貴重な時間だと思った。ナギズと最後の食卓を囲んでいて、そう思わずには いられなかった。ナギズはいつもニコニコしている。そして僕に沢山のものを 与えてくれる。仕事で忙しい時期にも関わらず、いつも僕の相手をしてくれる。 ただ、バスの道すがらたまたま知り合っただけの僕にこんなにも親切にしてくれる。 そんなナギズと正直に言ってもう二度と会う機会はないのだろう。僕は なにも恩返しをできない自分に歯がゆさを感じながらも、いまこの時を 大事にしたいと思わずにはいられなかった。

 3時にナギズはホテルに来ると言っていた。けれども彼は姿をあらわさない。 僕は部屋で他にやる事が山ほどあったので、特に気にはしていなかった。なにしろ 僕は一日中時間のある通りすがりの旅行者なのだが、相手はこのところ土日も 休みなく働いている忙しい生活者なのだ。ただ、このまま逢えずに別れるのだけは いやなので、最悪の場合今夜遅くにでも電話しようと思っていた。が、彼は 7時に電話をくれ、そして8時に僕のホテルにやってきてくれた。

 彼は最近かなり忙しく、今日も3時の約束を守れそうに無かったので、3時に 電話をくれたのだそうだ。けれども僕が外出していると言われてしまったのだという。 僕は3時には絶対にホテルにいたのだが、このホテルの電話はなかなか 曲者で、何度も来るはずの電話が来なかったので、きっとまた故障したのだろう。 僕にとってはそんなことはどうでも良く、とにかく彼にもう一度逢えただけで 満足だった。

 早速近くのカフェで食事を取る。カフェに行く前に僕は一つの約束を彼とした。 お願だからここの会計は僕に持たせてくれと言ったのだ。それじゃないと 僕はここに入らないとまで言った。するとナギズはしょうがないなあという 顔でうなずいてくれた。だから僕は安心して中にはいり、ビールや食事を 頼んだ。

 ちなみにナギズは英語を話せるわけでもない。僕らはいつも中国語で話を していたのだ。といっても僕の中国語能力は幼児レベル以下であることもあり、 僕らはもっぱら筆談で意志疎通を図っていた。しかしナギズの母国語は カザフ語で、中国語は外国語にあたるので、(中国ではカザフ人はカザフ語で 教育を受けている)彼の方も漢字を書くのが大変そうだった。だから僕らの意志疎通 にはいつもとても時間がかかっていた。

 会計の時に僕は安心しきっていた。そしてゆっくりと財布からお金を出そうと すると、ナギズがニッコリ笑っていつのまにか先にお金を払ってしまっていた。 僕は必死で抵抗してお金を払おうとしたのだが、彼はどうしても受け取ってくれない。 最後の最後まで彼におごられっぱなしだった。じゃあ僕はいったい何を 恩返しすればいいのだろう。

 


ナギスとイルダーナ


 そのうち僕らはナギズの家に行く事になり、今度はアルトナイも含めて 別れの酒を酌み交わす。いつのまにか僕らは筆談を止めて直接口で会話を 交わしていた。不思議と意志が通じている。僕らは言葉ではない何かで 話をしていたような気がする。アルトナイの笑顔とナギズの笑い声が 小さなキッチンを満たしていた。僕はその間中、熱いものが込み上げてくるのを 必死に押えていた。未知なる国に入る事に恐れさえ抱いていた僕にとって ナギズは救世主だった。それは中国に入った時のヤンさん達や、バングラ に入った時のクリム達に通じるものがある。また一人忘れられない人と 出会ったのだ。

 結局僕は彼らに何の恩返しも出来なかった。しいて言えば、彼らの家に 一時の笑いをもたらしたくらいのものだ。旅をしていると与えられるものが とても多い。そして今迄はいつもそれを受け入れるだけで終わっており、 更にはそのうちに感覚が麻痺してきてそれが当然とさえ思うようになっていた。 けれども最近はそうではなくて、旅人だからこそ、多分そのあと二度と逢えない のだからこそ(旅で出会った人にもう一度逢って恩返しをしようと考えはじめたら、 もう一度世界一周をしなくてはならない)、その時に出来るだけ恩返しを しなくてはならないのだとようやく気がついた。

 とは言っても、結局僕はなにもできなかった。ナギズは僕がタクシーに 乗るところまで一緒に来てくれた。そして別れの瞬間に僕らは固い握手を したあと、抱き合っていた。それがとても自然だった。そして僕らの心が 最も強く触れ合った瞬間でもあった。さよならは言わなかった。 たぶんもう逢えないのはお互いなんとなくわかっていたが、それは 言ってはいけない言葉のような気がしてならなかったのだ。

 タクシー乗ってからも僕の頭にはあのナギズの笑い声がずっと響いていた。 また一つの別れがここにあった。