朝目が覚めた時、「あれ」と思った。体がふらつくのだ。と言ってもそれほど 大袈裟なものではない。一瞬グラっときただけですぐに収まった。だから、 すぐに旅立ちの準備をした。目指すは古都ブハラだ。ここもオアシスの都である。

 このあたりのオアシスはすべてチンギス・ハンによって徹底的に破壊されつくされたという 共通の歴史をもつ。そしてその後何とか立ち直りチムールにより再興されるのだ が、その時の首都が僕が現在いるサマルカンドだった。そしてその後詳しい事は 忘れたが確かウズベク人の侵入によって今度はこのエリアはコーカンド汗、 ブハラ汗、ヒバ汗国の三つに分裂してそれぞれの王によって統治される時代が 続いた。その後、ソ連時代が訪れるのだが、その時代でもイスラムの伝統を かたくなに守り抜いたのがこのブハラだった。だからここに行くのはとても 楽しみだった。きっと独立国となった今では、更に当時の様子が垣間見れるだろう。

 タクシーでさっそくバスターミナルを目指す。この街ではバスの路線図入りの 地図を仕入れていたので、バスでバスターミナルに行ってもよかったのだが、どうやら 何度か乗り換えなくてはいけないらしく、だからタクシーで行く事にした。 200ソム(160円くらい)だった。バスターミナルに到着したのは8時半。 うまいぐあいにブハラ行きのバスは8時50分にあるという。早速チケットを 488ソム(400円強)で購入して、プラットホームへと行く。

 そこには意外にもバックパッカーが一人いた。しかも結構お年を召した 老人バックパッカー(失礼)だ。オランダから来たのだそうだ。一ヶ月の 行程でウズベキスタンを回ってからキルギスへ、そこから中国のカシュガルへ 抜けてさらにパキスタンに抜けて帰るのだという。キルギスからカシュガル抜け というのはなかなか難関ルートとして知られているのだが、(ネパールから チベットへの国境と同じで中国側がなかなか入れてくれない。ただしカシュガル~ キルギスに比べてキルギス~カシュガルの方が若干成功確率が高いと言われている) それに挑戦すると言っていた。日本にも来た事があるそうで、なかなか筋金入り のバックパッカーだ。

 彼と少し話をしながらバスを待つ。出発予定の8時50分になってもバスは やって来ず、だからきっとこのバスはどこか他の街から来るバスで、遅れて いるんだろうねと彼、エイカーと話をしながら待った。途中で朝食にホットドック なども仕入れて食べた。バスは一時間遅れて9時50分にようやくやって来た。 けれどもそのバスは特に違う街からやってきたという訳ではなくて、目の前にたくさん 停まっていたバスのなかからやってきたようだ。この街始発である。一体何故 一時間も遅れたのかさっぱり分からない。いままでのバスは皆時間に正確だったので、 いまだにこの遅延は謎である。

 いつものように荷物を預けようとしたら、荷物代50ソムを請求された。 タシケントからサマルカンドに行く時は、切符売場で荷物代を取られ、それが きちんとチケットに書かれていたので、そういうものなのかなあと思い、半分払い かけた。彼はきちんとクーポンをくれようとする。が、なぜかエイカーと僕の 外国人勢だけに請求し、地元の人達からはお金を取っていない。それはおかしいと 文句を言うとあっさりと引き下がった。油断ならない。それにしても、騙すんなら もっとうまくやって欲しいものだ。

 ブハラまでは6時間20分の行程だった。タシケントからサマルカンドまでのバス と同じように、前方に所要時間が提示してある。そして本当にその時間通りに 到着した。出発時刻はいいかげんだが、所要時間は結構きちんとしている。 バスは炎天下の中をひた走った。サマルカンドにしてもブハラにしてもオアシスの 街のはずで、だから僕は途中には中国のシルクロードと同じように荒涼たる 砂漠がずっと広がっているのだと思っていた。ところがソ連時代の土地改造計画 というのは大した物で、見渡す限り緑が広がっている。これが有名な綿花畑なのだろうか。 結局ブハラに到着する直前の十数キロを除いては、ずっと畑が広がっていた。 ほんのちょっと垣間見た砂漠は、インドで見た砂漠のように、低木がまだらに 生茂る砂漠だった。

 ところで、バスに乗っている途中くらいから体の調子が本格的に おかしくなりはじめた。最初バスに酔ったのかと思った。この炎天下で、さらに 今日はバスの中ほどの座席にいるので前方が全く見えない。が、ここまで散々バス に乗っていて、ここに来て乗り物酔いというのもなんだかおかしい。そんなはずは 無いと思うけれどもなあと思い、出来るだけ眠るようにしていた。眠ればきっと 気分が良くなるに違いない。

 ところが、ブハラのバスターミナルに到着した後でも、気分は優れなかった。 それほど深刻ではない。歩くのにも問題はないし、吐き気がする訳でもない。 熱もないし頭痛も無い。けれどもなんだかおかしいのだ。エイカーが行こうと思って いるというザラフシャンホテルというところに僕もついて行く事にした。普段 の僕ならさっさとタクシーで行くのだが、今日はエイカーに従ってバスで行く。 結構混んでいるそのバスでは、ずっと立っていなくてはならず、ますます体調が 悪化してくるのがわかった。

 ホテルに着いて料金などを聞く。するとエイカーはすぐに金を払ってそこに 泊ろうとする。部屋をチェックしようとする訳でもない。「だって、ロンリー プラネットに推薦の宿だって書いてあったよ」僕が部屋をチェックしないの?と 聞くと彼はそう言った。ロンリープラネットが何といおうと僕は自分の目を 信じる。だから、僕は彼に構わず「僕はとりあえず部屋をチェックしたい」と 係の人に告げ、彼女に促されるままに2階にあがった。エイカーもそんな僕に 刺激されてか、料金は支払わず僕のチェックについて来た。

 ところがなかなかこのチェックに時間がかかる。部屋を見せてくれないのだ。 その間にトイレでも借りようと思い、工事中の部屋で用を足したのだが、ここで 体調不良の原因がわかった。トイレに座るなり水下痢が盛大に出てしまう。旅を 始めたころは何度かそんな症状にみまわれたが、(確か中国の貴陽と大理、それに インドのアグラでそうなった)ここ半年以上は大丈夫だったので油断していたが、 またやってきてしまったようだ。

 部屋を見せてもらうと、思ったよりも悪くはない。これで714ソム(600円 弱)は御買得だろう。トイレとシャワーもちゃんとついている。ただ部屋も トイレも綺麗とはとても言い難いのが気になった。この下痢がはじまったらたぶん 今日と明日一日はずっと部屋に居る事になるだろう。つまり部屋への滞在時間が とても長くなる訳だ。そういう状況にはあまりふさわしくないホテルだった。 エイカーはロクにチェックをするでもなく、さっさと荷物を置いて、やっぱりここに するよなどとニコニコしていたが、僕は他も当たってみると言って、いったん そのホテルを後にした。

 その後訪れた旧ブハラホテルは部屋はかなり綺麗なのだが、53ドルとちょっと 手が出ない。結局ザラフシャンの目の前にあったバラフシャに泊る事にした。 施設はザラフシャンとそれほど大差なかったのだが、とても綺麗だった事が 決め手だった。料金は20ドルと言われたが、両替証明書を見せるとソムで 支払える事になり、さらにそのからくりで僕にとっては12ドル強の料金に なった。

 部屋に落ち着くと、脱水症状が恐いのでとにかくお茶をもらい、シャワーを 浴びてすぐに床に入った。まだ6時前だったが、時間なんかに構っていられなかった。 結局その後何度も何度もトイレに入り浸ることになった。非常食として 持ち歩いていた最後のカロリーメイトをなんとか胃に収めた。