朝から忙しくカーチャとリーラに別れを告げて家を出た。カーチャにロシア語で 書いてもらった案内を手に、早速オビールにむかう。タクシーはまた言い値が とんでもなく高かったが、僕がぴしゃりと100で行けというと、簡単に 同意してくれた。どうもこの国タクシーには拍子抜けしてしまう。本当に 簡単に値を下げてくるのだ。とにかく一度は高く言ってみるというのが 習慣になっているようですらある。これはどうも僕が外国人だからという訳でも ないらしい。そもそもこの街に外国人なんてほとんどいない。特に 旅行者なんて全然いない。
 


カーチャとリーラ


 オビールでは1時間以上も待たされた。スタンプを押すだけなのに、一体どうして こんなに時間がかかったのか謎ではあるが、なにしろここは元社会主義国。そんな ものなのだろう。けれども待っている間中全く退屈しなかった。というのは、 たまたま隣に座りあわせた親子が僕に興味を持ってくれて、英語を少し話せる 息子のほうが僕に話し掛けてきたのだ。話した内容は他愛もないものだったが、 それでもとても楽しかった。僕がパスポートを受領すると、一緒にプロフを食べに 行こうと誘ってくれる。そこで近くのカフェに行き、彼らに昼飯をご馳走になった。 お父さんのほうは、是非とも今日は家に泊って行きなさいと言ってくれたが、僕が やんわりと断ると、それほど落胆した様子もなくあっさりとうなずいた。彼ら 親子とはそこで別れた。
 


オビールで会った親子


 ちなみにパスポートに押されたスタンプは、他の国だったら ビザに相当するほどに大きく、立派なものだった。それにきちんと 料金のところに20ドルと記載されていたので、どうやらこの20ドルというのは 正当な値段らしい。オビールの係員によると、これで僕はウズベキスタンのどこへ 行っても問題無いそうだ。

 そこで早速コーカンドへ向かう。タクシーでバスターミナルまで100ソム、 バスはコーカンドまで150ソムだった。2時間の道のりはあっという間で、 バスは2時前にはコーカンドのバスターミナルに滑り込んだ。情報が無い時には まずバスの車掌から情報を得るという鉄則通り、道中幾度か言葉を交わした 車掌に安宿の名前だけを聞き出しておいた。すると「ゲスティニッツア・コーカンド」 というのが良いだろうと教えてくれる。200ソムくらいで泊れるのだそうだ。 200ソムといえば、闇レートで1ドル強、銀行レートでも2ドル強の値段だ。 確かに安い。バスターミナルからの行き方を聞くと、タクシーで50ソムくらい だというので、その助言に従って、早速交渉しはじめる。

 けれどもやはりウズベキスタンのタクシーだ。みんな最初は300ソムだなどと ふざけたことを言ってくる。50で行ってくれと言うとみんな「それじゃあ バスで行け」と冷たい。ようやく一台100で行ってくれるタクシーを見つけて、 車に乗り込んだ。ところがこのタクシーは思いっきり白タクで、「今 妻が市場に買い物に行っているから、しばらく待ってくれ」という。つまり 買い物帰りのアルバイトというわけだ。ホテルまでは意外と 距離があり、5分ほど車に乗って、ようやく到着した。車を降りると、彼は 150と約束したはずだとまた寝ぼけたことを言ってくれたのだが、僕が 全く耳を貸さないのを悟ると、諦めて帰っていった。

 このホテルは、両替証明書なんて全く必要なかった。簡単に泊めてくれる。 料金は1ベット200ソム。ただしツインの部屋しかないので、400ソムに なるという。なるほど、車掌が教えてくれた200というのは1ベットの料金だった ようだ。とはいっても400でも充分に安い。部屋を見せてもらうと、その 料金にしっかりと見合った質だったのだが、まあ文句はない。それにこの街に それほど沢山のホテルがあるとも思えず、ここに決める事にした。

 


コーカンドの広場


 部屋には小さなベッドが二つ、それに小さな洗面台が一つある。トイレは共同 で、シャワーも勿論無い。シャワーは一階に共同のものが一つあるのだそうだ。 料金が料金なだけに、文句など言っていられない。ただ、電球が洗面所の ところと、部屋の中央に二つあるのだが、最初に入った部屋の中央の電気は 切れていて点かなかった。さすがにそれでは困るので、それについて文句を 言うと、隣の部屋に替えてくれた。ところがこの隣の部屋は中央の電気は 点くのだが、今度は洗面所の電気が点かない。もう文句を言う気力も なくなり、しょうがないので自分で電球を買いに行く事にした。

 さて、その前にシャワーである。ビシケクと同様フェルガナも現在お湯工場の 整備の為、町全体のお湯の供給がストップしていた。だから2日間風呂に入れなかったのだ。 幸いフェルガナは乾燥していたので、それほど辛くは無かったのだが、ここは結構 湿気も強く、だから体がべたつきはじめた。そこで早速シャワー室へと直行した。 ただしここもお湯は出なかった。蛇口は二つあって、両方とも一応作動するのだが、 一方からは冷たい水が、もう一方からは冷たくない水がでるという感じだった。 素っ裸になってしまっていた手前もう引くに引けず、しょうがないので「冷たくない 水」を使ってなんとか汚れを落とした。  

 その後は博物館へと出かけていった。ここは元コーカンドハン国の首都で、 その最後の王が住んでいたところを郷土博物館として公開しているのだそうだ。 ホテルから10分くらいてくてくと歩いて行って到着したところは確かに 博物館というよりは、完全にお城だった。入場料100ソムというのは高い気が したが、意外に大きな博物館だったので案外こんなものなのかもしれない。 ここは展示品というよりも、内部の装飾がとにかくすばらしかった。天井や ドアの細工が当時のままになっているのだろう。これだけでも一見の価値が あると思った。

 


突然写真を撮ってくれとたのまれた。

博物館の内部


 最後のコーナーでは係員のおじちゃんがのんきにお茶なんか飲んでいて、 僕にもお茶を勧めてくる。彼のところにはコーカンドの地図もあったので、 50ソムで一枚仕入れた。やはり地図があるのと無いのとでは大違いだ。明日すぐに タシケントに行こうとは思っているが、それでも50ソムならば買っても 損は無い。お茶を飲みながらいろいろな話をした。ここには旧日本軍が 強制労働で多く滞在していたことがあるらしい。また一つ新たな歴史を知った。
 


街がだんだんイスラム調になってきた

こんな建物もある


 地図も手に入れた事だし、その後はバザールへ電球を仕入れに行った。 バザールまではかなりの距離だが、観光がてら歩いて行くのも良いだろう。 その道中、沢山の人に声をかけられた。僕が景色などを写真に収めていると、 それを見た人が自分も写真に撮ってくれと集まってくる。まるでカシュガルの ようだ。中には、僕を追いかけてきて「一枚撮ってくれないか」と言う人まで いた。あるいは写真に関係無く、僕の姿を見ると、追いかけてきて握手を 求める人までいる。ここもフェルガナやオシュと同様、ほとんど観光客と いうのはいない。ただでさえマイナーな中央アジアの中で、更にマイナーな 地域なので、当り前といえば当り前だ。たいていみんな最初に「中国人か」と 聞いてくるのだが、僕が「日本人だ」と言うと更に目を丸くした。 先ほど話した博物館の親父によると、ここには日本人はほとんど来ないのだそうで ある。
 


井戸端会議の最中

子供と一緒に
 

レーニン像がまだあった

雑貨屋。思ったよりも種類が豊富
 


 それから僕が日本人だというと、何人もの人が「昨日日本はアルゼンチンに 負けたよ」と教えてくれた。これはサッカーのワールドカップだ。ウズベキスタンは もちろん出場していないのだが、関心はかなり高いようだ。特に年配の人から 話し掛けられた時には十中八九この話題になった。

 ところで一つ困った事が発覚した。ここからタシケントまで簡単にバスで行けると 思っていたのだが、バスターミナルの人によるとここからタシケントまではバスは 無いのだと言う。タクシーに頼るしかないのだそうだ。乗合で人が見つかれば だいたい一人1000ソム。一人でチャーターすると4000ソムになってしまう という。これはちょっと困る。といっても選択肢は無い。 念のため複数の人にバスの情報を聞いてみたが、皆答えは同じだった。 誰かシェア出来る人が 見つかる事を祈って、明日早めにバスターミナルに行くしか方法はなさそうだ。