかった父と母は不妊治療を6年続けました。

昭和49年3月4日
僕が生まれました。

二人だった家族が三人になりました。

幼少の頃僕は、父が帰って来るのが嫌でしょうがなかった。
何故なら、帰って来るといつも夫婦喧嘩が始まるからです。

お皿を投げる母。
手をあげる父。
間に挟まれる僕。

いつも「やめて、やめて」と泣いてた記憶がある。

家賃3万の小さな長屋に住んでいたので、隣近所には、だだもれ状態。

今となって思うのですが、父が全部悪いとあの頃の僕はそう思っていたのですが、決してそうでは無かったのです。

そんな父も、僕には優しかった。

父は僕の学校が休みになると、よく僕をトラックの助手席に乗せ、東京まで連れてってくれました。

東京と言ってもどこか行く訳でも無く、配達物を下ろして帰ってくる、ただのロングドライブ。

決まっていつも、浜名湖SAに寄り、レストランでステーキとピラフが一緒になった「スペシャルコンボ」と言うセットを食べさせてくれました。

それが美味しくて、美味しいくて、今でもその名前を覚えてる。

18歳になった時、僕は父に、バイクの免許をとりたいと言いました。
父は猛反対。
「絶対、ダメだ!」
「暴走族になるつもりか!」

なる訳ないやろ!

僕は父には内緒で、バイクの免許を取りました。
免許証を父に見せた所、あんなに反対していた父が「事故するなよ」と一言だけだった。

平成16年12月18日
成長した僕は、奥さんと出逢い、結婚しました。

三人だった家族が四人になりました。

僕達の結婚式の新郎父の挨拶の途中で、込み上げてくる涙をこらえながらいる父の横顔が印象的だった。

大切に育てられてきたのだと。

平成19年8月12日
息子が生まれます。
父にとっては、初孫です。

奥さんが身ごもったと報告すると「そうか、良かったな」と素っ気なさを感じたが、母が言うには、とても喜んでいたようです。

孫である息子とは、たわいも無い事でよく喧嘩をしていました。
例えば、TV番組の取り合い。

本当にたわいも無い。

そんな父も病を患います。

悪性リンパ腫。
癌です。

一年半の闘病生活。

平成30年2月12日
80年の人生を終える事となりました。
80歳になって2日後でした。

父に心残りがあるとするならば、孫の成長をもう少し見ていたかった事だろう。

冷たくなった父の横に座っている時、背後から何か気配を感じました。
その気配は部屋の中をうろうろと、歩いていました。
見える訳ではありませんが。
あれは、間違い無く、父の魂だった。

今となって思うのです。

もっと、話しをすれば良かった。
もっと、一緒にお酒を飲めば良かった。

それは叶わない事。

僕もいつかは、そちらに行く事になる。
その時は、天国で一緒に酒を呑みたい。

その時が来るまでは、父からもらったこの人生を、奥さんそして息子と一緒に幸せに生きて行きたいと思います。

最後に

僕は、貴方の息子で良かった。

そんな言葉を捧げたい。

80年お疲れ様。
そして、ありがとう。


僕のクラクションが響きますように。

NORI



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読んで頂きありがとうございました。