空がオレンジ色に染まっていった。そして紫から闇へと姿を変えていく。 光りの球体は真円を描いて地平線の彼方へと姿を消した。幼いころの景色と なにも変わらない。変ったことと言えば、原野だった景色に沢山の 家が建ったこと。そして太陽を追いかける「道具」が自転車から自動車 へと切り替わったことくらいのものだ。僕は相変わらず同じ事を続けている。 相変わらず夕陽を追いかけている。

 あの旅から半月が経った。あの日二年ぶりに見た日本は霧に霞んでみえた。 博多港はひっそりと朝靄に沈むように横たわっていた。 前の晩、僕は飲み明かした。日本に旅行に 行くのだと言っていた韓国人2人組と、友人の結婚式に出るのだと言っていた 韓国人の青年の3人に囲まれて、久しぶりに日本のビールで喉をならした。 日本語と韓国語と英語が飛び交う会話の応酬の中で僕は心地よく酔払う。 旅の最後の宴(うたげ)だ。そして次の朝、彼らと最後の記念撮影。 その後、その韓国人達と別れを告げて、接岸と同時に下船した。

 船の乗客は95パーセントが韓国人で、日本人は数えるほどしか存在しなかった。 入国審査も日本人はあっという間だ。僕の番が来る。少々緊張してパスポート を提示するが、入国審査官は僕のパスポートのスタンプもチェックせずに、簡単に 入国スタンプを押してくれた。あまりのあっけなさに、少々拍子抜けしてしまう。 ただし、税関検査は手強かった。僕はかばんの隅から隅までを点検されて しまう。やましいものは何もなかったので、すぐに開放されたが、検査官は 僕のパスポートを珍しそうに広げて、しきりに感心してくれた。あまりにも 感心しすぎて、僕の検査が終わってもパスポートに見とれて、他の係員 に怒られていたくらいだ。

 博多港を出て、博多駅までタクシーを利用することにした。まずタクシーの 扉が自動的に 開いたのに驚いた。それから料金。旅の間のお金の計算はすべてドルで考えて いたので、ここでもどうしても円をいったんドルに換算してしまい、その金額 に驚いてしまう。もったいなくて、もったいなくて涙が出そうになる。 ただし、これはメータータクシーだ。ボラれる心配は無い。それからすぐに 世界最速を誇る500系のぞみという 列車に乗った。のぞみは 全く揺れずに、すべるように東京をめざす。時速300キロもの 高速を出しているとは にわかには信じがたい。それに人々には秩序がある。駅の構内を歩いて いるだけでもそれは身に染みて感じる。荷物に対する気遣いもずいぶんと楽に なった。日本はすごいところだなあ。僕は改めて自分の国に惚れ直した。

 ただし、ちょっとだけ座りの悪さを感じた。それは言葉だ。安食堂に 入っても、駅の売店でも、当り前ではあるのだが、みな流暢な日本語を操る。 周りの人達の会話に雑音ではなくて意味を持った言葉として自然に反応する。 道を歩いている時に、他の人が日本語を話しているのを聞くと、おもわず 「あ、日本の方ですか?」と声をかけそうになる。そして「あ、ここは 日本だったんだ」と思わず心の中で舌を出す。

 東京に着いたその日は、めまぐるしく時間が過ぎ去っていった。 日本に帰って来た事をしっかりと実感できないままに時は流れていった。 その晩は幼馴染の家に泊まり、次の日の午後に姉の家に落ち着いた。 姉の家のドアを開けるなり、もうすぐ2歳になる甥が僕の姿を見つけて、 両手を広げてニコニコ笑いながら 僕の胸に飛込んできた。僕はそんな彼を抱き上げる。不思議な感覚 だ。なにしろ彼は僕がモンゴルの草原で物思いにふけっている時にこの世に 生を受けたのだ。つまりこれが僕らの初対面である。なのに、そんな感じが 全くしない。ずっと前から知っているようなそんな感覚だった。ずいぶんと 重たいその体を抱き上げながら、僕は彼の歓待になんだかうれしくなってしまった。

 姉の家に着いて、それまでずっと腰に巻いていたキャッシュベルトをはずした時、 なにか大きな重圧から開放されたような感覚にとらわれた。真っ白だったキャッシュ ベルトは46ヶ国の埃にまみれて、既に茶色に変色している。そしてついに穴まで 空き始めていた。このキャッシュベルトは一度しか洗っていない。ネパールの ポカラで一度洗った切りだ。その後直ぐに肝炎で倒れた僕は、もう一度このキャッシ ュベルトを洗うと、また何か良くないことが起こるような気がして、どうしても 洗えなかった。そんなキャッシュベルトに、さよならをする日がとうとうやってきた。 それからもう一つ、僕は腰にぶら下げていた貴重品袋に入っている五円玉に そっと手をやる。これは17年間の長きに渡って飼っていた犬とお別れする時
に一緒に 焼いた五円玉だ。この五円玉は僕にとってはいわば唯一のお守りみたいなもの。僕は「無事に帰ったよ。どうもありがとう」と念じながらその五円玉 に力をこめた。

その晩はどうにも寝られなかった。 旅から帰ってきて初めて一人でゆっくりと物を考えられるようになった最初の時間だ。 布団に横になって、天井を見つめていると、次々と旅が走馬灯のように駆け巡っ ていった。いつしか僕は枕を濡らす。最初の一滴が瞳から流れ出すと、 もう止められなくなった。自分でもどうして涙が溢れてくるのかはわからない。でも この高ぶった感情を押える事はできなかった。そんな時、姉が僕の様子を見に来る。僕は彼女に気付かれないように と瞼を閉じる。姉は 僕がもう眠っているものだと勘違いしたようだ。僕の布団を掛け直したあと、 「疲れているでしょう」とつぶやいてそっと扉を閉めた。それからも僕は 潤んだ目で天井を見つめ続けた。いつまでも、いつまでもあの旅のことを考え 続けた。一つの区切の時だった。

 それ以来、どういう訳か「旅」のことを全く考えなくなった。驚くほど自然に 日本の生活になじんでいった。また忙しい日々が始まった。就職活動をする 為に2年ぶりにネクタイを締めて、地下鉄に乗ったり、その他いろいろな人に 会っているうちに、東京での日々は過ぎ去っていった。そして日本に帰ってきて から5日後に、僕は北の大地を踏みしめた。北海道でも僕を待っていたのは 忙しい日々だった。いや、それは正確ではないかもしれない。僕はわざわざ 忙しい日々を送っていたのだ。一瞬の隙間があれば、またずっとあの旅のことを 考え続けてしまいそうで、だからその隙を与えないようにと必死で忙しくしていたの だ。

 正直に言おう。僕はあの「旅」のことを考えるのが恐かった。何故恐かったの かはまだ上手く言葉にはできないが、どうしても考えたくなかった。あの 体験は生生しすぎる。思い出として語るにはあまりにも重過ぎる。大好きだった 日々だからこそ、腹に応える。それはまるで失恋をした時に似ているかもしれない。 大好きだった彼女にさよならを言われた時の感覚に似ているかもしれない。 もう二度と元へは戻れない。前を見なくては行けないのはわかっている。 だから、前へ進もうと努力している。そして「過去」を思い出すのに臆病になる。

 時間が必要なのだろう。自然体で良いのだと思った。そして、 あれから半月が経って、今日久しぶりに夕陽を見た時に、気持ちがふっきれたような気がした。 もうあの旅を思い出しても大丈夫なような気持ちになった。

 幼い頃、地平線の向うには「夢」が広がっていた。今でも同じように 地平線の向こうには相変わらず「夢」が広がっている。けれども今は「夢」だけではない。 今の僕にとっては、地平線の向こうには「思い出」も一緒に転がっているのだ。 それはとても幸福なことだと思った。車を運転しながら僕はそんなことを 考えた。そして、ようやくこの「あとがき」を書く気になった。

 気が付けば僕はもう30歳になっている。


おわり

  1999年6月20日午前1時。北海道江別市の自宅にて