ウズベク人というのはどうも良く分からない。ここに来て、中央アジアと 一つの枠に括られる中でも、カザフ、キルギスとウズベクの間には大きな壁が あるのだと実感させられた。多分この先に訪れるトルクメニスタンも、タジキスタンも どちらかというとウズベク寄りで、まだ確証は無いが、この地域は二つに 分けられると言ってよいだろう。キルギス人などは明らかにモンゴル人の末裔と 彼ら自身が称するように、顔は東アジア人しており、モンゴル、韓国、日本、それに 中国の漢民族と同じ民族である事がはっきりと解る。カザフ人は微妙なところだが、 濃い顔の日本人といえばきっと通る事だろう。ところが、ウズベク人というのは あきらかに東アジア人とは顔つきが異なる。トルコ系の顔立ちで、文化的には インドの影響も多分に入ってきている。ウズベクのテレビ番組ではインドの映画や 音楽だって流れているのだ。

 そして、インドの影響が強いからという訳でもないのだが、結構こすっからい 奴等が多い。と同時に、僕が外国人だと分かると、とにかく何でもよいから話し掛けてきて、 とても親切にしてくれる人もとても多い。そんな両極端なところもインドとそっくりだ。 時には腹が立つこともあったが、冷静に考えるととても面白い街だ。人々は欲望に 正直なだけなのだ。それは金を一杯ほしいという欲望から、なんだかよくわからない 外国人と話をしてみたいというものまで...。

 朝、さっそくレギスタン広場まで出かけていった。昨日は外しか見なかったので、 今日は是非とも中を訪れてみたいと思ったのだ。昨日、切符売りのおばちゃんには 「明日中を見に来るから」とだけ言って、そこで地図や絵葉書などを仕入れたのだが、 おばちゃんは僕のことをしっかり覚えていてくれた。入場料が120ソムで、写真を 撮影する場合には更に100ソムかかるという。僕が300ソムだそうとすると、 なぜか200ソムでいいわと言って、その分のチケットを切ってくれた。

 



有名なレギスタン広場

内部はこうなっている


 三つあるメドレセの中はきっと博物館のようになっているのだろうと期待して 中に入ったのだが、最初に入ったメドレセ(神学校)の中は見事に全部お土産 物屋になっていた。「コンニチハ、ミルダケネ」とインドで散々聞いた怪しげな 日本語が氾濫している。僕が一人で来た事を告げると、みんな驚く。 更に泊っているところが「レギスタン」だと告げるともっと驚いていた。 日本人旅行者というのは、いわゆる高級ホテルに泊るものだという 先入観があるので(というか、制度上かならずそうなってしまう。バウチャー無し での旅行というのはまだまだ珍しい存在なのだ)僕がそんな安宿に泊っていると 知ると、物を売るのは諦めたようだ。「こいつは金が無い」とでも 思ったのだろうか。かわりに今度は闇両替を持ち掛けてきた。ただ既に大量に 両替済みの僕はその両替の申し出も断って、次のメドレセへと向かう。
 


近く見ると、こんなに細工が細かい

中庭


 これらの土産物屋では、民族楽器を使った音楽のテープを聞かせてくれたり、 シルクのカーペットを織るところを見せてもらったり、またその行程を説明 してもらったりとなかなか面白くはあった。さて、次のメドレセはきっとなにか 面白いものが展示してあるんだろうと思い、中に入るが、なんとここも お土産物屋である。そして最後のメドレセも。まあ、ここは建物を楽しむための 場所なので、しょうがないのかもしれないが、思いっきり観光地化されていた ところにちょっと興ざめしてしまった。しかもお土産物屋の数の方が、その時 観光していた観光客の数よりもずっと多いという状況で、明らかに供給過剰 だ。だからたまにやってきた客を絶対に逃すまいと、さまざまな場所から 「ミルダケ」攻撃をかけられてしまう。憧れのレギスタン広場は蓋を開けてみれば 「観光客向けボッタクリデパート」であった。
 


良く見ると文字が書いてある


このあと訪れた散髪屋


 近くに歴史博物館があったので、そちらも覗いてみる。一階のロビーで 休んでいると、28歳の警官と、15歳の少年が僕に興味を持ったらしく、 すぐに話し掛けてきた。彼らは英語をあまり話せないので、ロシア語を使ってなんとか コミュニケーションをとる。

 彼らと別れて二階にある展示室を周りはじめると、監視員のおばちゃんがいきなり 僕のところにやってきて、どう見ても10円くらいで買えそうなひもを1ドルで 売ろうとしてくる。監視員がいきなり物売りに変身したので、驚いてしまった。 博物館自体は、英語の説明書きがあったので、いままでの博物館よりは知識を 得る事ができてなかなか面白かった。サマルカンドの激動の歴史がよくわかる。 ここは繁栄を謳歌していたまさにその時、モンゴルのチンギス・ハンによって 跡形も無く滅ぼされたところだ。その後チムールがここを首都にチムール帝国を 建設するが、帝国の崩壊後中心はブハラに移り、更に近代はその地位を タシケントに奪われた「過去の都」である。そんな歴史の変遷が克明に展示されて いた。  

 さて、一階におりるとまた例の警官と少年との話に華が咲いてしまった。そして 彼ら自ら他の展示室を案内してくれた。言葉が通じなかったので深い話はできなかったが、 それでもなんだかそんな親切がとてもうれしかった。彼の写真を撮ってもよいかと 聞くと、彼は残念そうに、「今は制服を着ているからダメなんだ」といい、 代りに僕の写真を欲しいとねだった。だから僕はビザ用の顔写真を一枚彼に 渡した。とても喜んでくれた。

 レギスタン広場のでかい鳥が沢山鎖につながれている不思議なカフェで あまり美味くない飯を食った後は、近くの床屋で散髪してみる。この前に切ったのは アルマティでのことだから、もう一ヶ月以上も前のことになる。そろそろ切りたい と思っていたのだ。19歳の陽気な理髪師にサクサクと切られ、150ソムを 払った。あまり気に入った出来ではなかったが何しろ1ドルなので文句は言えない。

 そして訪れたヒビ・ハニム・モスクでムッとする事件があった。入場料を 聞くと300ソムだという。レギスタンも博物館もそれぞれ120ソムだったので、 瞬間的におかしいと思った。けれどもおばちゃんはなにやら書類を取り出して 、ここに判子が押してあるでしょといって澄ました顔をしている。更に写真撮影 料は200なのだそうだ。これは高すぎると思ったが、そんなものなのかもしれない と思い、写真の撮影はしないと言って300ソムを払った。チケットには料金は 書いていなかった。(レギスタンも博物館もきちんと値段入りのチケットをくれた)

 釈然としないまま中を巡るが、ここは修復工事中ではっきりいって見るべきものは ほとんどない。なんだか工事現場を覗いているみたいなのだ。閑散としたモスクで 久々に旅行者というものに出会った。そこでここの入場料をきいてみると彼は カメラ代込みで200ソムだったという。300払った時に高いとは思ったが、 ここは(たぶん)公共の建物で、観光地の入場料なのだからまさかボラれることは 無いのだろうと思っていた。インドでさえこういう所の料金というのはしっかり していた。中国然りだ。ところがあの悪どいおばちゃんは、ボッたのだ。すぐに 僕は入り口に引き返して一通り文句を言う。そういうと、「日本人とイタリア人は 300なのよ」などと開き直る。(なぜこの二国だ?)そんなはずは無いだろうと けんかしていると、ロシア語を話せる他の観光客が「いったいどうしたんだい」と 寄ってきた。僕が訳をはなすと今度はおばちゃんは「それは撮影料金込みの値段だ」 と言いはじめた。このおばちゃんも最後まで懲りない。結局最終的に100ソム は返ってきたが、絶対にあそこは200もしないはずだと思う。

 その後もしっくりこなかった。コーラを買おうと思い、値段を聞くと50だと いわれる。この街のコーラ相場は安くて25、高くて30のはずだ。それくらいは 押えてある。僕は25なのか、30なのかというつもりで聞いたのに、帰ってきた 答えは50だ。僕は「この嘘つき」といってその場を後にした。周りにはそこら中に コーラ売りの屋台が立っていて、何もここで買う必要はなかったのだ。彼は僕が さっさとその場を後にするとは予想していなかったのだろう、すぐに30まで 下げてきたが、僕はもうそこで買うつもりが無くなっていたので、「嘘つきの ところでなんて買わねえよ」と日本語で捨て台詞をはいて次の屋台へと移った。 モスクの一件からボッタクリが重なったこともあって、僕もちょっとキレていた。

 が、次のコーラ屋台でも35と言われてしまう。だからまた僕は「嘘つき」と 言うしかなかった。結局3軒目で25ソムのとても冷えたコーラにありついた。 金額の問題ではない。そういう姿勢に腹が立ったのだ。

 ところでその後訪れたシャーヒ・ジンダ廟でも面白い事があった。そこの入場料 も聞くところによると120ソムだ。試しに「負けてよ、100になんない?」と きいてみると、切符売りのおじちゃんはしばらく考えてから、「よっしゃ、わかった。 でも誰にも言うなよ」と言って負けてくれたのだ。この120という料金は でかでかと案内板にも書かれていたので正当な料金だったようだ。旧跡・名所の 入場料でボラれたのも初めてなら、負けてもらったのも初めてだ。なんだかやっぱり 不思議な国だ。  

 


ジャーヒ・ジンダ廟

上から工事のおじさんが顔をだす


 ところでこのシャーヒ・ジンダ廟はいままで見たサマルカンドの旧跡のなかでは 一番気に入た場所だった。あまり手を加えないままに、昔ながらの青いドームが いくつかそびえている。そして古くなった青いドームの中からは、草が生えているのだ。 時代の移り変わりを感じさせる。そうは言っても奥の方は工事をしているところで、 そんな作業員の何人かとまた親しくなった。いろいろな話に盛り上がる。そして 帰ろうとすると、「おみやげだよ」と言って、星型のタイルをくれた。これはここの 建築材料として使われていたか、あるいはこれから使うかという物だったので、 そんなものをもらって良いのか迷ったが、強引に僕の手に握らされていた。
 


切符売りのおじちゃん達

たまたまいた親子

ここが一番趣きがあるともった

特に天井に生えた苔のような草が歴史を感じさせる


 最後に、丘の上にある博物館に行ったのだが、ここも入場料は120だった。なんだか サマルカンドの旧跡・名所というのはすべて入場料が120で統一されているらしい。 ここでは100ソムで英語ガイドサービスがあるというので、それをお願いしてみる ことにした。そうすると理解の深さが全く異なる。ここの見所は、旧サマルカンド (モンゴル襲撃前の)から出土した壁画で、当時のサマルカンドの栄華が忍ばれる ものだった。シルクロードの十字路としての役割を果たしていたらしく、韓国や 中国も含めてさまざまな国の使節がやってきている様が描かれている。ここも なかなかヒットだった。

 帰りはバスでホテルに戻ってこようとすると、うっかり乗り過ごしてしまい、運転手に 一度終点まで行ってから引き返すから、それまでバスに乗っていなさいと親切な 申し出をしてもらい、なんとかホテルに戻る事ができた。

 沢山の親切と沢山のボッタクリに囲まれた一日であった。