久々にブログを書いてみようと思います。

 

先日、菅沼孝三ドラム道場の千葉校講師・代表である #辻和也 先生主催のイベントに参加してきました!チューナーとして。

 

 

ご参加いただいた皆さん!本当にありがとうございましたっ🤘

 

参加頂いた方々から終了後、反響を頂き、やはり皆さん躓いているコトや、インフォメーションとしては大体ソコなんだな...。と実感できました。

 

正直な感想、私がドラムを始めた頃よりも圧倒的に情報量は増えてますし、上手いプレイヤーも増えてます。

Youtubeを初め、コラムサイトなどがかなり立ち上がり、Q&Aに対して短時間で聞きたい情報に到達できる便利な時代です。

 

しかし、そんな情報が縦横無尽にアクセスできる時代であっても、どう言う訳だか皆さんのモヤモヤは無くならない訳ですね...

 

 正直、だろうな。。。。

 

と思っています。

 

結局ですね、画面の中でやっている事を手元で再現しても同じ機材同じ材質揃えたところで、近いニュアンスにはなっても、そうはならないのが現実です。

そう言うお話しを会場でもしたら、結構納得されてた方も多かったですよ。

 

結局、チューニングの基準って、雑誌を含めても凄く曖昧で、全体を捉えたかの様な情報がデカデカと掲載されたり、Yotubeの題名に乗ったりしてるんですが、オーディエンスが本当に知りたい一歩入った所って、多分情報として出てないんだろうな...って思いましたよ。。。

奥が深いと言えば奥が深いのですが、僕個人はやっぱり皆さんがいい音でプレイして欲しいって思うんですね。

 

 

コロナに突入して、ウクレレやギターなどの巣篭もりセットとかそう言うアイテムってめちゃくちゃ売れたらしいです。

その延長線上で、電子ドラムも結構売れたんだとか。そう言うお話しを聞きました。

ドラムをやる人口が増えてくれることは、本当に素晴らしい事だし、いい事だと思います。

 

需要が一気に増えて、さまざまな生活スタイルの人達が、かっこいい事に挑戦しよう!って思う、その部分をもっと分厚くしなきゃだと思うのですが、書籍系はやはり専門誌過ぎてある意味ハードル高いんだと思います。 

目指してる視野が、もう「中毒」「オタク」と言うかサブカルチャー的なポテンシャルにならないと、やっぱり厳しいんでしょうね。。。

楽器店に行くのも、やっぱり恥ずかしいとか、難しいとか、店員さんから相対される事を躊躇う人も多いと思います。

 

そんな中で、情報を獲得して、購入した方もとても多いんだと思うんですが、その情報自身が、何を目指している事だったのか?

チュー事なんですよ。

メディアリテラシー、なんて事は持ち出すつもりもありません。ただ、ガイドとした情報が、「ビギナー、初心者向け」

の情報だったのではありませんか??

 

発信している人や、企業もとても考えて言葉を選んでサイト運営している事も知っています。

ただ、その見ている人は、情報を得て行動にした時点で、もうその「初心者では無い状況」がいつか、必ず来るのです。

 

 

そう言う意味で、「あなたが初心者を脱する時」初心者と言う巣立ちをする時」毎日と変わらない日常である筈なんです。

誕生日みたいに、X(Twitter)で風船が飛ぶわけでもありませんし、フェイスブックでいきなり『おめでとう』を投稿されるわけでもありません。

膨大な情報と、明確化された筈の選択肢がこれだけあっても、自分が今どのスキルや困ったことへの解決策を模索する時に、現在地が分からないほどの情報量で「もうあなたは、中級者です」と評価されない訳ですから、堂々めぐりなんですよね。。。。

 

初級者〜中級者に変態する時、確実に誰かが導き、必ず守ってあげなければいけない状況が有る。

と言う事なんだと思います。

 

そう言う部分を、音楽で悩んでる人や、業界に居る人が瞬時に判断して、必要な情報をアサイン出来る体制になったら、もっと楽しい事が着実に皆さんの人生を豊かにして行くのではないかと思っています。

 

 

チャンスがあって、誰かの目の前で演奏をした時に、とても良い音素、晴らしい表現がオーディエンスに伝わったならば、それはあなたが憧れたアーティストになれた瞬間ですし、誰かの憧れになった証拠だと思います。

こう言う部分のノウハウをビジネス化しようとする人もだいぶ多いですが、これはビジネスには絶対になりません。

もし、なるのであれば、今日のこの記事を読んだ人が、何かに気がついて意識が変わり、それぞれの持ち場で何かを考え始めて表現し始めた時に市場循環が出来ます。付加価値になる前に、初心者を確実に責任もって誘導すると言う事がやはり出来て無いのでしょうね...。

 

こう言う部分に関して、今後ブログを書いていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子供との接し方が問われているこの時代。

地元の5歳の子の件もそうだけど、あれは誰が悪いと言う個人や立場特有のマウント取りの話しではなく、関わっていない人達の無意識がどの様に日常を捉えているか?って話が本質なんだと思います。

 

お店の通報。間違いなく何か臭うと言う直感...親は子を守るだろうけど、その時に必要な処置と可能性の余白をどれだけ担保させてあげられるかは社会の本当の意味の体力と体質の話しだと思う。

 

企業倫理や理念、人材の教育や経済的な話しは皆んな悩みながら打開と可能性を見極めるけど、『人がどうなってるか?』についてのマネージメントはマジで日本ゴミ以下。皆んな本質自分以外に興味が無い。

 

人材がどうのこうのって言ってる人は正直信用ならない。と最近確信してます。その前に自分が一塊の人間としての信用をどこまで皆さんに抱いていただけてるか?と言う部分もこの発言の重要な所であるのは痛烈に自覚しては居ますが...

 

ですがね、30歳を手前にして結婚や子供も未だな人間が小学生の女の子の感受性をどこまで受け切って社会に貢献しようか?って本来は親御さんだって大変な物を他人が介入すると言う暴挙...子供教育の専門家では無いんですワタシ。

 

ですけど、10歳以下の子が、累算24時間の実稼働以下である程度のスタートアップが出来ていると言うある意味驚異的な実績は作りつつあります。そこは信用や信頼などと言う為替相場にも似た空気と態度の呼称では無く、本気で積み上げてる見えない物がある。

 

伸ばし方や接し方と言う対処療法では無く、その時の人の感情がどうなって居るのか?今までの自分が経験や知らなかった空間認識や匂い、感情みたいなものを自分自身が並列して、心拍呼吸、意識に至る隅々まで向き合う話し合いでは無く、同じ位置同じ方向、同じ目線で今何が起こっているのか?と言う事を科学して行く事が今の日本には完全に足りて無いんだと思います。

自分がやって居ることは日ハムの新庄監督のやり方に極めて近い。僕もそんなに能力持ってないけど、他人の状況を理解すると言う意味では近いシンパシーを感じてます。

 

良く親御さんがこの時期「こんなに成長して」と涙ぐむ季節でしょうが、それは如何に子供の目線を知らなかったか...と言う状況の違いを短時間で圧倒的な情報量で誤差修正している状況。短時間で状況の変化は理解速度が追いつかなく感情が動きやすい。つまり価値観を誘導し易いのです。この権化がエンターテイメントやメディアのビジネスモデルの根底。おうちの中のテレビなんか最強で最高のツールです。閉鎖的状況が変わらないもので音や色の変化で興味のバイアスを誘導できます。

この方式を正しく使えば何者にだって自分を導けると思います。どう言う意味でも...

親が全てを知る必要は勿論無いですし、親の人生は子の人生とも別ですから何もかもコントロールする親もどうかとは思いますが、要は本当に相手の全てを受け止めて考えてやれてるかどうか?

チュー水準が圧倒的に低すぎると言う感想なのです。

 

短時間でも、相手の読解速度と意識がどういう状況なのかをモニタリングして今何が起こって居るのか?と言うことを本当に理解している大人は政治屋だって多くない訳ですから、やはりここを本当にマネージメント出来る人材が育ちさえすれば、50年かかる通常の復旧業務を10年以下で正常化は可能でしょうきっと、目先の粗利に捉われなければ...

 

エンターテイメントの根幹はデモクラシーと背中あわせだと思って居ますが、万人がより興味を広げ深く人生を考察し、それをわかりやすく労わると言う豊かさの意味合いではこれに勝る物はありません。

自分も含めて正常化していくべきなんです。変えると言う違いを提供するのでは無く、その人の持っている素性を確実に大きく前進させる為に。

 

あの事件は、社会のそんな何も関わって居なかったで有ろう人達の何気ない日常の無意識が大きく関わっている問題なのだと思います。

 デモクラシーが正しい物だと思った時から、様々な物事の腐敗が進んだし、若者がこうやって死を選ぶと言うのは「絶望する者が増える事がせめてもの希望」と言う西部邁の言葉の正確さを伺わせる。

最近思う、政治と言うのは「政策」じゃ無いと言う事だ。

政治と言うのは極限の忍耐を極めていく事だよ。

コロナ一つ取ってみても、ワクチンに対しての法整備や対策と言う「政策」ばかりで、それを堪え耐えてる人間への配慮やその立場を強固に守って行く事=政治。と思うようになった。

日本は天皇を中心とする君主制度の国で有り、「民の釜戸」と言う天皇自らが民の釜戸からの煙を見て政策を考え何が最良なのかを自由に選択出来る。そう言う国柄な筈本来は。

東に登った太陽が西に沈み行く時、様々な人の考えが有りその中で生と死、希望と絶望、喜怒哀楽が有る不確定な大衆の日常が【社会】を作る。

一つの考え方で全てを覆えると言う考えがそもそも、救える声と救えない声の選別=「政策」で有る...と、その社会はどれだけ知ってるのだろうか?

そもそも、一人一人が大衆の一部であって「全て」では無いと知ってるなら特定の考えの意見と言う物を誇張などしない。

政策に巻き込まれると言う事は、自分は特殊で有り、搾取側なんだよ何かの。

特殊な自分も普通の自分も「自分」で有り、政策でどうにか出来る事ではそもそも無いのだと思うが私はね...

政策では無い。声を上げない奴は無視されると言うのがそもそも今の民主主義の根底なのよ。だからみんな声をあげるし、黙らないんだろぉ? その民主主義って奴は「階級闘争」を根底にした社会・共産主義に何時でも変容できる温床であって本当の民主民意が思い煩う事を解決して思える主義じゃそもそも無い。

政策と言ってるやつに、「無我献身」なんて聞いた事無いと思いますよ。

政策では国を豊かにできない。政策でこの数十年何が実ったのだろうか?声を上げた団体の本部会館が立派になったか、それに関わる連中の使用車が、カローラからベンツに変わったくらいの結果しか無い筈なんだよ。 

私のこの意見が正しいとも思いませんけど、高齢者寄りの「政策」ばかりで手が回らないなら若者は政策に非対応だからそりゃ死ぬしか無いんですわ。

【飲食店休業と、飲食系専門学校休校】ならこの状況を国が一括で面倒見て育めや。次世代育成と、創造が同時に出来るだろ。

フィールドは現場だ。學問を超えた実践で学ぶこの超えた物凄い事が入って来る筈なんだけど。しかも飲食店経営者は、若者の今が分かるならそれ金いくらつんでも知れない今が分かる筈だし...

【芸術系専門学校と芸術系職種】ならマッチングしてダイレクトで認識共有出来る様にすりゃあ良いじゃん。組織で有るから制限がかかるんだよなぁ...一人なら皆んな両手叩いて喜んでるんだし、一人の距離感が重要視されるなら、距離で物を攻めたら良い。

 

学校と言う組織は、もう役目をとっくに終えてる筈。新しいやり方には御旗が無いだけで、何か考えないと。

絶対に死ぬ事はは無い。

近代と言う500年続いた海外中心の常識が、自分達の日常で爆発する不満とカオスを変換するだけで、なにかに出来る本当に面白い時代が来ようとしてる。それに目を塞ぐその奴らの手を退けろ。