昨日到着した宿は、いままでと一風変わっていた。なによりも玄関で靴を脱がなくては いけないというのがいままでと違う。一階は絨毯が敷き詰められた広間のようになって いて、応接セットがさりげなく置いて有り、ここでのんびりとくつろぐ事が出来る。 部屋は二階にあり、トイレとシャワーは共同だが、それもかなり綺麗。ホテルというよりも、 でかい家を持っている金持ちの家に招待されたという、そんな感じなのだ。食事も 付くので、なおさらそんな感じだ。

 部屋には網戸もしてあって、蚊の対策は万全なようだ。今日は久々に安眠できそうで ある。そう思い、昨晩意気揚々と床に就いたのだが、やっぱり僕は甘かった。昨晩の 敵は暑さだった。この宿はもうとんでもないほどに暑いのだ。物騒だがドアを開けて 寝る事にすると、少しは風が通ってマシだったのだが、それでも暑さで何度も目が 覚める。やはりここは砂漠の真ん中なのだ。

 ところが、強い日差のために目を覚まして窓から飛び込んできた景色を眺めて、僕はハッとした。 そこにはまるで中世の世界が飛び出てきたような、黄土色の街が広がっていたのだ。 ミナレットと呼ばれる背の高い砂漠の灯台が何本か突き出てている。外に飛び出てみて、もっと びっくりする。城壁に囲まれた都市の広さは、ディズニーランドよりも小さいだろう。 そんな狭い空間に沢山のミナレットやモスク、それにメドレセ(イスラム神学校) などの歴史的建造物がひしめき合っている。西の門から 東の門に連なる通りはタイルで舗装してあり、まるでテーマパークのようだ。 そんな道をのんびりと地元の人が行き交っている。

 


ヒバの街並み


 街の北部にはあまりそう言った建物が見られず、茶色い日干しレンガで作られた 住居が立ち並んでいる。不思議な街だ。といっても観光客はほとんどいない。 同じ宿に泊まっているイタリア人4人組みとフランス人2人組み、それから イギリス人の青年と何度かすれ違ったが、それ以外はほとんど観光客というものを 見なかった。まだ時間が早いからだろうか。

 適当に道を歩きまわって、一つの建物の中に入ってみた。それは昔の王の居城 だったところだそうだ。中に入るといきなりそこはハーレムだった。向って左手 には4つの大きな部屋があり、彩色も細かく施されている。そして正面、右手、 後方には沢山の小部屋があった。昔はきっとここに沢山の美女が居住していた のだろう。一通り見て周り帰ろうとすると、係のおばちゃんが他にも謁見の間と ホテル(?)があるけど見たいか?というので50ソム余計に出してそこに 連れていってもらった。

 


ハーレム


 そこは綺麗に修繕されたハーレムとは違って、かなり傷んだ廃虚だった。普段 訪れる人が余りいないからだろうか、忘れられたまま放置されたようだ。謁見の間 の上に登ってみたが、木が腐っていて階段が途中で途切れ、屋根裏が鳥の 巣になっていた。化粧を施した表(ハーレム)と忘れ去られた謁見の間の対比が とても面白かった。
 


裏の謁見の間は、寂れていた


 さらに適当に歩いて、モスクに入ってみる。モスクの沢山の 支柱一本一本に細かく木彫りの装飾がしてあって、それが印象に残った。ミナレットの上に 登ってみるが、頂上からの景色はあまり良くない。それにとても驚いた事に 頂上には3回分の人糞が無造作に転がっていた。それも最近のものの様で、かなり 臭う。どうも同一人物の代物のようなのだが、いったいなんでこんな所で したのだろうか...。
 


ヒバ全景


 この街の中で僕が最も気に入ったのはカリタ・ミナルというミナレットだ。どうやら 未完成のミナレットらしく、まるでコップをひっくり返したような形をしている。 他のミナレットがスマートなのに対して、このミナレットだけ寸胴なのだ。それが なんだか愛敬があって良かった。

 午前中はこれくらいを見ただけで、暑さにバテテしまい、早々とホテルに引き上げる。 すると、日本人の団体客御一行様が食事を取りにやってきた。先日ブハラで僕が バスに同乗するのを断ったあの団体だ。団体の中には3人のガイドがいて、 僕がお願いして、冷たくあしらわれた日本から来た女性添乗員の他に、現地の 添乗員が二人いた。そのうちの一人、40くらいのおじさんとは、ブハラでも 顔を合わせていて、僕のことを見つけると僕に声をかけてきてくれた。「ブハラでは 申し訳ありませんでしたね。でもどうやら無事ここに来れたようで良かったですね」 彼は僕のことを気にかけていてくれたようだ。  

 


運転手

宿屋の家族


 彼によると、僕のような申し出は今までにも何度か在ったのだそうだ。特に ブハラ~ウルゲンチというのは交通の便が悪く、そんな申し出が多いという。けれども 日本の団体というのは必ず断るのだそうだ。他の国の団体であれば、可能な限り 受け入れようとするのだそうだが、日本の場合はどんなにバスがガラガラだろうと 絶対駄目なのだそうだ。彼もどうして駄目なのかよくわからないという。自分の国の 人が困っていたら助けるのが当然だと思うのだけど、日本人ていうのはとても 良い人ばかりなのに、どうして助けてあげないんだろうねえ。彼はそう言って首を かしげた。
 


イタリア人集団

食事の風景


 ただ、僕にはなんとなく理由が分かる。日本の団体というのはとかく内向的に 固まる性質があり、外部からやってくる侵入者をあまり心地よく思わない。たとえ 添乗員が助けてあげたいと思っていても、その時にはニコニコしていた参加者が 帰国したあと旅行会社にクレームを付け(たいていその場では絶対にクレームを 付けない)結局添乗員の責任になってしまうことがあるのだろう。だから僕は おじさんに「僕は日本人だからなんとなく理由がわかるよ。僕はもう全然 気にしてないから、おじさんも気にしなくていいよ」と言った。そうするとおじさんは やっと笑顔になった。実際にいくら暑さでバテていたとはいえ、一瞬でも他人を頼ろうと した自分にも反省していたところなので、断られてむしろ良かったと思っている。
 


日本人ツアーの専属ガイド二人

フランス人二人組み


 それに、あまりこういう事は言いたくはないが、やっぱりここの添乗員は どこか冷たい、さめたところがある人で、一緒に話をしていて楽しくない人だった。 こういう人と同じバスにはあまり揺られたくない。 僕と再会した時も、先日の一件について全く触れる事もなく、さらに旅行の 予定を聞かれたので簡単に説明すると、「生きて 帰ってきてくださいね」と鼻で笑うような態度を取られた。その後道ですれ違ったので 僕が明るく「こんにちわ。暑いですねえ」と声をかけると、「さようなら」と 言われ、一瞬自分の耳がおかしくなったのかとさえ思った。きっと団体を率いるという のは、その団体に対して気を遣うのに疲れてしまい、外の世界に対する感覚が 麻痺してしまうのだろう。いくら日本語欠乏症に陥っても、こういう態度をされるので あれば話さなくても結構だ。

 ただし、添乗員さんというのがみんなそうな訳ではない。 先日サマルカンドで在った添乗員さんは「そういう 旅をできるのは羨ましいですねえ。きっと僕らのように急ぎ足で旅をしている 人とは全く違った視点で物を見ることが出来ると思うので、十分に楽しんで、いろいろな ことを感じ取ってきてください」と僕をおくり出してくれたものだ。

 ちょっと愚痴になってしまったが、そんな日本人団体客との遭遇の後も、僕は のぼせながら一人街を散策する。もう一つの高いミナレットに登ってみた。こちらからの 景色は抜群だった。茶色い家が遠くまで続いているのが見える。その先には緑地帯 が見え、さらにその先は砂漠が広がっている。ここまで来ると風が強い。そして そんな風がとても気持ち良かった。メドレセを改造した美術館を散策したあとは、今度は 街の北側を歩いてみる。住宅街だ。

 久しぶりに「ギブ・ミー・ア・ペン」攻撃にあった。といっても二人にそう 言われただけなのだが。彼らがこう言うからには、何も考えずにペンをプレゼント してしまう外国人がいるということだ。僕はそれはうわべだけの親切だと思う。 というよりももっと言うならば、それは単なる自己満足であり、本当に彼らの ことを考えるなら、実はそれはしてはいけない事なのだと思う。インドのバック ウォータートリップの時ように、子供たちがコレクション競争をしていて、だから 「ペンをくれー」とボートを追いかけてくるのはちょっと違うが、外国人が 知らず知らずの家に彼らに「物乞いすること」を学ばせてしまっているのでは ないだろうか。  とは言っても、一人の少女は結構しつこかったが、もう一人の少年はちょっと 言ってみただけという感があり、その後会った他の子供たちには全くそんな ことは言われなかったので、インドのブッダ・ガヤほどここはすれていないようだ。

北の門のたもとから城壁に登ってみた。面白がって6~7才の少年二人が僕に付いてくる。 彼らと遊びながら城壁の頂上をつたって西の門まで行ってみた。西の門でまた下に 降りれると思っていたのだが、途中で行き止まりになっており、引き返さなくてはならなかった のだが、彼らとジャレあって歩くのは結構楽しいものだった。4時過ぎに またバテテしまってホテルに戻ると、他の宿泊客達にびっくりされた。「おまえ こんな暑い中うろうろしてたのか。僕らはいままでホテルに避難していて、これから 観光開始だよ」と。確かに彼らの言う事は正しい。結局その後僕は疲れてしまって ホテルから一歩も出る事はできなかった。