眩しさで目が覚めた。夕べ、良く眠れたとは言い難い。 夢と現実との間をさまよっているような、そんな浅い眠りを 繰り返しいた。昨日ウルムチを発ったバスは、一晩中休むことなく カザフスタンのアルマティ目指して走っている。 思えば、座席バスに揺られて夜を明かしたのはほぼ一年ぶり のことだ。それは東京から下関までの長距離バスことで、 あの時は旅立ちの興奮も手伝って、ほとんど眠れなかった。あれからもう一年ちかく もたってしまたのだ。そう思うと、時の経過の速さを思い知らされる。

 時計を見ると、まだ6時半だ。周りの人々はもう起きだしていて、ざわめきが 聞こえてきたのだが、僕はまだ意識が半分眠りの世界のままで、だから もう一寝入りを決め込もうとした。けれども、カーテンを開けて、周りの景色を 見て、思考が止まった。

 朝の光が輝いていた。力をみなぎらせている緑の草原と、そのすぐ後ろに 真っ白な雪を頂いた形の良い山。その背後には透明な水色の空。更に 反対側の窓からは、藍色の湖が見える。そしてその湖の先にも山がそびえており、 そんな景色は朝の光を乱反射させて、視界に入るすべての空間 を勢いの強い光で満たしているのだ。

 


目が覚めるような景色



「おーっ」

 僕は思わず声を出してしまった。声をださずにはいられなかったのだ。なにか 新しいことがはじまることを告げるような、そんな光景だ。これから僕の 旅の後半戦がスタートする。まるでそれを祝福してくれているような気がして、 無性にうれしかった。だから、もちろん再び眠りにつくようなことはせず、 僕は食い入るように、ずっとこの荘厳な景色を堪能していた。

 山を越えると、平原を走る。このころ最初のパスポートチェックがあった。 それから国境に到着するまで、合計3回のチェックが続く。9時半過ぎに 中国側の最後の街に到着した。国境のゲートがすぐそこに見える街で、 何人かの乗客が降りていき、その後バスはなにかの手続きのために ホテルのようなところの前でしばらく停車する。

 ナギズと最初に言葉を交わしたのは、昨日の10時過ぎにバスが最初の 休憩をとった時だ。彼の風貌から当然中国人だと思っていた僕は、バスから 降りるなり、彼に中国語で話し掛けていた。そして僕らはしばらく会話し、 夕食を一緒にとった。ナギズはどこからかビールを買ってきて、僕にご馳走 してくれたので、僕は夕食代を持つことにした。飯を食いながらいろいろな 話をしているうちに、彼が中国人ではなく、カザフスタン人であることが わかった。漢民族とは風貌が異なるには異なるのだが、アジア人的な顔をしており、 だから、少し意外な気がした。

 


ナギス


 そんなナギズと意気投合してしまい、ナギズは「アルマトイに着いたら 家においでよ」とまで言ってくれた。いつも新しい土地に入ると新しい出会いが 待っている。今回のナギズとも最初に言葉を交わした時から、そんな出会いを予感 させられた。なんだかポーンと懐に飛び込んで行っても大丈夫そうな、そんな青年だった。 彼は1970年生まれの27歳で、だから僕と一つしか年が違わない。そんな 年が近いことも、なにか共感できる点だった。思えば大連のヤンさん達も、北京 の曹くんも、バングラのクリム達も、インドのノルブツェリンもみんな僕と同い年か 一つ違うかだった。そしてそんな彼らとは、なんだか無条件で通じるものがあり、 とても良い関係を築けている。ナギズもそんな中の一人のような気がした。

 だから、国境の街に着いた時も、僕はナギズに促されるままに、手洗い場に向って 顔をあらったり、売店で買い物をしたりして過ごした。この街から既に カザフスタンというかロシアの匂いがプンプンと漂ってくる。それは 文字だ。ウイグル地区では文字は必ず漢字とウイグル文字の併記だったのだが、 それに今度はロシアのキリル文字も加わったのだ。街に居る人達は今迄とは それほど変わらないのだが、それだけで街の様子が一変する。 バスはそこに20分ほど 停車して、それからすぐに国境に向けて出発した。

 


乗っていたバス



 国境を一緒に越えるメンバーは全部で7人だった。ナギズ、僕、 ウイグル人の家族3人、ウイグル人の女性一人、それからドイツ人のバックパッカー 一人。このドイツ人というのがなかなか困った奴だった。南米に住んでいるという 彼は、とにかく何故かいつもイラついているのだ。実は彼のことは ウルムチに居る時から何度か見かけていた。天池でナヌーとイギリス人の青年と 話をしていた時に、彼が僕らの前を通り過ぎって行って、その時にイギリス人の青年が、 「あ、あの人昨日紅山賓館のフロントで、フロントの人相手になんだかわからないけど すごい剣幕で怒鳴っていた人だよ」と言い、するとナヌーは「ああ知っているわ、 彼、さっきもバスの切符売場ですごい剣幕で怒っていたわよ。いったい何をイラついて いるのかしらねえ」と言っていたのだ。

 二人とも、彼に対して否定的なニュアンスで語っていたのだが、僕は直接話した 訳でもなく、他人の評価で人を判断するのは良くないと思い、最初のうちは 彼と普通に接していた。けれども、国境を通過する頃には極力彼には関わりたくない と思ってしまっていた。結局そんな奴だったのだ。何かと自分勝手で、さらに 地元の人を常に疑っている。彼の荷物が邪魔だったので、運転手がどけようとすると このドイツ人はすごい剣幕で怒った。結局荷物はバスの後ろの方に 置くことになったのだが、ウイグル人の家族が後ろに自分の物を取りに行くたびに 、立ち上がって彼らが自分の荷物を触らないかを監視している。更に彼の隣に ウイグル人が座ったのだが、そうすると貴重品袋を僕の隣の座席に置かせてろと 言い、僕が貴重品を置かれても僕は責任を取れないから止めてくれと言うと、今度は 僕に罵声を浴びせてきた。

 その後も、人の席に勝手に座って占領してしまったり、バスが休憩を終えて 出発しようとしても彼だけどこかに行ってしまっていたりと目に余る言動が 目立つ。そう思っているのは僕だけではないらしく、他の乗客みんなが、 「あのゲルマン人はしょうがないわねえ」という感じになっていた。きっと 彼は旅に疲れ過ぎているのだと思う。今迄、沢山の嫌なことがあって、 それで神経過敏になっているのだろう。中央アジアのビザをとるのに大変苦労した と言っていたし、カザフはトランジットしか取れなかったので、バスが遅れると 大変なことになると焦っていた。そして「僕は中国が嫌いだ」とも言い放った。 そんな彼を見ていて、もし僕があんな状況に陥ってしまったとしたら、その場で 旅を止めようと決意した。彼はなんだか旅を楽しんでいないように見えたのだ。

 さて、国境だ。中国側の出国手続きはあっという間だった。見慣れた制服を きた係員がポンポンと手続きをしてくれる。中国のパスポートを持っている ウイグル人4人には健康診断書の提出を求めていたが、外国人である僕は フリーパスだった。通過するのに5分もかからない。あっけない国境だ。 国境を出るとまたバスに乗る。一キロほど先にカザフ側の建物が見えてきて、 ちょうど中間地点にフェンスが張り巡らされており、その先がもうカザフスタンだった。

 カザフの国境では少し時間がかかる。中国側を出る時にはそんなに人がいなかった はずなのに、こちらの国境には沢山の人が並んでいて、それで時間がかかったのだ。 国境の建物に入るなり、雰囲気がガラっと変わった。白い肌、茶色い髪、青い瞳。 西洋人の世界だ。そんな彼らが迷彩色の軍服ややけにでかい帽子をかぶって 、黙々と作業にはげんででいる。けれども予想していたよりもずっとフレンドリーだ。 僕が日本人だと分かると、いきなり空手の真似をしたりして、ウインクする。

 ここではそこにいる係員にパスポートを渡すと、係員が入国用紙に書き込んで くれる仕組みになっている。中国人の場合は問題無くその場で書き込んでくれるのだが、 第三国の外人である僕の場合は、その係員が一度パスポートをどこかに持っていって なにか確認してからようやく用紙に記入してくれた。入国審査官には、カザフで どの街に行くのかを入念に質問されて、けれども特に予定を決めていない僕はその 質問に適当に答えてお茶を濁しておいた。 その後は税関で、持ち込むお金を正確に記入させられた。それが 終わって晴れて入国である。

 銀行で両替をして、この国のお金、テンゲを手に入れる。中国元からの両替は 不可で、アメリカドルの現金のみを受け付けてくれた。新しいお札を眺めるのは その国に入った時の大きな楽しみの一つである。この国のお札の面白いところは 3テンゲ札というのが存在することだ。いままで1、2、5の単位でのお札は いたるところで見かけてきたが、3の単位のお札はあまり見たことがない。 この国の人々は計算するときの思考方法が異なるのだろうか。

 この国境を越えると、とても大きな変化があった。実はこの変化は本来 国境うんぬんに全く関わらない変化のはずなのだが、僕にとってはその変化は 一気に別の世界に入ったような、 あまりにも劇的な出来事だった。それは雨だ。たったさっきまでいた中国では 天気はほぼ快晴に近く、太陽が燦燦と輝いていたのに、この建物を出た瞬間 激しい雨が地面を叩き付けていたのだ。あまりにも急な天候の変化に大変驚く。 最初はこれは一過性のにわか雨だと思っていたのだが、結局そのあと、勢い こそおさまりはしたが、常に雨が降り続いていた。激しい雨の降る国、それが 僕のカザフスタンに対する最初の印象だった。

 カザフスタン側はこの国境の建物以外はしばらく荒れ果てた何も無い土地が広がって いた。今迄にこれに似た経験を何度かしている。たぶん中国の政策なのだろうが 、中国の場合は国境線上にある程度の街が存在するのに対し、隣国では国境の 建物と、時には数軒の店が存在するだけで、人の住む気配があまりしないのだ。 これはモンゴル、ラオス、ネパールと三つの国境で感じたことだ。そしてカザフスタン の場合も同じだった。

 


何も無いカザフスタンの風景



 バスは1時間ほど走ってからようやく人家がちらちらと見える場所を遠り過ぎる。 村の人々に金髪が目立つ。そして家の造りや景色がなにかヨーロッパ的な匂いを 発散している。今迄になく大きな国境を越えたような気持ちになった。更に 代わり映えのしない景色の中をバスは7時間ほど走った。件のドイツ人は あたふたと今日泊る宿についての情報を、国境から新たに乗ってきた中国人の 青年やナギズに聞いていたが、彼らが親切にいろいろと教えているにも関わらず、 また「そんな高いところには泊れない」とイラついていた。アルマトイはホテルが 高いという情報は今まで複数の人から聞いていた。安くても20ドルは覚悟しなくては ならないのだそうだ。彼はその情報を知らなかったのらしい。彼は僕と部屋をシェア したそうだったが、僕はすでにナギズの家に呼ばれていたので、断った。

 8時少し前に、ナギズが「ノリ、ここで降りてタクシーに乗って行こう」と 声をかけてくれたので、残りのみんなに別れを告げて、バスを降りた。バスが 走り出してから26時間たっていた。(バスはウイグル時間で5時に、カザフ時間では 6時に出発した)タクシーは特に屋根にアンドンを置いているわけではなく、 何でもいいから手をあげれば停まってくれるのだそうだ。 車はすぐに市内に入り、大きな通りからアパートの沢山あるエリアに入り、 それがナギズの家だった。

 ナギズは奥さんと2月に生まれたばかりの子供と3人暮らしだ。ちょうど僕らが 到着した時にはナギズの奥さんの母親と父親が訪れていたところだが、僕が一緒に いても特に驚くでもなく、暖かく歓迎してくれた。部屋は日本の新婚が良く住んでいる ような広さのアパートで、10畳ほどのリビング、6畳ほどのベッドルーム、 そして4畳ほどのキッチンと2畳ほどのバス・トイレで構成されている。花の沢山 ある家だった。何でも奥さんのアルトナイの趣味なのだそうだ。それにクリスタルの グラスのコレクションもなかなかすごい。思ったよりも裕福な家のようだ。

 


ナギスとイルダーナ



 アルトナイの父母が去ったあとも、入れ替わりにナギズの友達が来て、家は 常ににぎやかだった。アルトナイの手料理、カザフスタン風肉じゃがをおかずに ウォッカをご馳走になり、楽しい夜が更けていった。またなにか楽しいことが 起こりそうな、そんな予感をはらんだ一日だった。