1991年のある夏の日。僕はバックパックに物を詰めていた。明日から 待望の旅行である。今回は次郎と二人。僕にとって二度目の海外。一回目は アメリカへの40日間ホームステイ体験だったから、実質的に今回が 初めての海外旅行となる。飛行機にも乗ったことが無い次郎にとっては今回が もちろん初めての海外体験。僕らが大学3年の時の夏であった。


 行き先はソ連。計画は完璧だった。シベリア鉄道に乗ってみたいという僕の 希望と、中央アジアに行ってみたいという次郎の希望を合体させて、横浜から 船でナホトカへ、その後シベリア鉄道にてハバロフスク、イルクーツク、モスクワ と巡り、飛行機でモスクワからサマルカンドへ、そしてブハラ、ウルゲンチ、ヒバ とまわり、タシケントからフェルガナ、コーカンドへ、最後にまたタシケントから ハバロフスクに戻り、そこから飛行機で新潟へと飛ぶという計画だったのだ。

 当時のソ連というのは、自由旅行は全く許されておらず、だから、事前に すべての予約を済ませて、バウチャーと呼ばれるクーポンを提示して初めて ビザが降りるシステムになっていた。だから僕らは何ヶ月も前から計画して、 何度か旅行会社に足も運んで、完璧なプランを練ったのだ。 このプランはあまりにも完璧すぎて、旅行会社の人にも感心された程だった。

 明日の今ごろは太平洋の上かなどと思いを巡らせ、僕は鼻歌交じりでパッキングを していた。高いお金を出して、ロシア語辞典も仕入れてきたし、バスタブの栓に 使うためのゴルフボールも買ってきた。お金も細かいドルを準備したし、バウチャー も何度も確認した。気分はもうシベリア鉄道だ。と、その時次郎から電話が 入った。ちょうど台風が近づいていて、それだけが心配だったのできっとそのことで なにか電話してきたんだろうと思った。けれども次郎の声はもっとせっぱ詰まっている。 「おまえ、テレビ見たか。」「え、何かあったの」 のんきな僕の反応からしばらくして、次郎が重たく口を 開く。「ゴルバチョフが失脚したぞ。クーデターだ。」 それを聞いて僕の思考は止まった。

 その後何度も次郎と電話で話をして、他の友人にも話を聞いたり、旅行会社とも 話をしたりして、結局旅行はキャンセルする事になった。僕は最後まで行きたいと がんばったのだが、次郎はこんな状況の中旅をしたくないと言う。その時の 状況ではこの先どうなるか全く予想できず、確かに一歩間違えば取り返しのつかないことに なっていただろう。結局エリツィンの協力もあって、事態はそれほど深刻にも ならずに終息に向ったが、結果としてソビエト連邦の崩壊とそれに続く数々の内戦へと発展 して行くのである。たとえば僕らが行こうと計画していたフェルガナやコーカンド では実際に戦争が勃発している。

 最後は次郎の一言が決めてだった。「自分の危険という意味でも行きたくないというのも あるけれど、もう一つ。現地の人達が混乱していて大変な時期に、のほほんと その地域を旅行なんてしたくない」確かに僕らの計画では各地で最高級のホテルに泊り( それしか選択肢が無かった)時にはタクシーと通訳を雇って近場の観光に行くという 大名旅行であった。現地の人達が今後の生活に対して不安を抱いている混乱期に、 そんな旅行をするというのは、確かに僕が反対の立場だったらその神経を疑う。

 そんな次郎の説得もあり、僕らは旅行会社にキャンセルしたい旨を連絡した。 旅行1日前のキャンセルであるので、すでに収めてある旅行代金のほんの一部しか 返ってこないだろうと予想していた。けれども、旅行会社は「彼らとソ連の旅行会社との やり取りに要した実費だけはどうしても頂かなくてはいけないが、その外については 状況が状況だけに、全額お返しいたしましょう」と言ってくれた。更に次の日 旅行会社に出かけて行くと、結局その実費の部分も含めて、収めた金額すべてを 返してくれた。とても良い旅行会社だった。(実は次の年に、今度は一人で シベリア鉄道に乗ったのだが、その時この旅行会社を訪ねると、担当の人は 僕のことを覚えていてくれ「あ、去年のプランを実行するんですね」と 書類一式を取り出してきた。今回はシベリア鉄道だけだというと「あらそうですか。 残念ですねえ。是非ともあのプランを実行して欲しかったんですけど」と言われた)

 バイトの休みも取って、お金も全額返ってきてと言う事で、僕らはそのお金を 使って国内旅行をする事にした。青春18切符を使って、ユースホステルを巡り、 沖縄まで行ってきた。ソ連は残念だったけど、それはそれでとても思い出深い旅であった。 そして、その旅行から帰ってくると、そのソ連という国はいつのまにか無くなっていた。

 さて、そのプランの中でも僕が一番行きたかった街が「サマルカンド」だった。 すでに訪れたフェルガナやコーカンド、それにタシケントもその計画には含まれて いたのだが、そこで一体何が見たかったのか今となっては全く思い出せない。 けれどもこのサマルカンドだけはどうしても訪れたかった。街の中心にある メドレセやチムールの墓であるグル・エミル廟など、真っ青な屋根の ドーム状の建て物の写真をガイドブックで見た時から、僕はこの街のトリコに なってしまっていた。

 そしてようやく夢がかなった。次郎には悪いが、一人で先に夢をかなえてしまった。 あれから7年。僕は今そのサマルカンドにいる。ようやく青いドームの街に 立っている。

 


ようやくサマルカンドに到着


 タシケントを10時に出発したバスは3時45分にサマルカンドのバスターミナル に到着した。バスの中の表示にはサマルカンドまで5時間45分ですと書いてあったのだが、 途中でバスが故障して30分ほど修理のために停まっていたので、きっと時間通り になんか着かないだろうとタカを括っていた。けれどもまるで日本のバスのように 時間ぴったりにバスはサマルカンドのバスターミナルに滑り込む。

 途中の景色はどこまでも平原で、いままで必ず視界に入っていた山がどこかに 消えてしまっていた。けれどもサマルカンドに近づくにつれて、今度は背の低い なだらかな山がいくつか出現し、その山を越えたところが街だった。バスターミナル のコーラ売りのお兄ちゃんに「安宿知らないかい?」と聞いてみると、いろいろと 相談してくれた結果「レギスタン・ゲスティニッツア」が良いのではないかと 教えてくれた。近くにいたタクシーの運チャンにそのことを言うと、「いいのかい、 あそこはトイレも共同だし、シャワーも無いよ」との事だったのだが、とりあえず そこを見てみて気に入らなければ明日にでも宿を移れば良い話だ。そう思い、 とにかく200ソムでそこまで連れていってもらう事にした。

 バスターミナルからホテルまでは意外に遠く、最初高いと思っていたタクシー代も 結構妥当な線かもしれないなと思った。運チャンは陽気な男で、途中で歌なども 歌ってくれる。歌付きで200なら安いかもしれない。ホテルの人は とても親切で、僕が泊りたいというと「どうぞ、どうぞ」という感じで部屋を見せてくれた。 ウズベキスタンのホテルにはどこか「泊めてやる」という姿勢が随所に見られたのだが、 ここは「泊ってください」という感じでなかなか良い。一泊1000ソム。 僕のレートでだいたい6.5ドルだ。部屋の造りはコーカンドで泊った時とほとんど 同じで、ベッドが二つ並んでいる部屋に、小さな洗面台が付いている。トイレは 同じフロアーに共同の物が二つあり、シャワーは別の建物に共同のものがあった。 まあ、こんなもんだろうと思い、このホテルに泊る事にした。

 さて、荷物を置くと、居ても立ってもいられなくなる。あの憧れの青いドームが すぐそこにあるのだ。ちょっと疲れてはいるのだが、ホテルでのんびりとしている 気分ではない。僕はすぐに支度をして、三つのメドレセが集まっている レギスタン広場までバスに乗って出かけていった。今日はその広場で建物の外観を見る だけにして、中身は明日の楽しみに取っておこうと思い、中には入らなかったのだが、 その建物を見ているだけでも十分に圧倒される。幾何学模様を配した巨大な 壁の上に真っ青なドームがいくつか輝いている。そんな大きな建物が向き合うように 3つ並んでいて、それが絶妙に調和している。

 僕はその広場に一人座って、20分ほどずっと建物を見ていた。太陽の光を 反射した建物は眩しく輝いている。真っ青な空を背景に、それよりも真っ青な ドームがくっきりと浮き出ている。ついに来たんだ。迫ってくる建物に 圧倒されながらも、僕は一人感慨を踏みしめていた。

 帰り道でおかしな事があった。他のホテルはどんなものなのかを知りたくて 遠回りして帰ったのだが、そこで10歳と12歳の少年に声をかけられて、 なぜか一緒に遊園地に行ってきたのだ。たぶん彼らはロシア人かタタール人の どちらかだろう。(まだこの辺の見分けはつかない)特に10歳の少年は いつもニコニコしていてとても可愛く、一緒に観覧車に乗るととても喜んでくれた。 時間がもう7時半近くだったので、彼らとはその遊園地で別れて僕は一人 ホテルに戻ってきたのだが、そんな出会いもまた楽しいものだった。

 


一緒に観覧車に乗った凸凹コンビ

サマルカンドの教会にて