早起きしてスンギュに別れを告げた。彼はこの後も長くこのあたりに住むつもりなのだ という。彼自身も僕のように旅をするのが夢だったのだそうだ。けれども既に家族を もち、仕事も忙しい彼にはその夢をかなえる事はできないだろうと言っていた。だから それを実行している僕にこんなに親切にしてくれるのだ。僕らのことを忘れないで くれと言って彼は一枚の写真を僕にくれた。それは彼がテコンドーの胴着を来て、 足をほぼ垂直にあげている写真だった。彼はバス停まで僕を送ってくれる。別れと 言うのは何度経験したとしても慣れるものではない。また辛い時間だった。

 ところでオシュに行くバスというのは存在しない。オシュとはここから750キロ ほど南に行った所にあるキルギス第二の都市なのだが、そこに行くまでには3つの 峠を越えていかなくてはならないらしく、更に道があまり整備されていないので バスは禁止されているのだそうだ。なんでも去年あまりにも事故が多かったために それでバスが廃止されたのだという。いったいどんなひどい道なのかわからないが、 けれども景色を楽しみたい僕としてはそんな悪路であっても是非とも陸路で行ってみたい。 昨日いろいろ助言してくれたムラートは、飛行機で行ってはどうかだとか、陸路で 行くのであれば、ウズベギスタンの方から周ってはどうかなどといろいろな アドバイスをくれたのだが、僕は結局その山越えに挑戦する事にした。

 ここには乗合タクシーというシステムが在るらしく、運良く人が集まれば数人で そのタクシーをシェア出来るらしい。そう言えば、前回僕がビシケクからアルマティに 行こうとした朝に、一人の紳士が僕の部屋を訪ねて来て、「僕はこれからオシュに 行くんだけど、もし良かったらタクシーをシェアしないか」と申し出てくれたことが あった。その時は僕はアルマティーに行こうとしていたので、断ったのだが、そんな 人がきっと沢山居るのだろう。だから僕はバスターミナルの前にタムロしている 乗合タクシーの集団と話をして、他の客を待つことにした。 タクシー一台で1800ソム。90ドルだ。これを4人でシェアできるので、一人 450ソム、23ドルほどということになる。750キロという距離を考えると、 妥当な線だろう。

 タクシー乗り場には、英語を話す陽気な男が一人いて、彼と話す事で時間を潰す ことが出来た。彼は日本のことをとても良く知っている。原爆の話から、オリンピック の話、それにオウム真理教の話まで知っていた。それ以外にも首相の名前や現在の 為替レートまでだいたい押えている。僕らがキルギスのことをほとんど知らないのに 対して、これだけ知識があるとはとても驚きだった。

 


英語を話す陽気な男


 結局1時間待ったのだが、ついにオシュ行きの人は現れなかった。時間は既に 9時を回っていて、そろそろ出発しないとオシュに今日中に着けなくなる。オシュまでは 12時間の行程なのだそうだ。できれば明るいうちに着きたいので、決断するのは 今しかなかった。いろいろ考えた結果、1800ソム出しても良いから、一人で 出発する事にした。陽気な男によると、たとえ一人で出発したとしても、途中で いろんな人を拾っていって、そしてそこで稼いだ分の金額をこの1800ソムから マイナスして行くことが出来るのだそうだ。それに期待するしかない。

 古いロシアの車、ヴォルガで一路南を目指す。運転手は48歳の紳士で、英語は 全くだめだが、とにかくなにかとやさしい男だった。車は最初遠くに山の見える のどかな平原を走っていたのだが、すぐにその「遠くに見えていた山」が眼前に 迫って来て、そしてその山を登りはじめた。なるほど危険だ。つづら折りの山道 をえっちらおっちら登って行ったのだが、道は舗装もされておらず、もちろん ガードレールも無い。一歩間違えば谷底だろう。 ほとんど東チベットを越えた時と同じノリの道がつづいている。今日は天気が 良いのでまだマシだが、これが雨でも降っていたら「大変」くらいじゃ済まされ ないだろう。それほどすごい道だった。

 


遠くに見えていた山


 トラックがほとんどとまるようなスピードで坂を登っており、僕らの行く手を邪魔している。 そして対向車とすれ違うたびにモウモウと砂埃が舞い、一瞬僕らの視界が奪われる。 それにその度に窓を全部閉めないといけないので、それもまた大変だ。けれども景色は 良い。これもまた東チベットの時と同じだ。雪を頂いた山が太陽の光に輝いている。 そしてそんな山がドンドンと眼前に迫ってくる。と言うかいつのまにか、僕らは その雪山の中にいる。いくつものカーブを曲がると、道は突然直線になった。 運転手によるとそこが最初の峠のてっぺんなのだそうだ。
 


峠の頂上。白が眩しかった


 車を降りてみるとそこは思った以上に寒い。すぐそこに雪があり、山の頂上が 近くに見える。この峠のてっぺんからはトンネルになるのだそうだ。3キロもある という。トンネルの入り口には料金所の様なものが在って、そこを過ぎると真っ暗な トンネルがはじまった。そしてそのトンネルを過ぎるとまた僕はまた息を飲んでしまう。 そこには壮大なパノラマが広がっていた。遥か下のほうには緑の草原が広がっている。 そしてその緑の草原を突き抜けるように、真っ白な道が遠くまで続いている。さらに その道の先には次に待ち構えている、背の高い山が僕の視界すべてに連なっているのだ。

 ヴォルガは一気にスピードを増して、山を下りていった。そしてあたりは 草原になり 、ユルタと呼ばれる丸いテントが出現した。モンゴルで見た「ゲル」と 全く同じ物だ。羊飼いが馬に乗っている。山がちであるという地形の特徴を除くと、 ここはモンゴルとそっくりだ。そういえば彼らはモンゴル民族の子孫だったはずだ。 僕らと全く同じ顔立ちが同じなので、とても親しみがわく。そんな草原の村で昼食 を取ることにした。村といっても通りに何軒かの家が並んでいるだけだ。その 家というのもどこからか、トラックの荷台を切り離して持ってきたような代物である。

 もちろん昼食にそれほど選択の余地があるわけでもなく僕らはジャガイモと羊の肉を 煮込んだしょっぱいスープと、パンの昼食を食べた。一人25ソム。いつもの癖で 運転手の分も僕が持とうとしたのだが、彼にやんわりと断られた。ここには観光客と いうのはほとんどいない。というか全くいない。彼らの側としても「外国人は 金を持っているのだから、おごってもらって当然」という僕が他の国で体験してきた 論理を持ち合わせていないのだろう。自分の分は自分で払う。考えてみればそれは 当然のことだ。

 おいしい空気を吸って、リフレッシュした後、またオンボロヴォルガに揺られる。 二つ目の峠は意外とあっさりだった。そしてタシコルガンの街に到着する。ここで ようやく同乗者が見つかった。この先のカラコルという街まで行く人が3人乗ってきたのだ。 湖を眺めながら2時間ほど走っただろうか、小さな街で彼らは降りて行く。 彼らがキルギス語で話をしているのが印象に残った。ここにはロシアあるいはヨーロッパの 匂いが全くしない。多くの人が僕が勝手に「キルギス帽」と呼んでいる、背の高い 白い三角帽を被っている。

 カラコルを越えると道が閉鎖されていた。その時時間は6時だったのだが、8時まで 開かないという。ここはまだオシュから200キロ程距離のあるところだったので、 どうやらオシュに着くのは深夜になりそうだ。とはいってもどうにもならないので、 運転手と一緒に近くにある食堂で夕食でも取りながら待つ事にした。そこは魚の フライが名物で、この上なくおいしかった。北海道の支忽湖名物のヒメマスに 似た魚だ。あまりのおいしさに骨までバリバリと食べてしまった。

 道は思ったよりも早く、7時半に開いた。ここから先も断崖絶壁の中を切り開いたような クネクネと曲がる道が続く。今道路工事をしているところだそうで、一部はこの上なく 快適なのだが、大体は片側通行の砂利道で、だから思ったよりも時間がかかる。9時過ぎに ようやくついた街で、僕は運転手に頼んで電話局に寄ってもらう事にした。実は 僕はオシュに着いた後すぐに連絡を取らなくてはならないところがあった。 それは昨日会ったムラートの実家だ。ムラートの弟が最近アメリカ留学を終えて 帰ってきたところらしく、彼がなにか安い宿をさがしてくれることになっていたのだ。 今朝出発する時には遅くとも9時過ぎには到着するだろうと思っていたので、 のんきに構えていたのだが、このまま行くとオシュに到着するのはいったい何時に なるのか分からず、だからあらかじめ電話をしておく事にした。

 ムラートの弟、ムフタールとはすぐに話が通じた。彼によるととにかく彼の家に 来いという。そして住所を教えてもらう。僕はかれに多分僕がオシュに到着するのは 11時すぎになるだろうということを伝えて、電話を切った。深夜に見知らぬ街に 付く事の不安が一気に軽減された。

 この街を過ぎるとあたりは暗くなった。途中何人かの男達が乗っては降りて行く。 そして車は二度ほどウズベキスタンの領内を通過した。この辺の国境は複雑で、 道はたった数キロだけなのだが、ウズベキスタンを通過する個所があるのだ。 その度に検問があり、外国人である僕はすぐに目を付けられてしまう。キルギスの 方の検問は甘いのだが、ウズベクの方はなかなか厳しかった。ただ、僕はまだ期間は はじまっていないにしても、ウズベクのビザを持っていたので、それほど困る事も なかった。しかし、最後の検問では運転手がなにかいちゃもんをつけられたらしく、 彼は20ソムを払わされたのだそうだ。

 結局オシュに着いた時にはもう12時半を周っていた。そして、住所からすぐに 場所が分かると思っていたムフタールの家に着くのに散々迷ってしまい、結局 彼の家の呼び鈴を鳴らしたのは1時を過ぎていた。運転手が最後まで一生懸命 彼の家を探してくれたので良かったものの、もしどこかで放り出されていたら大変な ことになっていた。運転手にはとても感謝している。

 家では、ムフタールとお母さんが僕を迎えてくれた。意外にもお母さんも英語がしゃべれるらしく、 「とにかくシャワーを浴びなさい。そして話は明日の朝する事にして、今日はここで おやすみなさい」と言ってくれる。僕はとにかく旅の疲れを落として、すぐさま 泥のように眠りについた。