ムフタールとオシュの街


 中央アジアに入ってから、ずっと人と人とのつながりの中を泳ぐようにして 旅している。アルマティーでのナギズからチムケントでのアルマンへ。アルマティでの ビョンジュからビシケクのスンギュへ。そして今回もビシケクの「先生」から ムラートを通してオシュのムフタールへと。

 今朝ようやく彼らとゆっくり話すことが出来た。ムフタールは留学帰りなので、 英語が堪能なのは分かるが、お母さんのほうはどうしてなのかと思い聞いてみると、 彼女は大学で英語を教えているらしい。お父さんも英語教師なのだどういう。 つまり英語一家だ。ムフタールにしてもムラートにしてもアメリカ留学をしているので、 一体ここはどれほど裕福な家庭なんだろうと思ったが、二人とも奨学金をもらって 行っただそうだ。ムフタールは去年の東南アジアの通貨危機で有名になった ソロスの主催する奨学金で留学したのだと教えてくれた。何でもこれは旧ソ連と 東欧の学生を対象にした留学プログラムなのだそうで、彼はつい一週間前に 留学から帰ってきたばかりだ。

 お互いの自己紹介を簡単に終え、僕のこれからの予定を説明した。つまり、ウズベク ビザが13日からなので、それまでオシュに居たいということ、ついては安い宿を 紹介して欲しいということだ。そうすると、彼らは彼らの家に泊れば良いと 言ってくれる。それならば、食事込みで一日5ドルでどうだろうと僕の方から提案し、 彼らは快く了承してくれた。そしてお母さんがてきぱきと僕のこれから三日間の 予定を立ててくれる。今日はムフタールに時間があるので彼と一緒に街を周ってはどうか、 ついてはこことそことあそこに行ってきなさい。それから明日はオズゲンという近くの 古い街に行くといいだろう。そして明後日は山にいきなさい。とまあこんな感じだ。

 そんなお母さんの助言にしたがってムフタールと僕は街へと繰り出した。ここは キルギス第二の都市で、人口が25万人ほどいるのだそうである。街の真ん中には 山がそびえていて、そこは見所だから是非とも行きなさいとビシケクに居る時に ムラートにも推薦されていた。だから、ムフタールにお願いしてその山に連れていってもらう。 歩いてほんのわずかな距離だ。山の上からみるこの街は、中央アジアの他の街と 同じく本当に緑豊かで感心させられる。日差しが強く、眼下に見える家々の白い屋根が 輝いてみえた。

 ムフタールは完全に僕らと同じ顔をしている。彼が日本にいたら、まず間違いなく 皆日本語で話し掛けるだろう。実際に彼がアメリカにいた時も、たいてい日本人 に間違えられていたのだそうだ。彼は24歳で、なかなかのイケメン。1年間のアメリカ 生活で、ちゃっかりアメリカ人の彼女もつくってきたそうだ。そして、現在は 超長距離恋愛になってしまい、それについてとても悩んでいた。

 僕が彼にアメリカは好きかと聞くと、意外に思慮深い答えが返ってきた。彼は こう言った。「最初アメリカに着いた時にはすべてに驚いたよ。今でも忘れない。 着いた次の日に窓から外の景色をみると、ピカピカの新しい車ばかりが街に溢れていて、 街はゴミ一つ落ちてなければ、どこか壊れているわけでもない。「先進国」というのは こういうものなのかと思ったね。でも1年生活していて必ずしそれがいいことばかり じゃないんだということがわかってきた気がする。何でも有りすぎるんだよね。だから 人々がなんだかおかしくなってしまう。キルギスでは考えられないような事件が 頻繁に起きるんだ。たとえば、学校で少年が銃を乱射して先生や生徒を死なせると いう事件があった。心が病んでいるとしか思えないよね。それは快適すぎる 生活が一つの原因じゃないかなと思うようになったんだ。そして逆にキルギスの 良さが見えてきた。僕はアメリカ人になりたいとは思わない。キルギス人に生まれてきて とても良かったと思っている」

 彼はアメリカについて語っていたのだが、僕はそれが日本の事とダブって仕方がなかった。 何でもありすぎるから人々がおかしくなってしまう。それは今まさに日本で 進行しつつあることじゃないだろうか。

ムフタールとはずっと話をしていた。 キルギスのこと、日本のこと、アメリカのこと。これまでの人生のこと、これから の人生のこと。そんな話をしながら、僕らはオシュ大学を訪れ、 それからバザールに行った。大学は中まで入っていって いろいろと見学したのだが、僕の行っていた大学と造りがかなり似ていたので うれしくなった。バザールは今迄のバザールとさほど代わり映えはしなかったが、 僕らはお母さんにお使いを頼まれていて、真剣に物を選ばなくてはいけなかったので、 それが新鮮で楽しかった。トマト、きゅうり、きゃべつ、さくらんぼ、マヨネーズと 買い物リストに従って購入して行く。いくつもの店をまわって、値段と質の見合うものを ムフタールと相談しながら買っていった。別にそう言われたわけだはないが、ここの 勘定はすべて僕が持った。なんだかそうしたかったのだ。

 途中郵便局に寄って、それから一度家に帰ってくる。そうするとお母さんが 昼食の用意をして待っていてくれた。そこにはムフタールの妹のジュルディスも いた。14歳のなかなか可愛い女の子だ。今は長い夏休みの最中なのだそうだ。 彼女は英語を解するのだそうだが、シャイであまり話に乗ってこない。 けれどもまた例によってムフタールやお母さんとは沢山の話をしながら昼飯を食べた。 たった今買ってきたばかりの野菜も食卓に並んだ。トマトがとても新鮮でおいしかった。

 食後はムフタールとお母さんの提案で、市議会の建物と公園、それから川に行ってみる ことにする。お母さんの頼みで、ジュルディスも一緒に行く事になった。もちろん ムフタールも一緒だ。また沢山 歩く。ドラマ劇場やレーニンの像などを見ながら議事堂を通過し、公園までやってきた。 この辺の街のつくりはロシアの匂いがプンプンする。街を歩いているとロシア系の 人はほとんど目にしないのだが、こんな所からもこの街がかつてソビエト連邦の 一員であったことを思い知らされる。

 公園で、ムフタールと卓球をすることにした。チムケントでも街角で卓球をしている 人を見掛けたが、この国でも卓球は手軽な娯楽として親しまれているらしい。ムフタール がテニスをしようというので、本当のテニスだと思ったら、公園のなかに屋根だけで 壁の無い建物があって、そこには卓球台が数台置いてあった。彼に言わせると 僕らの言うテニスは「ビッグ・テニス」なんだそうで、僕らの言う「テーブル・テニス」 たテニスなのだそうだ。そして彼は最近この卓球に熱中している。

 僕が卓球ラケットを握るのは、中国の桂林でやって以来なのでほぼ一年ぶりだ 。3セットマッチを やったのだが、1セット目は21-19で取られたものの、2セット目は21-12で取り返し、 しかしながら3セット目は21-18で取られ結局負けた。 でもまあ毎日やっているムフタールが相手だったので、善戦したと言って良いだろう。 ジュルディスは僕らに加わらなかったので、退屈したんじゃないかとちょっと心配 したがそうでも無かったようだ。公園の前でアイスクリームとコーラを飲んで、 川を経由して僕らは家に帰ってきた。とても沢山歩いて、かなりくたびれた。

 その後もムフタールの部屋に行って、彼がアメリカで撮った写真や、買ってきたCD などを見せてもらった。彼は音楽が大好きで、なんとアメリカで200枚もCDを 買ってきたのだという。クラッシックからハードロックまでかなり幅広く買ってきたようだ。 「ここでは買えないから、まとめて買ってきたんだ」と言う。そんな写真やCDを 見ながらも、また僕らは取り留めの無い話で盛り上がった。

 夕食にはプロフを食べた。中央アジア料理で僕が大好きな料理の内の一つだ。 羊の肉を使ったピラフで、こっちのものはバターがきいていてとてもおいしい。 お母さんにお酒を勧められて、とても強い酒を一杯だけみんなで飲み干す。

 つながりがつながりを呼んでいる。出会いが、出会いを呼んでいる。そして それがいつも良い方向に回っている。彼らとの会話を楽しんでいて、 こんな循環をいつまでも続けていけたらいいのに と、そう思った。